第51章:ヘヨン
分かっていた。
マンチュンは、私の出発を見送りには来ないと。
彼の副官から渡された無機質な離縁状が、その事実をすべて物語っていた。
彼は最後まで無関心を装うつもりなのだ。
——それでも、私は、わずかな希望を捨てきれずにいた。
それも、もう完全に消えたけれど。
駕籠は荒れた道を軋ませながら進む。
風が吹き、砂が舞い上がる。
木製の車体に、小さな砂粒が当たる音が耳に響く。
副官は、私を寝台から引きずり出したとき、こう言った。
「予定を変更する。出発は今すぐだ。」
本来の予定より、一日早い。
彼は、それ以上何も説明しなかった。
目的地すら、私は知らされていない。
——だが、何も聞こうとは思わなかった。
窓辺の布が風に揺れ、小さな砂粒が舞い込む。
それを払いながら、ふと気づく。
——私は、一度もテウォンのことを考えなかった。
彼について考えようとするだけで、胸に嫌悪が広がる。
——なぜ?
私は、彼に何を感じているの?
昨夜よりも、気持ちはさらに混乱している。
そこに、罪悪感が加わっているから。
——それ以外の結末があり得ただろうか?
冷静に考えれば、彼は私の味方であり続けた唯一の存在だった。私のために苦しみさえした。
それでも——もう考えても仕方がない。
私の人生は、もう安市にはない。ヤン家の誰とも関わることは、二度とない。
風に揺れる麻の簾をそっとつまみ、私は目の前に広がる鉛色の空を見つめた。
どこへ行こうとも、ボクドクは私を迎えてくれるのだろうか?
***
朝から続いた旅路も、またひとつ丘を越えたところで突然止まった。
馬車が静かに停止し、私は思わず窓の格子を押し開く。
——何もない。
周囲を見渡せば、深い森と緩やかな丘陵の境界に沈む影が、静寂の中に横たわっているだけだった。
「どうかしましたか?」
私は、馬上の兵士に問いかける。
彼は、迷いなく答えた。
「ここで旅は終わりです。」
——旅が終わる?
その言葉の意味を理解した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
同時に、馬蹄の音が響く。
誰かが、こちらへと近づいてくる——。
先ほどの兵士が馬を降り、手綱をたぐりながら、私に向かって手を差し伸べた。
「下りてください。」
私は、動悸を抑えながら足を地面につける。
そして、視線の先に浮かび上がった三つの影に息をのんだ。
——二人は軍人。
馬上の姿勢からして、すぐにそれがわかった。
そして、もう一人——
その後ろに控えるその人物を目にした瞬間、私の心臓は早鐘を打ち、全身に温もりが広がった。
彼だ。
顔を隠すように深く被った編笠。
けれど、それでもわかる。
間違いようがない。
——ボクドク。
私を助け降ろした兵士が、そっと手綱を私に差し出す。
「馬に乗ってください。ここから先は、彼らと行くのです。」
私は震えながら、それを受け取る。
視線は、ただひたすらに彼に向けたまま——
鼓動が速すぎて、息ができない。
全身がふわふわとした感覚に包まれ、目の前の光景が現実味を失っていく。
夢を見ているのではないかとさえ思う。
兵士の手を借りて鞍にまたがると、すぐに先の騎馬兵が合図を送り、私の馬もまた、迷うことなく彼らの後を追い始めた。
——まるで、私の気持ちを理解しているかのように。
後ろで、偽装のために馬車が動き出す音が聞こえた。
まるで、何事もなかったかのように、丘を下りていく。
私の代わりに、かつての護衛がその中に乗って。
徐々に近づいてくる影。
そして、その脚に光る鉄の支えを見た瞬間——
私の呼吸は、完全に止まった。
「……ボクドク。」
かすれる声で、私は彼の名を呼んだ。
彼はゆっくりと馬をこちらへ向け——
そして、編笠を一気に振り払う。
——そこにいたのは、紛れもない、私の弟だった。
私が、死んだと信じていた。
私が、失ったと思っていた——
この世界に残された、ただひとりの家族——
彼が、生きていた。
堪えていた涙が、堰を切ったように零れ落ちる。
「姉さん。」
彼は、小さく微笑んだ。
「ようやく、会えたね。」
「あなたが……生きていたなんて……」
嗚咽の合間に、私はようやく声を絞り出す。
彼は、静かに微笑む。
だが、その顔は——
私が知っているボクドクとは違っていた。
幼さは消え、頬は痩せこけ、鋭い影が刻まれている。
かつてのあたたかい光を帯びた瞳は、どこか冷たく、曇っていた。
——若すぎる魂に、重すぎる時間がのしかかっていた。
「それでも、生きている。」
彼は、どこか淡々とした声で呟いた。
そして、その視線を、遠くへと向けた——。
横顔を見つめる。
細められた目が遠くの地平線を捉えたまま動かない。
その姿は、驚くほどファンウォンに似ていた。
——突然、耐えがたいほどの郷愁が胸を締めつける。
「……どうやって、生き延びたの?」
ようやく、私は口を開いた。
彼はゆっくりと私の方へ顔を向ける。
だが、その視線は虚ろで、まるで私の存在すら見えていないかのようだった。
「……あの夜、寺院で、俺は本当に死を覚悟していた。」
彼は淡々と語り始めた。
「むしろ、望んでさえいたんだ。
疲れ果てていたし、足の痛みは耐え難かった。
寒さも、泥も、雨も——
すべてに、うんざりしていた。
だから、あの男たちが寺に乱入して皆を殺し始めたときも……
血に染まった男が俺のそばにかがみ込み、何かを口の中に押し込んできたときも……
俺は抵抗しなかった。」
「……毒だったの?」
私は震える声で呟いた。
——あの夜、私の身にも起きたことを思い出しながら。
「いや、違う。」
彼の声は冷ややかだった。
「それは死を偽装するための薬だった。
仮死状態にするだけの、粗雑な眠り薬。
効果は予測できないし、完全に制御するのも難しい。
……でも、それのおかげで、俺は正式には、あの寺で死んだことになった。」
彼はふと口を閉じ、沈黙が流れる。
やがて——
彼は、呟くように言った。
「……みんな、本当に死んだ。」
それは、聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。
「クァンシクでさえも。」
——クァンシク。
私の弟に仕えていた若い宦官。
彼よりほんの少し年上で、私たちの亡命に同行していた少年。
「結局のところ、あの夜——みんな俺のために死んだ。」
彼は再び私を見つめた。
その目の奥にある闇に、私は身震いする。
「……時々、あの寺で一緒に死んでいればよかったと思うんだ。
そうすれば、こんなにも苦しまなくて済んだのに。」
彼は、あまりにも静かに言った。
「……でも、彼らが俺のために命を落とした以上……
俺は、生き続けるしかないんだ。」
「私はここにいるわ。」
私は震える声で言った。
慰めにならないことは分かっていた。
——だが、何を言えばいい?
彼の壊れてしまった魂を、どうすれば取り戻せる?
「やっと、ようやくこの忌々しい国を出られる。」
彼は静かに息をつく。
「もう、うんざりなんだ。
俺は、高句麗が滅びても構わない。
李世民がすべてを焼き尽くせばいいとさえ思っている。」
——その言葉に、私の手が震えた。
たとえ彼の苦しみが理解できたとしても。
それだけは、聞きたくなかった。
高句麗は、私の一部。
祖先と両親が築き上げた国。
私の故郷——私の誇り。
——そのすべてを否定するような言葉を、彼の口から聞きたくなかった。
私は手綱を強く引いた。
馬を止める。
前方を進んでいた二人の兵士が、すぐにこちらを振り返る。
私は、はっきりと口にした。
「私はもう行かない。」
弟はため息をついた。
——あの、諦めたような、投げやりな声で。
「姉さん……
今夜、俺たちの船は倭へ向かう。
もうすべてを終わらせて、ここを出たいとは思わないの?」
彼の言葉を聞きながら、私は彼の顔を見つめた。
——この弟に、どれほど会いたかったことか。
だが、私は今まで、こんな問いを自分に投げかけたことはなかった。
「逃げる」か「戦う」か——
そんな選択肢を考えたことすらなかった。
なぜなら——
私は、「戦う」以外の道を選ぶつもりなど、なかったからだ。
「……いいえ。」
はっきりと、私は答えた。
私は、目の前の少年をじっと見つめた。
彼は、あまりにも長い間何もかもを諦めてきた。
まるで今にも消えてしまいそうな幽霊のように。
彼が望むこと——彼の唯一の希望は、ここから遠く離れ、すべてを忘れること。
それだけ。
彼はただ逃げたかった。振り返ることなく、過去を切り捨てたかった。
高句麗は、彼にとって故郷ではない。
もはや、すべてを奪った怪物でしかないのだから。
——でも、それは私とは違う。
私は、そんなふうに考えたことは一度もなかったし、これからもない。
彼が生きていたことは嬉しい。
だが、それで何もかもが許されるわけではない。
大莫離支がしたことも、
この国を滅ぼそうとする者たちの存在も——。
「ボクドク。」
私は、彼の名を静かに呼ぶ。
「あなたが生きていてくれて、本当に嬉しい。」
「——でも、私は高句麗を捨てられない。」
——それに、私は……
私が愛する人を、こんな形で置き去りにするわけにはいかない。
彼は、命をかけて戦おうとしている。
かつて私たちが守ろうとした国のために——。
「姉さん、俺たちにはやっと——」
「私は逃げない。」
私は、彼の言葉を遮った。
「戦が始まれば、お前も——」
「生きろ。」
私は彼の目をまっすぐに見つめ、一方の手を手綱から離し、彼の腕にそっと置いた。
「お前が望む人生を生きろ。倭へ行き、過去を忘れ、高句麗を忘れ、私のことも——忘れろ。」
「……姉さん……。」
「お前が自由に生きて、どこかで幸せになっていると知ることができるなら、それだけでいい。」
「でも——お前は?」
ボクドクの声が震える。
「お前はどうするつもりなんだ? 俺と一緒に来なければ……死ぬぞ。」
私は、悲しげに微笑んだ。
そして、彼の腕からそっと手を離し、その指先を彼の頬に触れさせた。
「私は、とっくに死んでいる。」
私は囁くように言った。
「でも、お前と違って——私は、安らかに眠ることさえできない。」
「……」
「だからこそ、今の私には、絶対に置いていけない人がいる。」
私は手を引き、再び手綱を握り直した。
「お前は、私にとって大切な弟。
でも、私のいるべき場所は——倭ではなく、彼のそばなの。」
私は、彼とともにいた兵士たちへと視線を向ける。
「ついてこないで。」
私は静かに命じた。
「お前たちは、お前たちの役目を果たせ。王子を無事に目的地へ連れて行くのが、お前たちの使命だ。」
ひとりの兵士が口を開きかけたが、もうひとりが手で制した。
私はもう一度、ボクドクを見つめた。
彼の姿を、心に刻むように。
「——さようなら、ボクドク。」
「姉さん、待って——!」
だが、私はもう振り返らなかった。
私は、手綱を強く握り、馬の脇腹にかかとを打ちつけた。
馬は鋭くいななき、勢いよく駆け出す。
向かう先は、安市。
向かう先は——私が愛する人のもと。
私の運命が待つ場所へ。