第38章:ヘヨン
遼東の春の湿った空気が、要塞全体に重くのしかかっていた。
壁の石も、床の敷石も、湿気を含んで鈍く光っている。
私は数冊の軍略書を腕に抱え、静かに歩を進めた。
——これが、司令部に入り込むための唯一の"もっともらしい理由"。
吐き気をこらえながら、入り組んだ回廊を進んでいく。
解毒薬のせいか、それとも淀んだ空気のせいか——体の奥から込み上げるものを抑え込むのに必死だった。
最後の階段を上りきると、司令部の入り口が見えてきた。
二人の衛兵が門の両側に立っている。
私が近づくと、彼らは一瞬だけ視線を向けたが、無表情のままだった。
——しかし、扉まであと数歩というところで、一人が剣の鞘を横にかざし、行く手を阻んだ。
「——司令官の許可なしに、誰も入ることはできない」
私は平然と応じる。
「司令官自ら、これを彼の書斎へ届けるようにと仰せつかりました」
抱えていた軍略書を少し持ち上げ、彼らに示す。
しかし、衛兵の表情は変わらなかった。
「命令は命令だ。例外はない」
「……私は彼の正妻だ」
私は毅然と言った。
だが、次の瞬間、冷たい声が返ってくる。
「——そして、お前は大莫離支の娘でもある」
……指が、軍略書の革張りの背を強く握りしめた。
このままでは、中へ入れない。
今この瞬間、テウォンがマンチュンを引き止めているというのに——私はここで足止めを食らっている。
しかし、彼らの硬い表情を見る限り、交渉の余地はなさそうだった。
……別の方法を考えなければ。
私はわざと諦めたように息をつく。
「……分かりました」
そう言って、私は踵を返し、左手の通路へと足を向ける。
——もちろん、このまま引き下がる気はない。
何か別の手を考えなければ——いや、考える時間すら惜しい。
私は角を曲がると、近くにあった部屋へと足を踏み入れた。
そこは、要塞内にいくつもある軍需物資の貯蔵庫の一つだった。
目を走らせる。
槍、矢束、木箱、樽——どれも戦場で使う補給物資ばかり。
特に目ぼしいものは……いや、待て。
私は、最も手近にあった樽へと歩み寄り、蓋を開けた。
——砂。
……ため息をつき、次の樽の蓋を開ける。
——また砂。
……最後の樽を開け、そして——動きを止めた。
樽の中にぎっしりと詰まっていたのは、膀胱袋に詰められた"油"だった。
——戦場で使われる"火矢"のためのもの。
これを矢の先端に括りつけ、火をつけて放つ。
例え標的に当たらずとも、地面や敵陣の障害物にぶつかれば自然に引火し、瞬く間に火の手を上げる——そんな"兵器"。
この樽の中身に、もし火が触れたら——
私は腕の中の本に目を落とした。
『孫子の兵法』の表紙が視界に入る。
——いいだろう。
孫子も、この策には目を瞑るはずだ。
慎重に廊下へと身を滑り込ませ、壁に掛けられた松明へと近づく。
私は素早く本の角を炎へとかざした。
ページが燃え上がるのに、時間はかからなかった。
炎が紙を舐めるや否や、たちまち赤々と燃え広がる。
私は急いで物資庫へ戻り、慎重に距離を保ちながら、本を開いたまま樽の中へと投げ込む。
燃えさかるページが樽の奥深くへと沈むのを見届けると、すぐさま踵を返し、脇道へと通じる階段を駆け下りた。
——あとは、煙が司令部の前の衛兵たちに気づかれるのを待つだけ。
火——それは、宮殿でも、要塞でも、ただの村であっても、人々が最も恐れるもの。
初期消火に失敗すれば、一瞬ですべてを奪い去る。
だからこそ、火の気があれば、すべての警戒をそちらへ向けざるを得ない。
要塞の高湿度と、近くに積まれた砂のおかげで、消火はそう難しくはないだろう。
だが、騒ぎが収まるまでの間に、私は司令部を隅々まで調べることができるはず——。
実際、待つ必要はほとんどなかった。
わずか数分のうちに、焦げた臭いを伴う煙が廊下を包み込んでいく。
私は遠回りして上の回廊へと戻った。
そして、見れば——衛兵の姿はもうない。
迷わず司令部の扉へと向かう。
当然ながら、鍵がかかっている。
震える手で、テウォンから受け取った鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。
——どうか、これで開いてくれ。
小さな抵抗を感じながらも、鍵は回る。
かちり、と音を立て、扉がわずかに開いた。
私はすぐさま身を滑り込ませ、中から扉を閉める。
そして、そのまま背をもたせかけるように立ち止まり、荒い息を整えた。
静まり返った部屋を見渡す。
**
たとえ誰もいなくとも——この部屋には圧倒的な"気配"が満ちていた。
マンチュンの気配。
まるでこの空間そのものが、彼の存在感に支配されているかのようだった。
慎重に視線を巡らせる。
——何か、手がかりになるものはないか?
この要塞の他の建物と同じく、部屋の内装は極めて簡素だった。
装飾らしいものは一切なく、ただ必要最小限の家具だけが置かれている。
まさに、軍務だけに没頭する男の部屋。
まずは、机——そして、戸棚と本棚。
どこから調べるべきか。
胸の奥で、心臓が激しく脈打っていた。
眠れない夜を何度も過ごした。
それでも、今日こそは——
今日こそ、"真実"にたどり着けるかもしれない。
——私の兄が、まだ生きているという"真実"に。
最初に戸棚を開く。
一つひとつ、丁寧に調べるが——何も見つからない。
棚板の裏、底の板、隠し扉や二重底——可能性のある場所はすべて探った。
——それでも、"何もない"。
次に、机と本棚へと目を向ける。
マンチュンは用心深い。
彼のような男が、こんな場所に重要なものを隠しているとは考えにくい。
となれば、可能性があるのは——本棚。
……だが、期待はすぐに打ち砕かれた。
並んでいるのは、軍事報告書、財務帳簿、要塞の物資管理記録ばかり。
紙の冊子、竹簡、どれも整然と年代順に整理されている。
いくつか手に取り、内容を確認する。
棚の隅々まで注意深く調べた。
だが——
何も、ない。
じわじわと焦りが押し寄せてくる。
背後の扉の向こうから、騒ぎの声が聞こえ始めた。
——援軍が来た。
まもなく火は鎮火され、衛兵たちも持ち場に戻る。
時間がない。
私は最後の手段として、机を調べることを決めた。
慌てて向かおうとした、その時——
——がんっ!
私は、戸棚の角に肩をぶつけた。
その拍子に、戸棚の上に置かれていた銅製の筆立てがぐらりと揺れる。
私は息をのんだ。
筆立てはしばらく危うく傾いたまま耐えていたが、ついに重心を崩し、落下し始める。
背筋に冷たいものが走った。
私は咄嗟に手を伸ばし、どうにか床に落ちる直前で掴み取る。
ぎゅっと胸に抱え込み、安堵のため息を吐いた。
落ちたのは、筆立ての中の二本の筆だけだった。
それらは床に静かに転がったが、音を立てることはなかった。
筆立ての縁を掴み、元の位置へ戻そうとした瞬間——
指先が、何か違和感のあるものに触れた。
革張りの裏側の部分だ。
私は眉をひそめ、もう一度慎重に触れてみる。
——やはり、何かおかしい。
筆立てを傾け、中をのぞき込んだ。
革の裏地の一部が、わずかに浮いている。
私はすぐに残りの筆を取り出し、その部分を指先でつまんで引っ張った。
すると——
白い紙片が、ちらりと見えた。
目を凝らす。
手を滑らせないよう慎重に裏地をはがしていくと、その下には、一枚の文書が隠されていた。
焦る気持ちを抑えきれず、つい力を入れすぎそうになる。
破らないように注意しながら、それを引き抜いた。
広げてみると——
地図だった。
目を走らせる。
そこには、要塞の位置、そして私が到着後に向かったあの寺の場所が記されていた。
さらに、いくつかの不明な印が描かれており、その中でもひときわ目を引くのは、赤い墨で囲まれた小さな四角。
寺からそう遠くない場所にある。
私はしばし、その赤い印を見つめた。
これだけが、他と異なる色で示されている。
廊下のざわめきが、次第に小さくなっていく。
——長居はできない。
地図を袖の中に滑り込ませる。
次に、革の裏地を完全にはがし、元の状態ではなくした。
できるだけ自然に見えるよう、筆を元通りに並べ、筆立てを元の位置に戻す。
すべて整えた後、私は扉へ向かい、そっと隙間を開けた。
視界に広がるのは、煙。
充満した黒煙が廊下を覆い尽くし、視界を奪っていた。
今が好機だ。
私は音を立てぬよう慎重に廊下へ踏み出し、司令部の扉を鍵で施錠する。
そのまま、来た道を戻るように身を低くして進み、一度も誰かに見咎められることなく要塞の外へと抜け出した。
外の空気を吸い込んだ瞬間、全身の力が抜けた。
無事に脱出できた。
しかし、まだ終わりではない。
——テウォンを探さなければ。
もう彼が兄を引き留めておく理由はない。