第41章 マンチュン
唐軍の動向に関する報告書を五度目に読み返していた時——
ようやく、スジンが戻ってきた。
「——ご命令通り、処理しました」
彼は、私が口を開くより先にそう言った。
「奥方の症状が、解毒剤の影響であることを利用し、即興で話を作りました」
私は安堵の息を吐き、手元の報告書を机に置く。
「……私の考えが甘かった」
静かに呟く。
「この要塞に置いておけば、彼女を守れると考えていた。だが——
周囲のすべてが、彼女を危険に晒している」
「……いっそ、真実をお伝えしては?」
スジンが鋭く指摘する。
「それに……その……言いにくいのですが……」
彼は一瞬言葉を濁し、それから続けた。
「——皆、奥方が懐妊したと信じています」
私は一瞬、思考が追いつかず、スジンを見つめる。
「……妊娠?」
「つまり……その……即興で話を作る中で、そういうことにしてしまいました」
スジンは肩をすくめた。
「奥方が吐き気を催したのを見て、これを利用できると思ったのです。
戦が迫る中、あなたが奥方を要塞の外へ避難させるための最適な理由になるかと」
私は報告書を指で叩きながら考える。
「……テウォンの様子は?」
スジンは眉をひそめた。
「テウォン?……さほど気にしていませんでした」
「……マナは?」
「ご命令通り、彼女の部屋に軟禁しました」
私は黙って頷き、額に巻かれた布に指を這わせる。
こめかみの奥に、鈍い痛みが広がっていた。
「なぜ……こうも、すべてが思い通りにいかないのか」
呟くように漏らす。
「私の仕事は、火の手を消して回ることだけなのか……」
「……ところで、その『火の手』についてですが」
スジンが口を開く。
「いつ、奥方と直接話されるおつもりですか?
もしあの地図が、間違った手に渡ったら——」
私は顔を覆い、目を閉じた。
「……テウォンに、まだ見せていないことを祈るしかない」
「ですが——」
スジンの声が、僅かに不安を滲ませる。
「……そもそも、彼が誰かと情報を交換しているかどうかも、不明ですがね」
私はまぶたを開き、スジンを鋭く睨みつける。
「——人は決して変わらない。そして、テウォンはなおさらだ。あいつは信頼に値しない。昔からそうだったし、今も変わらない」
低く、静かな声で告げる。
「あいつの本性は、他人を欺き、自分を偽ることだ。弱者を装う時、それはまさに相手を討ち取ろうとしている証拠だ」
私は、今日の昼間の出来事を思い返す。
『——その重荷、俺に預けてはどうだ? 彼女のことは、俺がしっかり面倒を見よう。
それに、彼女はお前よりも俺を選ぶだろう? 俺のほうが、夫として彼女に必要なものを与えられる』
その言葉を思い出しただけで、胸の奥が煮えくり返る。
だが、今になって改めて考えると——
あの時は気にも留めなかった言葉が、違う意味を帯びて聞こえてくる。
「——あいつには、実際に裏で支えている者がいるはずだ」
私は確信を持って言った。
「ですが、まさか李世民が彼を抱き込んでいると?」
スジンが疑問を呈する。
「彼は何と言っても、あなたの弟であり、高句麗の民です」
「——その二つが、あいつにとって何の意味を持つ?」
私は冷笑する。
「あいつが忠誠を捧げるのは、己の利益だけだ。
そして、ヘヨンに対する興味も、単なる情愛とは思えない」
……仮にそうだったとしても。
私は決して、あいつを彼女に近づけはしない。
——なぜなら、俺の父はかつて、あいつの不祥事を闇に葬るため、政治的な人質として国外へ送り出した。
だが、それであいつの罪が消えるわけではない。
テウォンは獣だ。
そして、私が確信しているのは——
国外で学んだのは、更なる狡猾さと用心深さだけだ。
礼儀正しく、洗練された若様の仮面の下に潜むのは、陰湿で卑劣な本性。
もし、あいつがヘヨンの正体に気づけば——
彼女にとって、最大の脅威になる。
「——では、そこまで危険視されているのなら、いっそ手を打たれては?」
スジンが意味ありげに言う。
「あなたの手で、問題ごと消してしまうのも一つの手かと」
「……それができるのなら、とうにそうしていた」
私は静かに首を振る。
「だが、今はもう遅い」
「遅い……?」
「先ほど、テウォンはこう言った。
——『彼女にとって、ここで唯一の味方は自分だ』と」
スジンの表情が険しくなる。
「もし、俺がテウォンを排除しようとすれば、彼女はきっと反発する。
追い詰められた彼女が、俺に復讐しようと考えたら……?
大莫離支か、その部下の誰かに、あの地図を渡す可能性もある。
俺を破滅させるために」
私は机に肘をつき、手を組む。
「……まず、彼女にテウォンの正体を見せなければならない」
「つまり、真実を明かすしかないと?」
スジンが言い、私をまっすぐに見据える。
「どのみち、あの外出の際の彼女の反応を見る限り……彼女は、すでに薄々気づいているのでは?」
「……それがわからない」
私は椅子の背に身を預けた。
「もし、彼女が兄と会った後で、俺に話を聞きに来ていれば——
それを機に説明することもできた」
だが、彼女はそうしなかった。
その代わりに、テウォンと共謀し、俺の書斎を漁ったのだ。
「——結局、俺はまだ信用されていない。
彼女にとって、俺は殺人者であり、怪物のままだ」
口に出してみると、想像以上に苦しかった。
「——そもそも、あの日、彼女を連れて行ったのが間違いだったのかもしれない」
静かに結論を下す。
「それに……」
視線を落とし、開かれた軍報を見つめる。
「大莫離支は、間違いなく動くだろう。
彼女の"懐妊"を知れば、俺たちを罠にかけるために」
……どの道を選んでも、待っているのは危険ばかりだ。
私は小さく息を吐き、
「——下がれ」
とスジンに命じる。
「夕餉の準備ができたら知らせろ。
俺が自ら彼女の元へ運ぶ」
スジンは一礼し、部屋を後にした。