文官令嬢の小さな喜び
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例の仕事が完了してから数日後、さすがのミリアも足が震えるような事態が起きた。
「あっ、あの、宰相閣下、ご機嫌麗しく……」
ぎこちなくカーテシーをする。さすがに宰相本人の前に招かれれば緊張せざるを得なかった。
宰相の執務室は余分な装飾はないものの床板一つとってもよく磨き上げられている。部屋の奥にどっしりとした黒檀の机が置かれ、そこに壮年の宰相が深々と腰掛けていた。
宰相の背後には数人の補佐官たちが、静かに控えている。彼らの表情は一様に引き締まろうとしながらも、ミリアの隣りにいる筆頭補佐官を伺っているようだった。
「思ったよりおとなしいね。朗らかなお嬢さんと聞いていたが」
「彼女も緊張しているのでしょう」
「はい、私も人並みには緊張しております」
「なるほど、なかなか面白い」
宰相は豪快に笑っている。愛想笑いをしながら背中はひんやりと冷たい。
……呼び出されるなんて何か問題があったんだわ。あの書籍? そうよね。もしかして重大な――例えば国を貶めるような暗喩があって、指摘したことで国際問題になってしまったとか……!?
困惑のあまり考えがどんどんと横滑りしていく。宰相の咳払いが聞こえるまで自分の破滅を8パターンは想像しただろうか。
「さて、今回君を呼んだのはほかでもない。先日の輸入する書籍の一覧についてだ」
「はい。私はただ業務をこなしただけですけれど……」
「君の注意深さが、わが国を救った」
そこからはアレクサンダーが淡々と説明をしてくれた。調べた結果。あのようなタイトルの本は存在していないこと。あれはマデラ国の調査員が使う合図であったこと。「薔薇の種を蒔く」というのがスパイを送り込むことの隠語であり、恐らくは書籍を扱う業者に紛れた何者かがいるのだろうこと。至急彼らを探し出し、手を打つことにしたということ。
「情けない話だが、我々では薔薇の種のことまで気がつけなかったかもしれない」
「誰もあまり、薔薇の花があふれるような恋愛小説を読まないもので……勉強になったよ」
まあ、と感激にミリアはかたわらの男を見上げる。
「私がアレクサンダー様を想いながら読み耽った知識が、こんなふうに役に立つなんて、運命とは素晴らしいものですね!」
「ミリア嬢、余計なことを言うな」
たしなめられ黙っても、口元がゆるんでしまう。宰相閣下は面白そうに笑いだした。
「このような有能で明るいお嬢さんだ。専属の文官にすることも考えていいんじゃないか、アレクサンダー」
「宰相閣下の後押しが!」
思わず期待のこもった目で再び見上げると、アレクサンダーは黒い瞳をいつも以上にひんやりと冷たくしている。
「ごめんこうむります」
「お前、もう少し言葉を選んで……」
「わかりました。私、アレクサンダー様から『専属になってほしい』と言っていただけるよう、ますます精進いたします!」
「前向きでいい人材だね」
宰相は微笑みを消してミリアをじっと見つめた。その視線にややたじろぐ。
「そこで……この件に関し、君に特別な褒賞を渡したいと思っている」
「褒賞、ですか。それは例えば、お給料とか……」
「それでも構わない。どんなことでもいい、願いがあれば一つ言ってみなさい。たとえアレクサンダーが拒んでも、私が叶えてやろう」
「閣下」
疲れ果てた抗議をよそに、ミリアは両手を頬に当てた。
「それでは、あの、差し出がましいのですが……」
「うむ」
「今度、フィール侯爵家の夜会ありますでしょう? そのパートナーを、アレクサンダー様に務めて……いただきたく……!」
「パートナー?」
「いつも兄と一緒に行っておりまして! 私も一度でいいから、アレクサンダー様にエスコートしていただきたいという夢があったもので!
「わかった」
「もし、お相手がまだ決まっていなくて、それで夜会に出席するご予定で、それで、私でも差し支えないとお考えでしたら……!」
「わかった」
「え?」
「閣下のご命令だ。行こう」
う、嘘。嘘だわ。嘘でしょ!? 頬を思い切り自分で打ったので、周囲の文官が目を剥いている。
「ありがとうございます! 一生の思い出にいたします!」
天にも昇る心地だったミリアは、その後どのようにして仕事をし無事に家に帰ったのか覚えていない。家族に「アレクサンダー様にエスコートしていただくことになった」と言っても、兄は「かわいそうに、幻覚を見てるんだな」と憐れみ、父は父で「そんな、まさか」とうろたえるばかり。
「わかったわ。あなたが一人前の淑女に見えるように、私が仕立ててあげましょう」
「お母様、私初任給から今までのお給料をすべてドレスに使いますから!」
母だけが信じてくれた。持つべきものは女親である。
夜会の日、朝からミリアは支度に追われていた。
これまでアレクサンダー様に会うためと勉強に一心不乱だったミリアが、アレクサンダーと出会う可能性の高い夜会ですら「お母様、適当に見繕って下さい」と言っていたミリアが「今回は絶対に可愛らしいドレスを着ます」と決意を述べたため、母は感涙にむせびながら準備を整えてくれたのだ。
ミリアの柔らかな栗色の髪と、外見だけは幼く見える柔らかい雰囲気に合うわすれなぐさ色のドレス。そして……
「やっぱりきれい……」
銀色の細工に薄紅色の薔薇の細工が花咲く髪飾り。ミリアは鏡に映る自分の姿を、うっとりと見つめていた。
「ええ、とってもお美しいですよ、ミリア様」
ミリアに元気が一番を説いてきたメイドは、化粧の仕上げをしながら鏡の中で頷く。喜んでくださるかしら。鏡の中の自分はすでに頬を染めている。
あの日、褒章と言われてほいほいエスコートを頼んでもらったものの、その日の夜には寝付けないほど後悔した。上司の命令で、いやいや私と行かされるアレクサンダー様……そんな気の毒なことをしてもいいものなのか。あの方の自由な気持ちを尊重したい。でも、一緒に行きたい気持ちも捨てられない……どうすればいいの?
悩み続けて起きれば朝で、兄は幻覚のせいだと言い、父は相変わらずうろたえ、母は美容に気をつけるんじゃないのと叱咤する。あまりにもブレない家族に相談できず悶々としたまま出勤すれば、宰相命令を聞いてお祝いを言おうと待ち構えていた同僚上司はぎょっとしていた。
彼女の苦悩に対し、周囲の文官たちは「仕事相手とのエスコートなんて普通にある」「でも本命がいたら恨まれるかもしれない」「なんなら、俺が一緒に行ってやる」など、多角的な意見をくれる。しかし、その意見が多角的すぎて、ミリアは余計に混乱していた。
最終的に直接聞きな、という上司ののアドバイスに従うことにしたのだった。
その日の夕方、アレクサンダーを待ち構える。毎日一定の、彼が宰相への報告を終えて自室に戻る夕方の時間。柱の陰から思い切って彼の前に飛び出した。彼の従者が先に反応し、四、五歩後ろに下がってくれる。突然現れたのだが、アレクサンダーは真顔を崩さない。
「何かあったか」
「えっと、あの、夜会のエスコートなのですが……ご迷惑じゃなかったでしょうかっ?」
え、今更? とうっかり漏らしただろう従者の言葉が聞こえ、顔がカッと赤くなる。
「あの、今からなら、もしかすると、まだ……取りやめも出来るかも……」
「無理だろう」
続く言葉があるかと思って待ったが返事はない。途方に暮れていると、宰相補佐は思い出したように、胸の内ポケットに触れた。
「これを」
渡された小箱はなんの飾りもない素っ気なさだ。不思議に思いながら開けてみると、そこには銀細工の髪飾りがキラキラと輝いていた。
「これは……?」
「パートナーにアクセサリーを贈るのがマナーだと言われた」
マナー。おそらく教えたのは、彼の家族。そして、彼のお相手として想定されていたあの元王女だ。そう想像できるくらいの冷静さを残しながらも、憧れの人からプレゼントをもらったという喜びが爆発する。
「ありがとうございます! 家宝にします!」
「……そうか」
アレクサンダーは短く言い捨てて立ち去る。従者は慌てたように何か話しかけているようだが、アレクサンダーの歩みは止まらない。
後ろ姿を見送りながら箱を見つめると、輝く薄紅の宝石がにじんだ。私のために、これを見つけてくれたんだ。それがどういう思いで経緯で見つけられたものかは、ミリアにとってはどうでも良かった。たとえ道端の露天で買ったものでも、その辺に落ちていたものでも嬉しい。その一瞬は、自分のことを考えてくれたということだ。ほんの一秒でも、彼の時間を独占したのだ。
家に帰ってからは、人生で一番というほど髪をケアしなくてはと母とメイド全員を居間に呼び寄せた。会議を開き、髪飾りを見せると歓声が上がった。
「このいただいた髪飾りがもっとも目立つようにするにはどうすればいいかしら? 貧相なドレスを着る?」
「それはいけません」
「でも、私よりも髪飾りを目立たせたいの! みんなが私なんかより髪飾りを見るように……やっぱり貧相にしましょう」
「それは失礼というものです、お嬢様。『宰相補佐様のくださったものは、このドレスにはかないません』という言外のアピールになってしまいます」
「そんな失礼はしたくないわ!」
「そうでしょう? でしたらきれいに装わなければいけません」
「そうです! それにせっかくのパートナーが貧相では恥をかかせてしまいますよ!」
メイドたちも母も、ミリアの暴走気質は理解しきっている。ほうっておけばこの娘はどんなドレスを着るかはわからないのだ。
「じゃあ、派手すぎず地味すぎず、このドレスは髪飾りの添え物です、と分かるようなデザインにしましょう!」
そんな、何が目的なのかさっぱり分からないオーダーに、デザイナーは見事に応えた。デザイナーの手腕もあるが母親やメイドのナイスサポートがあったことは言うまでもない。
「もうすぐ迎えの馬車がやってくる時間ね。
ミリアは鏡の前でもう一度くるりと回転し、ドレスの前後左右を確認してから一階へと降りていった。彼を出迎えて、この髪飾りのお礼を言わなくては。
浮かれに浮かれているミリアだったが、玄関先の不穏な問答に気づかないはずはなかった。
「今日になって、突然そのようなことをおっしゃられましても!」
父の語気が珍しく強い。そばに誰かいるようで、ミリアは階段を降りながら声をかける。
「お父様、どうなさったの?」
声をかけると、振り返った父の横にいたのはアレクサンダーの従僕だった。
「もしかして、もうお迎えに?」
御本人は馬車にいらっしゃるのかしら。ミリアが首を傾げる。父は苦々しく従僕を見やった。彼は悲痛な顔で頭を下げる。
「申し訳ございません。我が主は、本日、夜会へ行けなくなってしまいました」
「えっ……」
「突然、体調不良でございまして……」
体調不良。
毎日決まった時間に仕事をこなし、まるで何事もないかのように様々なハードワークをこなす、あの宰相補佐が?
夜会の日に限って?
体調不良?
ミリアの反応も織り込み済みだったのだろう。従僕は侯爵家の封蝋がある紙を差し出した。
「それで、本日伺えないことをお詫びせよと……こちらは手紙でございます」
ミリアはぼんやりとこの数日を思い出す。宰相閣下の褒章のこと。エスコートを承知してくれた瞬間。ドレスや髪のことで母やメイドと大騒ぎした時間。くるくると目まぐるしく色んな感情が浮かびあがった。
「……そうですか。お大事にとお伝えください」
それでも笑顔を作ったのに、従僕は本当に気の毒そうな顔をした。着飾った自分が、哀れに見えたのだろうか。そうは見えてほしくなくてミリアは髪に触れる。
「頂いた髪飾り、嬉しそうにつけていたとお伝えくださいね」
「はい……」
低く呻くように詫びると、従僕はとぼとぼと屋敷を出て馬車に乗っていく。そこには、呆然とした父と娘が残されるばかりだった。
「ミリア、今日は私と行こうか。いや、私も出かけるのは止める」
「なんてことおっしゃるの。具合が悪いわけでもないのに……お父様はお母様といらっしゃるのでしょう?」
「まあ、そうだが……せっかくこんなに綺麗になったのにな」
父の素直な褒め言葉に急に目頭が熱くなる。そうだ。今日はとても綺麗になりたくて、頑張ったのだった。
「少し部屋で気持ちを落ち着かせてきます。お父様たちは先にいらしてて。馬車はまだ残っているでしょう?」
ミリアはやってきた母と兄を迎えるための笑顔を作る。
見送ってから部屋に戻ると流石に力が抜けてしまった。メイドたちが怒り狂いそうだったので部屋には呼ばず、一人テーブルに座ってぼんやりと頬杖をつく。渡された手紙には詫びの定型文がサラリと記されていただけだった。
やっぱり、エスコートだなんて図々しい願いだったのだ。だから神様が罰を……いいえ、罰を当てるなら私に当てればいいのに。なんて酷いことをするのだろう。なんてぐるぐると考えが巡る。
ドレスも脱がずに、家族が帰ってくるまでこのまま落ち込み続けるつもりだろうか。先ほど遠ざかった馬車の音を思い出す。今日の兄は一人で行くが「お前が来たらダンスぐらいはしてやる」なんて行ってたし、父も母も前日まで「とても綺麗よ。綺麗な娘を見せびらかすのが楽しみだわ」と何度も言ってくれた。
……そうね、せっかくドレスを作ったんだし行こうかな。この髪飾りを誰かに見せたい気もするし。同僚がいればダンスの一つも出来るかもしれない。ミリアはようやく立ち直り、ベルを鳴らす。
メイドを待つ間に、つとテーブルの上の果物に気づく。ヴァンデルフォード領では果物が豊富に実り、最近、新種の緑がかった柑橘が届けられたばかりだった。爽やかで甘い果物なら、体調不良でも食べられるのではないだろうか。それを口実に自分が気が利く女だとアピールしたいだけかもしれないが、どちらでもいい。
ミリアは果物を籠に詰めさせ、身支度を整えると馬車に乗った。
彼の住むハートフォード侯爵家の別邸は、ミリアの屋敷が建つ街のすぐ隣の区画にある。馬車を寄せようとすると、先客が来ていた。
「お医者様かしら? 私の馬車を停めるのはご迷惑になるわね」
「では……ミリア様、私が届けて参りましょう」
メイドの言葉に、ミリアは籠を抱えたまま首を振る。
「私が行くわ」
「危のうございます!」
「だから、あなたも一緒に来るの。二人なら何かあっても逃げられるでしょう?」
「……分かりました。もしものときは、私を盾にしてくださいましね」
二人で馬車を降り邸内を覗こうとした、その時だった。
「お嬢様!」
メイドの声に誘われ、ミリアも同じ方向を見た。見てしまった。
侯爵家に停められた馬車の扉が開く。と、同時に邸内から――アレクサンダーが現れた。宮中に向かうときのように整えられた服、病気とも怪我とも思えぬ様子の彼が馬車へ手を差し伸べる。
馬車の中から白い女性の手が伸びる。男がその手を恭しくとる。現れたのは顔からつま先まで包むような粗末なマントを着た細い女性だ。彼女は馬車を降りて、頭を覆うフードをはらう。
月光に輝く美しい金髪、色白で儚げな顔を知っている。元王女、エリザベスだった。
「ど、どうしてここに……?」
ミリアが息を呑む横でメイドは呆然と呟く。ミリアは思わずメイドの手首を握る。何も言わず、馬車に急ぐととび乗った。
「お嬢様、どうなさいましたか」
御者が不思議そうな声で尋ねた。ミリアは何度も呼吸を繰り返し、震える声を抑える。
「帰ります」
「は?」
「早く戻して!」
「は、はい!」
馬車はゆっくりと動き出した。理由を言わねばならない。わかっているのに、声が震えそうになる。隣に座ったメイドが背中をゆっくりとさすってくれた。
「ねえ、アレクサンダー様、病気には見えなかったわね」
震えながら声を絞り出す。メイドは一瞬間をおいて静かに答える。
「……そうですね」
「本当は、ああ見えてお腹から血を出していたとか、そういうことってあるかしら」
「さあ、どうでしょう……」
「ごめんなさい。馬鹿なこと言ってるわ」
それなのに黙っていられない。頭の中がぐるぐるといろんな考えでいっぱいになっていく。
「あのね、馬車から降りてきたの、エリザベス様に見えたんだけど、どう思う?」
王女の姿は年に二回、建国の日と誕生日に民に言葉を述べるためメイドも知っている。ミリアの問いに、茶会について来てくれたこともあるメイドはゆっくりと深呼吸した。
「はい。そのように、お見受けいたしました」
「でも、エリザベス様は婚約者のアレクサンダー様を裏切って、駆け落ちしたのよね?」
「と、うかがっております」
「じゃあ、どうしてここにいるの? どうしてアレクサンダー様と一緒に?」
「私には……わかりかねます」
「普通の恋人はどうなの? 出ていった恋人が戻ってきたら」
「お嬢様」
「それはなんていうの? 教えて」
わからないはずないのに。困らせているとわかっていながらミリアはあえて尋ねる。メイドは困った顔で呟いた。
「……よりを、戻すと」
「よりを戻しにきたということ? 本来の婚約者の方が好ましいと気づいたとか、気が変わったとか、そういうこと?」
「……」
「それで、アレクサンダー様はどう思っていらっしゃるのかしら」
さっきの彼を思い出す。生真面目な顔で服を整え馬車を迎え、王女の手をとっていた。
「中にお招きしていたわ……」
それはエリザベス様が、今、彼の屋敷に滞在しているということだ。未婚の男女が同じ屋敷に暮らすなんて、婚約者同士でようやく許されること。元婚約者同士なら、どう思われるだろうか。
ミリアは顔を覆う。
王女は美しかった。彼女のことは好きではないが、外見が美しいことは認めざるを得ない。髪には何の飾りも付いていなかったのに、月光のきらめきだけで他に何もいらないように見えた。着ているマントもまさに庶民といったものなのに、彼女の美しさは何も損なわれていなかった。
「アレクサンダー様は、きっと嬉しいでしょうね……婚約者も決めないでいたから……」
「お嬢様」
「アレクサンダー様が嬉しいなら、私も、嬉しい……」
そう思いたいのに。ミリアの声は途切れ途切れになり、やがて帰宅するまで何も言えなくなってしまった。




