狗ヶ岳へ
鳴海のアパートで舞子と合流した鳴海は、舞子のリュックに収められた鎮魂の鈴と護符を見て、安堵の表情を浮かべた。
「ありがとうございます、舞子さん。これで、狗ヶ岳の奥深くへも進むことができるでしょう。」
舞子は運転するレンタカーのハンドルを握りながら、鳴海の足元を気遣った。
「無理はしないでくださいね。狗ヶ岳に着いたら、あとは私の力で何とかします。鳴海さんは、できる範囲でサポートをお願いします。」
舞子の言葉に、鳴海は小さく頷いた。古賀町から狗ヶ岳までは、車で数時間の距離だ。道中、二人の間に沈黙が流れる。しかし、その沈黙は決して重苦しいものではなく、来るべき戦いを前にした、互いの覚悟を確認するような静けさだった。
やがて、車窓からは、鬱蒼とした木々に覆われた山々が見え始めた。狗ヶ岳だ。近づくにつれて、山の空気が変わっていくのを感じる。どこかひんやりとしていて、そして、形容しがたい圧迫感がある。
山の麓に到着し、車を降りた途端、舞子は異様な気配を感じ取った。目には見えないが、肌を粟立たせるような、負のエネルギーが山全体を覆っているかのようだ。
「…感じますか、舞子さん?」鳴海が息を潜めて尋ねた。
「ええ。この山全体が、まるで呼吸しているようです。そして、その呼吸の中に、あの『囁き』が混ざっている。」
舞子は耳を澄ませた。確かに、遠くから、何かを呼びかけるような、あるいは嘲笑うような、奇妙な音が聞こえてくる。それは、風の音のようでもあり、人の声のようでもある。
「あれが、『山の声』…黒い影の囁きです。この山のどこかに、影が奈緒を閉じ込めている場所があるはずです。」
鳴海の言葉に、舞子は巻物に挟まれていた狗ヶ岳の地図を取り出した。地図には、「神隠しの森」と記された場所に印がついている。その方向から、「囁き」が強く聞こえてくる。
「行きましょう。ここから、『神隠しの森』を目指します。」
舞子はそう言い、護符を一枚手に取った。そして、鳴海を気遣いながら、慎重に山道を進み始めた。道は次第に険しくなり、木々は陽光を遮り、辺りは薄暗くなっていく。舞子の握る護符から、微かな光が放たれ、闇を照らした。
足を踏み入れるたびに、黒い影の存在が色濃く感じられる。そして、「囁き」は、次第に明確な言葉となって、舞子の心に直接語りかけてくるようだった。
『来い…来い…お前もまた、我らの仲間となるのだ…』
その声は、甘く、誘惑的でありながら、同時に底知れない恐怖を孕んでいた。舞子は、心の奥底で反発しながらも、その声の力に抗うのが難しいと感じた。
「舞子さん、大丈夫ですか…?」
舞子の顔色の変化に気づいた鳴海が、心配そうに声をかけた。
「ええ、大丈夫です。少し、黒い影の力が強くなっているようです。ここからは、さらに警戒しましょう。」
舞子は、鎮魂の鈴をしっかりと握りしめた。奈緒と雫を救い出すために、そして、この黒い影を完全に封じるために。舞子の、巫女としての本当の戦いが、今、始まろうとしていた。