第59章:ヘヨン
「……外で何の音がしているの?」
私は、身支度を手伝わせるために呼ばれた侍女に尋ねた。
「何かを組み立てているような音だけど……。」
侍女は首を横に振った。
「何も聞いておりません。ただ…決して奥様を外へ出してはならないと…」
侍女の声色だけで、それがどれほど厳しい命令か理解できた。もし破れば、彼女は重い罰を受けるのだろう。
彼女がそっと私の髪を持ち上げ、背後の青銅の鏡に映る自分を見つめる。寒気がした。
まるで時間が巻き戻されたかのようだった——私がこの砦に来た、あの夜と。
だが、今の方が、遥かに現実味を帯びた悪夢のように思えた。
あの頃の私は、兄を奪った男と対峙することを恐れて震えていた。哀しみと絶望、そして怒りのすべてを彼にぶつけるつもりだった。
しかし——今、私は何もかもを知ってしまった。
かつて信じて疑わなかったことは、ただの幻想にすぎなかった。
「結局、唯一の真実は……私たちの感情だけ。」
私は目を閉じる。
その夜、初めてマンチュンの声を聞いた瞬間——彼を目にするよりも前に、私の心は何かを感じ取っていた。
けれど、それを信じることを拒んだのは、私自身だった。
同じことがテウォンにも言える。
彼と過ごす中で、私の中に生まれた違和感。
何かが違うと本能が告げていたのに、私はそれを無視し続けた。
彼の前にいると、どこか緊張が抜けない。心の奥底で、何かが警鐘を鳴らしていた。
それなのに——どうして気づけなかったの?
私は、自分の直感よりも理性を信じてしまった。
もし、初めから本能の声に耳を傾けていたら——こんなことにはならなかったのに。
ゆっくりと目を開けると、鏡の中の自分と視線がぶつかった。
テウォンは、マンチュンを完全に打ち砕くまで決して手を止めないだろう。
——その事実だけは、疑いようがなかった。
「この部分を整えて。乱れているわ。」
私は侍女に指示を出し、彼女はすぐに従った。
私は化粧を始める。
今の私に唯一できることは——できる限り美しく装うこと。
それだけが、テウォンに対抗する武器だった。
「っ……!」
彼女が髪に簪を挿した瞬間、金属の先端が頭皮に触れ、私は思わず身をすくめた。
「申し訳ありません!」
彼女は慌てて膝をつこうとする。私は咄嗟に別の簪を手に取り、彼女に渡した。
「そんなことしなくていいわ。痛みはほとんどないし。」
「それよりも、こっちの簪を使ってちょうだい。こっちの方が、優雅でしょう?」
彼女は目に涙を浮かべながら頷き、震える指で簪を手に取った。
私は眉をひそめる。
彼女は何を聞かされたの?
何を恐れているの?
——私の判断は間違っていないの?
——時間を稼ぐだけで、本当に十分なの?
鏡の中の自分を見つめながら、自問する。
「……自分を信じなさい。」
私は心の中でそう言い聞かせた。
そして——
——廊下の床が軋む音。
足音。
胃が締め付けられるような感覚。
「……来た。」
私は、すでに分かっていた。
扉が静かに滑る音とともに、胸に広がる虚無感。
「……愛しい妻よ。」
左側から響いたのは、テウォンの声だった。
「下がって。」
私は侍女に言った。
「後は自分で仕上げるから。」
鏡の中の自分が皮肉めいた笑みを浮かべる。
——彼の望む役を演じればいい。
——それが、彼を終わらせる一番の方法だから。
侍女は深くお辞儀をし、その場を後にした。
私は立ち上がり、テウォンが求める姿を見せるため、彼に向き直る。
だが——
——その瞬間、私は凍りついた。
——心臓が、止まりそうになる。
テウォンは、私のために開け放たれたままの扉の向こう、庭の光景へと視線を向けさせた。
——そして、私は息を呑んだ。
強烈な吐き気が込み上げ、皮膚がゆっくりと剥がされるような痛みが全身を貫く。
どうして……? 何故……?
庭の中央に、一本の十字架が建てられていた。
そこに、マンチュンが磔にされている。
上半身は半ば剥かれ、紫色の痣が至るところに浮かんでいた。無慈悲な暴力を受けた証。
脇腹からは大量の血が流れ、彼の顔は青白い。
意識は朦朧としているはずなのに、彼はそれでも、かすかに頭を持ち上げ、私に向かってゆっくりと首を横に振った。
——動くなと。
——何もするなと。
だが、そんなことは無理だった。
胸が締め付けられる。
呼吸ができない。
視界の端で、テウォンの影が揺れた。
私を現実へと引き戻す。
ゆっくりと振り向くと、彼の唇の端には、酷薄な満足の色が滲んでいた。
それを見た瞬間、冷たい悪寒が背中を這い上がる。
「——さて。」
テウォンは歩を進める。
「これからは、お前がどう振る舞うか次第だ。」
「……こんなことをする必要はない。」
私は、かすれた声で言った。
「必要ない?」
彼は嗤う。
低く、震えるような声。
危険な声音。
私の腕を掴み、強引に引き寄せた。
「武寧。」
彼の瞳が私を捕える。
「お前なら分かるはずだ。奪われる悔しさを。全てを奪われる理不尽を。」
「お前は、それを経験した。だからこそ、理解できるだろう?」
——理解?
この男は、私の家族を失った痛みと、彼の卑屈な嫉妬を同列に語るつもりか?
私は彼から目を逸らし、彼の肩越しに、マンチュンを見た。
——青白い顔。
——痛みに引き攣る唇。
まるで、皮膚が裂けてしまうのではないかと思うほどに。
「……テウォン。」
涙が溢れそうになるのを堪えながら、私は彼を見つめた。
「お願い……彼を……」
「——お前は、本当に愚かだな。」
テウォンは、一歩横に動き、視界を遮った。
そこに映るのは、彼の冷徹な表情だけ。
「なぜ、そんなに難しくする?」
彼の指が、私の腕に食い込む。
——痛い。
「どうして、俺ではなく、あいつの味方をする?」
「お前は、あれほど彼を憎んでいたはずだろう?」
「それなのに、今はあいつだけが大切なのか?」
「なぜだ?」
——なぜ?
彼は、悪意に満ちた眼差しを私に向けながら、さらに距離を詰めた。
「お前の弟を見逃したのは、俺も同じだぞ?」
「なぜ、俺には感謝しない?」
私は瞬きをし、涙を振り払った。
——そして、彼を見据えた。
「……よくそんなことが言えるわね。」
私は、彼の手を振り払った。
「お前は、ボクトクが二度と高句麗へ戻らないと知ったから見逃したに過ぎない。」
「それなのに、今さら恩を売るつもり?」
——分かっている。
——私は、彼を刺激すべきではなかった。
だが、言葉が止まらなかった。
「自分に嘘をつけばいいわ。」
「でも、私は誤魔化されない。」
「お前はただの臆病者よ。」
——頬に、鋭い衝撃。
視界が揺れた。
口の中に、鉄の味が広がる。
私は、手の甲で唇を拭った。
——赤い血が滲んでいた。
——彼の平手打ちで、唇が裂けたのだ。
テウォンの表情が変わった。
「……武寧。」
彼の声が、僅かに揺れる。
「……すまない。そんなつもりじゃ……」
——もう遅い。
テウォンはまだ気づいていないが、彼自身が状況を変えたのだ。
だから私は、ここで決着をつけなければならない。
私は背筋を伸ばし、彼を真正面から見据えた。
堪えていた涙がついに溢れ、頬を伝う。
テウォンは慌てて袖で私の涙を拭う。
「違う、頼むから……泣かないでくれ。」
「……テウォン。」
私は自分を押し殺し、弱々しく、しおらしく囁いた。
「私が……悪かったの。あなたを怒らせてしまった……本当に、ごめんなさい。」
「違う……いや、違うんだ。」
テウォンの顔が近づく。
——恐ろしく近い。
おそらく、次の機会は訪れないだろう。
今しかない。
私は頭を空っぽにし、意識を閉ざした。
——そして、そっと手を伸ばし、彼の首筋に添えた。
テウォンの身体を引き寄せ、唇を重ねる。
一瞬、彼は驚いたように動きを止めたが、すぐに貪るように私の唇を求めた。
私は抵抗せず、されるがままになりながら、心の奥で込み上げる嫌悪と恐怖、悲しみを必死に押し殺す。
その時——
ふっと、意識が遠のいた。
——いけない、遅くなる。
私の手が、彼の首を支える力を強めた。
そして——
勢いよく、彼の下唇に噛みついた。
テウォンの身体がびくりと跳ねる。
彼は即座に私を突き放そうとするが、私はそれを予測していた。
首を押さえる手に力を込め、逃がさない。
彼が力ずくで私を振り払ったのは、ほんの数秒後だった。
テウォンは荒々しく口元を拭い、手の甲についた血に気づいた途端、目を細める。
——そして、低く呟いた。
「……この、汚らわしい女が。」
彼の目が鋭く光る。
「泣き言を言うなよ、お前が始めたことなんだからな。」
テウォンが再び私の腕を掴もうとした瞬間——
私は笑った。
——可笑しくて仕方がなかった。
「……?」
彼の眉が寄る。
私の体はふらつきながらも、笑いが止まらなかった。
テウォンは訝しげに私を睨みながら、もう一度口元を拭った。
——その瞬間、彼の表情が変わる。
「……何だ? 口の中が……チクチクする……?」
私は息を整え、震える声で告げた。
「……トリカブトよ。」
「……何?」
「私の紅に、混ぜておいたの。」
——沈黙。
一瞬、時間が止まる。
そして——
「……まさか……」
テウォンの目が見開かれ、彼は私を揺さぶった。
「お前……俺に、毒を盛ったのか?」
私は答えず、ただ彼を見つめた。
彼は再び口元を拭い、今度は袖で何度も何度も乱暴にこすった。
「——嘘だ!!」
叫ぶと同時に、私を突き飛ばした。
私はよろめきながらも、目を逸らさなかった。
意識が薄れていくのを感じながら、最後の一手に出る。
「……毒で死なない方法が、あるわ。」
テウォンの動きが止まる。
「……何?」
「知りたければ、もっと……近くに来て。」
息が苦しい。
力が抜ける。
「もう、声が出せない……早く……」
テウォンは慌てて近寄る。
——あと少し。
「……もっと……近く。」
テウォンの顔が、私の耳元まで寄る。
彼の首筋、動脈が脈打っている。
「……早く言え!!」
その瞬間——
私は髪を飾る蓮の花の簪を引き抜いた。
——そして、
躊躇なく、その鋭い針を、彼の喉へ突き立てた。
シュッ
刃が皮膚を裂く感触が、指先に伝わる。
——一息に、深く。
テウォンの体が震える。
彼の目が驚愕に見開かれた瞬間、私は簪を引き抜き、さらなる出血を促した。
——これで終わり。
——もう遅い。
テウォンはまだ気づいていないが、彼自身が状況を変えたのだ。
だから私は、ここで決着をつけなければならない。
私は背筋を伸ばし、彼を真正面から見据えた。
堪えていた涙がついに溢れ、頬を伝う。
テウォンは慌てて袖で私の涙を拭う。
「違う、頼むから……泣かないでくれ。」
「……テウォン。」
私は自分を押し殺し、弱々しく、しおらしく囁いた。
「私が……悪かったの。あなたを怒らせてしまった……本当に、ごめんなさい。」
「違う……いや、違うんだ。」
テウォンの顔が近づく。
——恐ろしく近い。
おそらく、次の機会は訪れないだろう。
今しかない。
私は頭を空っぽにし、意識を閉ざした。
——そして、そっと手を伸ばし、彼の首筋に添えた。
テウォンの身体を引き寄せ、唇を重ねる。
一瞬、彼は驚いたように動きを止めたが、すぐに貪るように私の唇を求めた。
私は抵抗せず、されるがままになりながら、心の奥で込み上げる嫌悪と恐怖、悲しみを必死に押し殺す。
その時——
ふっと、意識が遠のいた。
——いけない、遅くなる。
私の手が、彼の首を支える力を強めた。
そして——
勢いよく、彼の下唇に噛みついた。
テウォンの身体がびくりと跳ねる。
彼は即座に私を突き放そうとするが、私はそれを予測していた。
首を押さえる手に力を込め、逃がさない。
彼が力ずくで私を振り払ったのは、ほんの数秒後だった。
テウォンは荒々しく口元を拭い、手の甲についた血に気づいた途端、目を細める。
——そして、低く呟いた。
「……この、汚らわしい女が。」
彼の目が鋭く光る。
「泣き言を言うなよ、お前が始めたことなんだからな。」
テウォンが再び私の腕を掴もうとした瞬間——
私は笑った。
——可笑しくて仕方がなかった。
「……?」
彼の眉が寄る。
私の体はふらつきながらも、笑いが止まらなかった。
テウォンは訝しげに私を睨みながら、もう一度口元を拭った。
——その瞬間、彼の表情が変わる。
「……何だ? 口の中が……チクチクする……?」
私は息を整え、震える声で告げた。
「……トリカブトよ。」
「……何?」
「私の紅に、混ぜておいたの。」
——沈黙。
一瞬、時間が止まる。
そして——
「……まさか……」
テウォンの目が見開かれ、彼は私を揺さぶった。
「お前……俺に、毒を盛ったのか?」
私は答えず、ただ彼を見つめた。
彼は再び口元を拭い、今度は袖で何度も何度も乱暴にこすった。
「——嘘だ!!」
叫ぶと同時に、私を突き飛ばした。
私はよろめきながらも、目を逸らさなかった。
意識が薄れていくのを感じながら、最後の一手に出る。
「……毒で死なない方法が、あるわ。」
テウォンの動きが止まる。
「……何?」
「知りたければ、もっと……近くに来て。」
息が苦しい。
力が抜ける。
「もう、声が出せない……早く……」
テウォンは慌てて近寄る。
——あと少し。
「……もっと……近く。」
テウォンの顔が、私の耳元まで寄る。
彼の首筋、動脈が脈打っている。
「……早く言え!!」
その瞬間——
私は髪を飾る蓮の花の簪を引き抜いた。
——そして、
躊躇なく、その鋭い針を、彼の喉へ突き立てた。
シュッ
刃が皮膚を裂く感触が、指先に伝わる。
——一息に、深く。
テウォンの体が震える。
彼の目が驚愕に見開かれた瞬間、私は簪を引き抜き、さらなる出血を促した。
——これで終わり。
——奴は、私に縋りつこうとした。
喉の奥から、血の混じった異様な音を漏らしながら。
しかし、私は力を振り絞って彼の手を振り払い、その場から後ずさった。
——もう、彼を見ない。
私は呼吸を整えようとしながら、ぐらつく足を必死に動かし、扉の方へ向かう。
視界がぼやけ、足元すら定まらない。
それでも、目の前に広がる光だけを頼りに、闇を振り払うように歩みを進めた。
——外へ。
外へ出なければ——。
日が落ちかけた黄昏の空が広がる。
そして——
私は、この身に残る最後の力を振り絞り、ゆっくりと、たどり着いた。
——あの十字架の元へ。
——あの人の元へ。
私は腕を伸ばし、震える指で、彼の手首を縛る縄を解こうとする。
指先は血で濡れ、力が入らない。
それでも——
ほどけろ。
私は必死に縄をほどこうとした。
そして、ついに——
指の間で、縄が切れた。
——その瞬間。
——私の全身から、最後の力が抜け落ちた。
——終わった。
膝が崩れ落ち、世界が暗転していく。
誰かの腕が私の身体を受け止めた。
——遠くで、誰かが叫んでいる。
「誰か……助けを……!」
闇が押し寄せる。
意識が沈んでいく。
最後に聞こえたのは、掠れた声。
「……ヘヨン……頼む……行かないでくれ……」
私は、何か答えたかった。
——私は、あなたを愛していると。
——後悔なんて、何もないと。
でも、もう声は出なかった。
ただ、冷たい闇の中へ、私は沈んでいく——。