第37章: テウォン
昼前、雲の切れ間から太陽が顔を覗かせる。
春先のまだ弱い日差しではあるが、夜の雨がもたらした湿気を徐々に拭い去り、地面にしがみつくように薄い霧が残っている。
私は屋敷の軒下に胡坐をかき、嵐の前の静けさを味わっていた。
やがて、兄が堂々とした足取りで門を越え、こちらへ向かってくる。
私はちらりと視線を向けるに留める。
彼はいつもの黒い軍服に身を包み、機嫌が悪そうだ。
まだ私の前に辿り着く前から、苛立ちを隠そうともせずに言う。
「今度は何を企んでいる?」
相変わらずの横暴ぶりだ。
四段ある階段を一気に上り、私が立ち上がるのと同時に、彼を迎えるように言葉をかける。
「兄上、こうして安市に戻って数週間が経ちましたが、まだゆっくりお話しする機会もありませんでしたね」
彼は私を疑わしげに見つめる。
「くだらん芝居はやめろ。お前の行動には、常に何かしらの企みがある。それを隠そうとするな」
「そこを少しは疑ってみようとは思わないのですか?」
私は少し悲しげに微笑む。
「異国での歳月を経て、私が変わった可能性は考えもしませんか?」
彼は依然として鋭い視線を向けてくる。
「私は十分すぎるほど罪を償ったつもりです」
静かに問いかける。
「それでも、まだ私を許せませんか?」
しかし、兄の視線は冷たいままだ。
「人は変われます」
私は食い下がる。
「私も変わったのです」
「俺は、人の本性は行動でしか判断しない」
その尊大な口調に、私は心の中で舌打ちする。
相変わらずだ。
兄はずっとこうだ。
自分が正当な嫡子であり、私は妾の子というだけで、当然のように見下してくる。
「私は孤立無援で、何の権力も持たない」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「この砦の運営に、私の行動が影響を及ぼすことは一切ない」
「では、一体どうすれば、私が変わったことを証明できるというのですか?」
兄はじっと私を見据える。
まるで私の心を見透かそうとするかのように。
やがて、静かに言い放った。
「今この瞬間も、俺を操ろうとしている。お前はそういう人間だ」
「——何もかも、自分の都合のために他人を動かそうとする」
私は微笑む。
「随分とたくさんの意図を読み取ってくれるようで」
肩をすくめ、冷静に続ける。
「では、いっそこの場ではっきりさせましょうか」
すると、兄は冷笑を浮かべた。
「お前が正直になるとでも?もしそうなら、確かに"変わった"ことになるな」
私は苛立ちを飲み込み、慎重に計算された微笑みを浮かべる。
「疑う前に、一度くらい試してみては?」
「どうせ、お前への評価は変わらん」
兄は断言する。
「俺たちの間にある溝は埋められない」
頑固な男だ。
戦場ではその頑固さが武器になるだろうが、こうして向き合っていると、これほど厄介なものはない。
「埋められないのは、兄上が一歩も譲らないからです」
穏やかに言う。
「だからこそ、こうして話し合う機会を設けたのですが」
「また何を企んでいる?」
「企み?」
私は少しだけ肩をすくめる。
「なら、こう言いましょうか。遊びませんか?」
そう言って、袖を翻し、用意していた道具を示す。
精巧に作られた銅製の壺と、先端に布を巻きつけた十本の矢。
兄はそれを見るなり、呆れたように笑い声を上げた。
「……矢投げ遊びか?」
「覚えていますか?」
私は壺を軽く指で叩く。
「子供の頃、よくこれで遊びましたよね」
すると兄は鼻で笑う。
「まさか、お前が俺をここに呼びつけたのは、矢を壺に投げ込むためだとでも言うのか?」
「ええ、そうです」
彼は短く笑う。
「馬鹿馬鹿しい。俺たちはもう子供じゃない」
私は肩をすくめる。
「それなら、こういうのはどう? 一投ごとに、成功した者が相手に一つ質問できる。ただし、答えは正直に——というルールで」
兄はじっと私を見つめ、提案を吟味するように黙り込んだ。
——挑発されたな。
兄の性格を考えれば、ここで乗らないはずがない。
やがて、彼は手を伸ばし、一本の矢を取り上げた。
先端に巻かれた布を指でなぞりながら、言う。
「いいだろう」
だが、そのまま疑わしげな目を向けてくる。
「とはいえ、お前が嘘をつかない保証はどこにある?」
「……そこまで疑われると傷つくな」
私が肩をすくめると、彼は手を振り、煩わしそうに言い放った。
「さっさと壺を置け」
私は言われた通りにし、二人とも構えを取る。
「兄上が長兄なのだから、先にどうぞ」
兄は手にした矢の先端を親指で撫でながら、わずかに考え込むような仕草を見せた。
「……お前、このゲームは昔から苦手だったな」
思い出したように口にする。
「もしかして、俺に尋問でもさせるつもりか?」
「どう受け取っても構わない。ただ、少しでもお互いの誤解を解けるなら、それに越したことはない」
私は穏やかに返す。
「砦の中は今、無駄な緊張が多すぎる。その一因が私にあることは否定しない。それが重荷になっているんだ」
兄は再び私を見つめる。
心を探るような鋭い眼差し。
そして、決断を下した。
「……いいだろう。一度だけ、機会をやる」
「それで十分だ」
私は即答する。
兄は短く息を吐き、矢を構えた。
放たれた矢は、銅の壺の縁に当たり、跳ね返って地面に落ちる。
「どうやら幸運は私の味方のようですね」
私は矢を一本取り、的を狙い、矢を投じた。
乾いた音が響く。
——命中。
「さて、私の勝ちですね、兄上」
「さっさと質問しろ」
兄は苛立たしげに言う。
私は微笑む。
「その前に、一つ約束してもらえますか?」
「何だ?」
「どんな質問をしても、冷静でいてくれますか?」
兄はわずかに眉をひそめたが、すぐに表情を引き締めた。
「我々は正直に答えると誓ったはずだ。ならば、罰せられるべきは嘘や不誠実な態度であって、質問や答えではない」
——さすが、兄上。
私の期待通りの返答だった。
「では、尋ねましょう。質問は単純です」
私は視線を真っ直ぐ向ける。
「なぜ、私を"弟"として認めようとしないのですか?」
兄は微動だにしなかった。
顔色一つ変えず、感情も読めない。
やがて、静かに口を開く。
「お前は弟だ。それは否定しない」
「……なら、なぜ」
「だが、俺は高句麗の将でもある」
そう言い切る。
「この国の利益が、家族よりも優先されるのは当然だ」
私は小さく息をつき、苦笑する。
「まるで父上の言葉そのものですね」
その瞬間、兄の顎がわずかに引き締まるのが分かった。
「次は俺の番だ」
彼はそう告げ、新たな矢を手に取る。
構え、狙い、放つ。
——命中。
「では、俺の質問だ」
兄は少しも迷わず、核心を突くように問う。
「なぜ戻ってきた?」
鋭く、容赦のない問い。
「理由は単純だ」
私は静かに答える。
「ようやく、許可が下りたからだ」
兄の目が細まる。
「……俺が知る限り、お前は自らの意思で長安へ行ったわけではなかったな」
「ええ」
私は穏やかに認める。
「父上は私を"高句麗のための駒"として差し出した。罰として、そして、外交の道具として」
「つまり、お前の運命は"長安で死ぬ"ことだったはずだ」
「そうだ」
「——だが、お前は戻ってきた」
兄の声が低くなる。
「つまり、何らかの事情があった」
「……」
「お前は本来、生きて帰れないはずだったのに、帰ってきた」
静かな沈黙。
そして、私は目を細め、問い返す。
「……つまり、兄上は私が死ぬべきだったと?」
兄は私に向き直ると、真っ直ぐに視線を突き刺してきた。だが今回は、冷たい仮面を脱ぎ捨てていた。
——意外なことに、その瞳に宿っていたのは、敵意ではなく憂慮だった。
私と同じ琥珀色の瞳に、わずかな光が揺れている。
「そんなことを思ったことはない」
彼の声は静かだった。
「お前が無事であることを、ずっと願ってきた」
だが、その言葉に続けて、彼は険しい表情を浮かべる。
「だが、お前も理解しなければならない。戦の前夜、この国の防衛の要となる地に、お前は戻された。これが単なる偶然だと思うか? お前が李世民の刺客ではないと、どうして信じられる?」
「——国が家族に優先する、か」
私は彼の言葉を繰り返した。
「つまり、お前にとっては、俺が帰還を許された時点で裏切り者確定、というわけだな?」
兄の目が鋭く細められる。
「李世民は何を約束した?」
彼は詰め寄るように問うた。
私は微笑む。
「兄上、それはルール違反ですよ。今のは新たな質問だ」
軽く肩をすくめる。
「答えが聞きたければ、もう一度的を射抜くことですね」
そう言いながら、私は矢を構え、再び壺の中心を射抜いた。
「さて、私の番です」
兄は不機嫌そうに腕を組む。
「聞こう」
早く次に進めとでも言いたげな態度だ。
「今度の質問は個人的なものですよ」
私はわざと間を取る。
「兄上はこう言いましたね。『国が家族に優先する』と」
兄の眉がわずかに寄る。
「ならば——」
私は探るように問いかけた。
「どうして兄上は、その『国』よりも、新しい奥方を優先するのですか?」
沈黙。
次の瞬間、兄の視線が鋭く冷たくなる。
「……それが、お前の目的か」
「また邪推を」
「邪推?」
兄は乾いた笑いを漏らした。
「お前こそ、忘れたとは言わせない。父上がなぜお前を"生贄"にしたのか」
冷たい声だった。
「……俺は知っているぞ。お前が彼女にどんな目を向けているのか」
殺気がにじむ。
「お前は、あの娘をまた"餌食"にしようとしているのではないか?」
私は頭を振った。
「なぜ、俺が変わったとは考えられない?」
「——お前のような獣は変わらない」
兄は断言した。
「それに、誤解しているようだが、俺の問いには別の意図がある」
私は淡々と続ける。
「俺には理解できないんですよ」
「何がだ?」
「彼女は、兄上に強い恨みを抱いているように見える。にもかかわらず、兄上は彼女を手放そうとしない。なぜです?」
兄の表情が険しくなる。
「戦が始まる。兄上はすでに敵を多く抱えている。さらに大莫離支との確執まである。ならば——なぜ、そんな"厄介な女"を抱えている?」
兄の喉がわずかに動く。
だが、彼は答えず、視線をそらした。
彼の目は、私の居館の外壁へと向けられていた。
——逃げる気だな。
だが、私は兄をここに引き止めるつもりだった。
そして、それには"挑発"が一番効果的だ。
「それなら、いっそ俺に譲ればいい」
兄の視線がこちらに戻る。
「俺なら、彼女をもっと大事に扱えますよ」
私は静かに微笑む。
「彼女も、俺のほうを好いているようですし」
「……」
「俺なら、彼女に"夫"としての愛情を注げる。兄上とは違ってね」
次の瞬間——
視界がぶれた。
首筋に冷たい鋭さが押し当てられる。
兄が、私の襟首を掴み、矢の先を喉元に突きつけていた。
「——もう一度言ってみろ」
彼の顔が至近距離にある。
怒りに震え、目には憤怒が宿っていた。
「……」
「二度と彼女に近づくな」
兄の声は低く、そして鋭かった。
「知っているぞ、お前が"何をした"のか」
「……」
「お前の手にかかった女たちのことをな」
私は微動だにせず、静かに応じた。
「——俺は罪を償った」
「何?」
「この三年間、俺は何度も辱めを受け、殴られ、拷問されてきた。そのたびに、俺は過去を償ってきたつもりだ」
「……」
「それでも、兄上はまだ俺を裁こうとするのか?」
兄の手に力がこもる。
「……黙れ。これ以上喋るなら、今ここでお前を殺す」
彼の目を正面から受け止めながら——
私は、ふっと笑った。
「殺す? 俺を?」
「……」
「——ならば、彼女にどう説明する?」
兄の目が揺れた。
沈黙が落ちる。
私は、その瞬間を逃さず、さらに一押しした。
「——もし、兄上の言うことが真実ならば、なぜ迷う?」
兄の手がかすかに震えた。
「お前のような奴に言われる筋合いはない」
彼は吐き捨てるように言った。
兄は私に向き直ると、真っ直ぐに視線を突き刺してきた。だが今回は、冷たい仮面を脱ぎ捨てていた。
——意外なことに、その瞳に宿っていたのは、敵意ではなく憂慮だった。
私と同じ琥珀色の瞳に、わずかな光が揺れている。
「そんなことを思ったことはない」
彼の声は静かだった。
「お前が無事であることを、ずっと願ってきた」
だが、その言葉に続けて、彼は険しい表情を浮かべる。
「だが、お前も理解しなければならない。戦の前夜、この国の防衛の要となる地に、お前は戻された。これが単なる偶然だと思うか? お前が李世民の刺客ではないと、どうして信じられる?」
「——国が家族に優先する、か」
私は彼の言葉を繰り返した。
「つまり、お前にとっては、俺が帰還を許された時点で裏切り者確定、というわけだな?」
兄の目が鋭く細められる。
「李世民は何を約束した?」
彼は詰め寄るように問うた。
私は微笑む。
「兄上、それはルール違反ですよ。今のは新たな質問だ」
軽く肩をすくめる。
「答えが聞きたければ、もう一度的を射抜くことですね」
そう言いながら、私は矢を構え、再び壺の中心を射抜いた。
「さて、私の番です」
兄は不機嫌そうに腕を組む。
「聞こう」
早く次に進めとでも言いたげな態度だ。
「今度の質問は個人的なものですよ」
私はわざと間を取る。
「兄上はこう言いましたね。『国が家族に優先する』と」
兄の眉がわずかに寄る。
「ならば——」
私は探るように問いかけた。
「どうして兄上は、その『国』よりも、新しい奥方を優先するのですか?」
沈黙。
次の瞬間、兄の視線が鋭く冷たくなる。
「……それが、お前の目的か」
「また邪推を」
「邪推?」
兄は乾いた笑いを漏らした。
「お前こそ、忘れたとは言わせない。父上がなぜお前を"生贄"にしたのか」
冷たい声だった。
「……俺は知っているぞ。お前が彼女にどんな目を向けているのか」
殺気がにじむ。
「お前は、あの娘をまた"餌食"にしようとしているのではないか?」
私は頭を振った。
「なぜ、俺が変わったとは考えられない?」
「——お前のような獣は変わらない」
兄は断言した。
「それに、誤解しているようだが、俺の問いには別の意図がある」
私は淡々と続ける。
「俺には理解できないんですよ」
「何がだ?」
「彼女は、兄上に強い恨みを抱いているように見える。にもかかわらず、兄上は彼女を手放そうとしない。なぜです?」
兄の表情が険しくなる。
「戦が始まる。兄上はすでに敵を多く抱えている。さらに大莫離支との確執まである。ならば——なぜ、そんな"厄介な女"を抱えている?」
兄の喉がわずかに動く。
だが、彼は答えず、視線をそらした。
彼の目は、私の居館の外壁へと向けられていた。
——逃げる気だな。
だが、私は兄をここに引き止めるつもりだった。
そして、それには"挑発"が一番効果的だ。
「それなら、いっそ俺に譲ればいい」
兄の視線がこちらに戻る。
「俺なら、彼女をもっと大事に扱えますよ」
私は静かに微笑む。
「彼女も、俺のほうを好いているようですし」
「……」
「俺なら、彼女に"夫"としての愛情を注げる。兄上とは違ってね」
次の瞬間——
視界がぶれた。
首筋に冷たい鋭さが押し当てられる。
兄が、私の襟首を掴み、矢の先を喉元に突きつけていた。
「——もう一度言ってみろ」
彼の顔が至近距離にある。
怒りに震え、目には憤怒が宿っていた。
「……」
「二度と彼女に近づくな」
兄の声は低く、そして鋭かった。
「知っているぞ、お前が"何をした"のか」
「……」
「お前の手にかかった女たちのことをな」
私は微動だにせず、静かに応じた。
「——俺は罪を償った」
「何?」
「この三年間、俺は何度も辱めを受け、殴られ、拷問されてきた。そのたびに、俺は過去を償ってきたつもりだ」
「……」
「それでも、兄上はまだ俺を裁こうとするのか?」
兄の手に力がこもる。
「……黙れ。これ以上喋るなら、今ここでお前を殺す」
彼の目を正面から受け止めながら——
私は、ふっと笑った。
「殺す? 俺を?」
「……」
「——ならば、彼女にどう説明する?」
兄の目が揺れた。
沈黙が落ちる。
私は、その瞬間を逃さず、さらに一押しした。
「——もし、兄上の言うことが真実ならば、なぜ迷う?」
兄の手がかすかに震えた。
「お前のような奴に言われる筋合いはない」
彼は吐き捨てるように言った。
「……"マシ" か? そんなことはどうでもいい。重要なのは、彼女がどう思うかだ」
私は静かに言い放った。
「この要塞で、彼女が唯一"味方"とみなしているのは俺だ。——お前とは違ってな」
兄の目が細まり、鋭い光を宿す。
その顔に張り詰めた緊張が走るのを見て取った。
——彼の中で、何かが揺らいでいる。
「……テウォン」
兄の声が低く響く。
「それ以上、深入りするな」
だが、私は肩をすくめるだけだった。
「深入りする必要なんてないさ」
私は静かに微笑む。
「お前の反応がすべてを物語っている」
「……俺は、お前を甘く見ていたようだ」
兄はゆっくりと息を吐いた。
「確かに、お前は変わった」
彼は私を見据える。
「以前よりも大胆になり、そして——増長したな」
「お前こそ変わったよ」
私は即座に言い返す。
「長年、非情で冷酷なふりをしてきたが——結局、お前にも"弱点"があるんだな」