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第56章:ヘヨン

風が、一瞬、弱まる。

——その刹那、辺りに満ちる血の匂いが、より濃密に感じられる。

しかし、すぐにまた風が吹き荒れ、砂を巻き上げる。

私は目を閉じ、砂嵐から目を守った。

——世界のすべてが、黄砂と鮮血の色で染まった地平線に溶けていくようだった。

「進め!」

花郎が命じる。

彼は、地に横たわる仲間たちの死体に目をくれることすらしない。

彼の表情には、一切の迷いがなかった。

——彼は、与えられた任務を最後まで遂行するつもりなのだ。

そして、たとえ彼がたった数名の兵しか残していなくとも——

彼のやり方次第では、砦の掌握は十分可能だった。

なぜなら——

安市を制圧するために必要なのは、たった一人を屈服させることだからだ。

砦の最大の強みであり、最大の弱点でもあるのは、その独立性にあった。

——クーデターの翌日、マンチュンが大莫離支テムジンの軍門に下ることを拒んだとき——。

安市は、独立した軍事組織として存在することになった。

つまり、彼の権威を奪い取ることさえできれば——

この砦は、容易く支配できる。

彼の決定を操れる者が指揮官の座に座るだけで、それは成り立つ。

なぜなら、安市の兵たちはマンチュン以外の権威を認めないからだ。

彼らのほとんどが、すでに大莫離支の軍事統制を拒絶した者たち。

——つまり、たとえ砦が乗っ取られても、彼らがゲソムンに助けを求めることはない。

安市の兵士は、孤立した反逆者たち。

彼らを掌握する鍵は……私。

——私は、それを許すわけにはいかない。

花郎は、私の体を盾にするように密着しながら、私を無理やり前へ押し進めた。

彼の兵士たちが、すぐ背後に続いている。

「門を開けないで……!」

私は心の中で必死に祈る。

ここで私を見殺しにすれば、彼らの計画は失敗する。

私は、顔を上げた。

砦の見張り台にある瓦屋根の影に、彼がいることを感じる。

——いや、確信している。

黄砂の舞う大気と、屋根の陰影が視界を曇らせ、そこにはただ黒い闇が広がっている。

だが、それでも——

彼が、そこにいることを私は知っている。

その瞬間——

鉄の軋む音が、私を現実へと引き戻した。

目の前で、高くそびえる門が開かれていく——。

私のせいで。

私が生きているせいで。

——高句麗が、危険に晒される。

この砦は、国境と王都をつなぐ最後の防衛拠点だ。

——ここが落ちれば、すべてが終わる。

私が、生きている限り。

花郎は、私が抵抗するのを察し、無理やり私を押し出した。

——彼の刃先から伝わる冷気が、皮膚を凍らせる。

ここで終わらせなければ。

門の中へ連れ込まれたら、もう遅い——。

私は、一気に前へ飛び込んだ。

——喉を、彼の短剣に差し出すように。

——だが、その瞬間。

彼の腕が一瞬早く動いた。

——彼は、すでに察知していたのだ。

私が飛び込む直前に、刃を自分の腕沿いに沿わせるように角度を変える。

——私の喉は、ただの空間を切り裂いただけだった。

「もう一度やったら、気絶させるぞ。」

彼は、荒々しく私の体を押し進める。

そして今度は、決して私が同じ手を使えぬよう、刃を別の角度に構え直した。

——機会を、逃した。

私は、敗北を悟る。

門の内側に入ると、私はさらに驚いた。

——そこには、たった四人の門番しかいなかった。

彼らは、何も言わずに道を開け——

私たちが通り過ぎると、再び門を閉じた。

——砦の南の中庭全体が、兵士たちによって意図的に空にされていた。

そこに立つのは、マンチュン、スジン、そしてほんのわずかな数の兵士たち。

——それだけだった。

黄砂の舞う風が、乾いた大地を這うように吹き抜ける。

花郎は、私を無理やり歩みを止めさせた。

彼は慎重に距離を保ち、砦の兵たちと直接衝突しないよう警戒している。

彼の残された兵たちが、私たちの周囲を固めた。

「砦の指揮印を渡せ。」

花郎が、冷徹な声で命じる。

マンチュンは、一瞥もくれなかった。

——彼の視線は、私に向けられていた。

その表情には、いつもの冷徹な仮面が貼りついている。

しかし、その奥にあるものは——。

——『不安』。

私は、ほんの僅かに首を振る。

——降伏してはならない。

たった一人の命のために、国が危機に陥るなど、あってはならない。

私は、高句麗のために生きているのだ。

——私の命など、国の未来と比べれば取るに足らない。

だが、彼は動かない。

彼はただ、私を見つめ続ける。

——その無言の視線が、何よりも雄弁だった。

そして、私は悟った。

——彼は、屈する。

彼は、砦を明け渡す。

——私を救うために。

その瞬間——

私の心臓が、張り裂けるように痛んだ。

平壌での時間。

あの日の別れ。

私とボクドクを守るために積み上げた嘘。

私を遠ざけることでしか、私を守れなかった彼の冷たさ。

そして、彼の書斎に掛けられたあの墨絵——。

——彼の愛は、こんなにも残酷なのか。

一筋の涙が、頬を伝った。

——私は、愛されたくない。

こんな形で、彼の愛が証明されるくらいなら。

この愛が、高句麗にとっての災厄となるくらいなら——。

——私は、それを拒む。

この愛を受け入れることは、私にとって裏切りになる。

——父上、母上、ファンウォン……そして、ボクドク。

彼らは皆、国のために苦しみ、戦い、命を懸けてきた。

私は、そのすべてを無駄にする者になりたくない。

——お願い、やめて……。

マンチュンの視線が、ゆっくりと私から離れた。

そして、花郎の顔を真正面から見据える。

彼は、静かに制服の襟元に手を入れ、指揮印を取り出した。

それは、虎の彫刻が施された鉄印。

「誰に渡せばいい?」

彼の声は、あまりにも無機質だった。

その瞬間——

——何かが動いた。

私は、背後の右肩越しにテウォンの姿を捉えた。

彼は、数人の兵士を伴い、ゆっくりと階段を下りてくる。

彼の顔には、満足そうな笑み。

その笑みを見た瞬間——

私の背筋を、嫌悪と戦慄が同時に駆け抜けた。

マンチュンは、一切動じることなく、彼を迎えた。

まるで——最初から、この展開を予期していたかのように。

彼が唯一示した反応は——

スジンへの微かな視線。

——その合図を受け、スジンの手が剣の柄からゆっくりと離れた。

——テウォンは、私たちの目の前に到着し、勝ち誇ったように佇んだ。

まるで、この砦がすでに『彼のもの』であるかのように。

「——これがお前の計画だったのか。」

マンチュンが、静かに問いかける。

テウォンは、嘲笑するように口角を吊り上げた。

「当然の報いだよ。」

「——祖国を売ることで?」

「——家族まで?」

その言葉に、テウォンは、鼻で笑った。

「『祖国』?『家族』?」

「——俺が長安で、どれほどの屈辱を受けたと思う?」

「新羅の手先と呼ばれ、大莫離支の罪を償わせられ——。」

「夜も眠れなかった。いつ誰に殺されるか分からなかった。」

「そのとき、お前は何をしていた?『祖国』は何をしていた?父上は?マナは?」

彼の声には、かすかな震えがあった。

「——テウォン。」

マンチュンが低く名を呼んだ。

そして、一瞬だけ——私に視線を寄越した。

——彼は、花郎が握る武器を確認している。

「……もしそれがお前にとって重要なら、謝罪しよう。」

「——俺を裁いても構わない。」

「好きなように罰を与えろ。」

「——だが、ヘヨンやこの砦の住民をお前の復讐の犠牲にはするな。」

テウォンはマンチュンの視線を正面から受け止め、無表情のまま手を差し出した。

——掌を上に向けて。

「今になってもまだ俺より上の立場だと思っているのか?」

「説教までしようってのか?」

「——跪け。そして、指揮印を渡せ。」

——私は、衝動的に動こうとした。

しかし、花郎の片手が私の喉を締め上げる。

——その瞬間、全身が硬直する。

マンチュンは顎を噛み締め、体を強張らせたまま、ゆっくりと膝をついた。

——テウォンの足元に。

そして、両手で指揮印を捧げるように差し出す。

テウォンはそれを握りしめると——

——拳を固め、そのまま兄の顔に叩きつけた。

——マンチュンは抵抗することなく、地面に倒れ込む。

スジンが即座に介入しようとし、剣の半分を鞘から抜く。

——だが、その瞬間。

マンチュンが腕をわずかに動かし、スジンを制止した。

スジンは歯を食いしばり、ゆっくりと剣を鞘に戻した。

テウォンは、それを確認すると、無造作に指揮印を袖の中に滑り込ませた。

そして——

花郎に命じる。

「——彼女を放せ。」

——即座に命令は実行された。

その瞬間、テウォンが予想外の行動を取った。

——流れるような動作でクロスボウを構える。

——弦にかかっていた矢が、空を裂いた。

そして——

花郎の額を、貫通する。

彼は一言も発することなく、その場に崩れ落ちた。

彼の短刀が、私の足元の埃にまみれて転がる。

「スジン、全員殺せ。」

テウォンは、私の襟元を掴み、戦いの巻き添えにならないように強引に引き寄せた。

——戦いは一瞬で終わった。

新羅の最後の兵士が絶命し、再び静寂が訪れる。

その中で、テウォンは依然として膝をついたままのマンチュンを見下ろした。

「さあ、兄上。」

「指揮所へ行こうか。」

「家族会議の時間だ。」

「——テウォン……。」

私は声を絞り出す。

「彼らはもう死んだ……それなのに、なぜ……?」

「お前には関係ない。」

彼は冷たく遮った。

私は抗議しようと口を開く——

だが、その鋭い眼光に、言葉を奪われた。

——そして、彼は微笑む。

「……これは俺と兄上の問題だ。」

「心配するな、お前のこともちゃんと『後で』片付けてやるよ。」

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