第43章: マンチュン
私は司令部の窓から、遠くの地平線を眺めていた。
遼東の春は気まぐれで、青空が広がったかと思えば、砂塵に霞むこともある。
先日の雨にもかかわらず、地面は乾き始めていた。
そんな中、密書が届いた。
李世勣 の軍が飮城を出発し、李世民の先鋒となったという知らせだ。
つまり、あとひと月もすれば、唐の兵が高句麗の国境を越えてくる。
背後で扉が開き、聞き慣れた足音が近づいてきた。
スジン だ。
「指揮官、都からの書状です。」
私は振り向かず、ただ手を差し出した。
スジンはすぐにそれを手渡す。
封を確認すると、大莫離支の印が押されていた。
「……あの男も、すでに噂を聞きつけたか。どうせ祝辞でも寄こしてきたのだろう。」
書簡を開くと、予想通りだった。
大莫離支の密偵たちは、今回も迅速かつ正確に動いていたらしい。
義父は、「娘」の懐妊を祝うために、「中立地」での「家族の宴」を開くと言っている。
——罠だな。
スジンが眉をひそめた。
「それに、昨夜、あの男の部下が数ヶ月前に我々が仕掛けた偽の情報を探り当てました。」
私は書状をスジンに突き返した。
「三年前、私があいつを欺いたことに気づいたんだろう。それで焦り始めている。……行くと返答しろ。」
スジンの表情が険しくなる。
「今、要塞を離れるのは危険すぎます。戦争は、もはや避けられません。」
「仮に唐の軍勢が順調に侵攻したとしても、ここに到達するまでには数ヶ月はかかる。夏までは来られまい。」
それでも、スジンの表情は硬いままだった。
「奴は"娘の懐妊"を理由に、あなたを排除しようとするでしょう。些細な口実でも、あなたを殺すには十分です。」
「今やあなたは、単なる駐屯軍の司令官ではない。」
「彼の娘婿として、家族の"掟"のもとで処断される立場になったのです。」
私は目を細めた。
「だからこそ、行かなければならないのだ。」
「奴と決着をつけるなら、今しかない。敵軍が迫る前に、全ての膿を出しておく必要がある。」
「忘れるな。いざ包囲された時、我々の援軍を握っているのは、あの男だ。」
スジンは沈黙する。
そして、低く問うた。
「……ですが、もしあなたが生きて戻れなかったら?」
私は冷笑する。
「……俺が"あの男"にとって唯一の交渉材料を持っている限り、殺されることはない。」
「——王子、ボクドクの所在さえ知られなければな。」
スジンはわずかに表情を変え、咳払いをした。
「……その件ですが、"地図"のことを考えると、あなたの奥方が彼に渡す可能性はないでしょうか?」
私は即答する。
「……あり得ん。」
「決して父の仇と手を組むような女ではない。」
スジンはしばし沈黙した後、なおも言葉を選びながら進言した。
「……それでも、可能性はあります。」
その言葉に、私は鋭く睨みつけた。
「……もういい。」
「それ以上、彼女についての侮辱を聞く気はない。」
「出て行け。」
だが、スジンは動かなかった。
私は不快感を露わにする。
「聞こえなかったのか?」
彼は一瞬ためらったが、意を決したように言った。
「……では、あなたの妹についてのご指示は?」
私は窓辺に手をつき、深く息を吐いた。
スジンはなおも言葉を続ける。
「彼女は今も幽閉されたままです。」
「そして、あなたは未だに、一度も彼女を訪ねていない。」
「今はこのままにしておこう。今、彼女と対峙すれば、我慢できなくなるかもしれない。だが、この状況で、貴重な人材を失うわけにはいかない。彼女は長年、要塞の弓兵部隊を指揮してきた。代わりを見つけるのは容易ではない。それに、ヘヨンがこの出立の後、要塞に戻らぬよう手を打つつもりだ。今後の展開次第では、マナへの処分も状況に応じて決める。」
スジンは納得したように頷くと、一礼し、部屋を後にした。
私は一人、窓の外へ視線を向ける。城壁の上では、ちょうど兵の交代が行われていた。
——大莫離支との対面が、すべてを決することになるだろう。
ヘヨンがあの男と手を組むとは思えない。だが、あの憎悪を考えれば、彼女が俺を陥れるために利用しようとしないとも言い切れない。
——すべては彼女がテウォンをどれほど信じているかにかかっている。
もし彼に"地図"を渡せば、それで終わりだ。大莫離支も、俺も。
ふと気づく。この問題の核心は、テウォンが本当に李世民の手先かどうかではない。ヘヨンと彼の間にある"絆"こそが、すべてを左右している。つまり、俺は心の奥底で、最初からテウォンを疑ってなどいなかったのだ。
——ヘヨンが俺に弓を向けたあの日。テウォンを庇い、俺の矢から彼を守ろうとした彼女の眼差し。その光景が鮮明に蘇る。
思わず目を閉じ、記憶を振り払おうとするが、消えない。
俺は思っていた。彼女に憎まれるのは仕方がない。たとえ嫌われようとも、それは必要なことなのだと。彼女を遠ざけ、安全を確保するまでの、避けられぬ代償なのだと。……だが、それは欺瞞だった。
時間が経つほど、耐えられなくなっていく。俺を見る彼女の目。憎しみ、怒り、軽蔑——そして今、その心さえテウォンに揺さぶられている。だが、もう引き返せない。
俺は目を開け、遠くに見える彼女の住まう楼閣を見つめる。
「……姫君。もし、時間を巻き戻せるのなら。」
——いや、そもそも、俺は彼女を"失う"のか?
……いや、違う。彼女は最初から、俺のものではなかった。俺が"真実"を語らなかった、その瞬間に、すでに彼女を裏切っていたのだ。その報いを受けるのは、俺自身なのだ。
胸が締め付けられる。あの夜の記憶が甦る——
三年前。平壌の宮殿を見下ろす丘で、交わしたあの口づけ。……あの瞬間など、決して訪れるべきではなかったのに。
俺は決めた。——彼女を、要塞には戻さない。たとえ彼女が俺を大莫離支に売ろうと、もはや関係ない。彼女とボクドクを倭へ送る。それしかない。
これまでずっと、王子を異国へ追いやることだけは避けてきた。なぜなら、一度国外に出せば、二度と戻すことができないかもしれないからだ。だが、今はそんなことを言っていられる状況ではない。
決断しなければならない。ヘヨンもまた、その決断の中に含まれているのだ。