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第36章:テウォン

——雨音をかき消すように、

——小さな音が、微かに響いた。

私は読んでいた書物を静かに閉じ、耳を澄ませる。

長安から戻って以来、私に与えられたこの屋敷は質素な造りだった。

まるで兄が兵士たちに与える宿舎と見分けがつかないほどだ。

……いや、不満を言うつもりはない。

家具は好みのものを揃えることを許された。

だが、どんなに飾ろうと、

この部屋の持つ簡素で実用的な雰囲気は拭えなかった。

——まただ。

先ほどの音が繰り返される。

小石が窓枠に当たるような、控えめな合図。

私は眉をひそめる。

——誰かが、私の注意を引こうとしている。

だが、唐の李世民が砦に送り込んだ密偵が

こんな方法で接触を試みるはずがない。

私はそっと隣の燭台に息を吹きかけ、

部屋を闇に沈める。

——兄の監視の目がある以上、

——余計な疑いは招かないほうがいい。

瞬きをし、暗闇に目を慣らしてから、

私は窓へと静かに歩み寄った。

慎重に障子を開け、外を窺う。

雨の帳が重く垂れ込め、何も見えない。

しかし、障子を閉めようとしたその時——

影が、揺れた。

材木庫の庇の下、誰かが立っている。

——その姿を、私は知っている。

——ヘヨン。

私は思わず、唇を噛んだ。

……奇妙な高揚感が胸を満たす。

そして、静かに手を挙げ、

——回り込むようにと、彼女に合図を送った。

彼女はこくりとうなずき、数瞬後、ずぶ濡れのまま私の部屋へと入ってきた。

「この雨なら、誰にも見られずに来られたわ」そう言いながら、彼女は静かに立っている。頬を伝う雨粒が灯りに照らされ、私は思わず見とれてしまう。

「風邪を引くぞ」

私は部屋の端へと歩き、布を手に取った。彼女が濡れた髪や衣を拭けるようにと差し出すが、頭の片隅では、もしこれを自分の手で拭ってやるなら——そんな考えがどうしてもよぎってしまう。

そして、戻ってきた私は——気づけば彼女の頬に布を当てていた。

彼女はわずかに震えたが、身を引くことはしない。その反応に、心臓の鼓動がこめかみにまで響いた。

「……自分でできるわ」

そう言って、彼女は布を受け取る。私は努めて平静を装い、ただうなずいた。

目を逸らすべきなのに、それができない。彼女のことが気になって仕方がない。

「顔色が悪いな」できるだけ無関心を装いながら尋ねる。「何かあったのか?」

彼女は首を横に振った。

こんなに近くにいるのに——

「……ううん。ただ、あなたと話がしたくて」

「どんなことでも聞くよ」冷静を保ちつつ答える。だが、彼女が本当に話をしに来たのか、それとも——そんな考えが脳裏をかすめる。

いや、邪推はやめるべきだ。無闇に詮索すれば、彼女を遠ざけてしまう。慎重にいかなければ——

「……私、ちょっと聞きたいことがあって」

だが、その言葉は途中で途切れる。

「何でも話していい」努めて気負わずにそう促す。「もし私が知っていることなら、答えよう」

彼女は髪の先をいじる手を止め、唇を噛む。気まずい沈黙が流れた。

私は咳払いし、柔らかく微笑んでみせる。

「話したくなければ、無理に言わなくていい」「……違うの」

彼女は言葉を選ぶように間を置いた後、静かに続けた。

「……妙に思うかもしれないけれど、三年前のある出来事について何か知っているかと思って……」

私は一瞬、呼吸を止めた。

笑みが、わずかに固まる。

過去についての会話は、いつだって危険だ。それに、彼女と過去について話すのは、特に厄介だった。不用意な言葉を口にしないよう、慎重に言葉を選ばなければならない。

しかし——

彼女は私の沈黙を待たず、続けた。

「……砦の外れにある寺で亡くなった、王子ボクドクのことよ」

私は眉をひそめた。

——予想外の話だった。

「……殿下のことか?」

慎重に、敬意を込めた言葉遣いで問い返す。彼を話題にするということは、何らかの形で彼と関わりがあるのだろう。ならば、礼儀は尽くしておくべきだ。

彼女は視線を落とした。

「……本当は、あなたに聞くつもりはなかったの。でも……あなたにとっても、辛い出来事だったはずだから」

私は、彼女の言葉の裏にある情報を整理する。

彼女はふと顔を上げ、私を見つめた。その瞳の中に、私自身の姿が映る。

「……彼が、生きている可能性はないかしら?」

——生きている 可能性?

言葉の意味を噛みしめる。

「……生きている可能性が?」

そう繰り返した自分の声が、どこか他人事のように聞こえた。

いや、彼女の言葉にはもう一つ、気になる点がある。

「……『彼も』?」

私は息を呑んだ。

まさか——

いや、軽率な推測は禁物だ。冷静になれ。

ここで焦って何かを見誤るわけにはいかない。

最善の策は、こちらから探りを入れること。

「……何か、それを示す証拠でも?」

私がそう問うと、彼女は困ったように視線をそらした。

「……はっきりしたものはないの。ただ……可能性があるかもしれないって思ったの。だって……私がここにいるんだもの」

——私が、ここにいる。

その一言が、全てを覆した。

言葉の意味を理解した瞬間、背筋に冷たいものが走る。

……これは、今までのすべてをひっくり返す話だ。

私は彼女の手首を掴み、強引に自分の方へと引き寄せた。

「ヘヨン」

彼女の瞳に映る自分の姿を見つめながら、静かに問いかける。

「今日の午後、一体何があった? 何を見て、そんな考えに至った? 兄はお前をどこへ連れて行った?」

「あなたには関わってほしくないわ」

彼女はそっと答える。

「正直なところ、最初はあなたに話すつもりはなかった。でも、この考えが頭から離れなくて…… ただ、知りたいの。ただの可能性でもいいから、あなたはどう思う?」

私は歯を食いしばり、必死に自分を落ち着かせる。

「……あの時、私はすでに長安へ向かっていた」

声を低く抑えながら答えた。

「知っているのは、公式な報告に記されたことだけだ。王子は流刑の途中で進路を変えた。その後、刺客と遭遇した。ヨン・ゲソムンが差し向けた者たちだろう。彼と随行していた者たちは全員……皆殺しにされた」

彼女はもう私を見ていなかった。

ただ、虚空を見つめている。

その表情は、言葉にできないほどの悲しみに歪み、まるで触れれば崩れてしまいそうなほど脆く映った。

握ったままだった彼女の手首の力を少し緩め、親指でそっと手の甲を撫でる。

今しかない。

真実を引き出したいなら、今、踏み込むしかない。

深く息を吸い、喉の奥で絡まる言葉を押し出す。

「……姫君」

その瞬間、彼女の身体がこわばる。しかし、否定しない。

それだけで十分だった。

まさか——

大莫離支の養女とは、高句麗の王女その人だったのか。

しかし、それを考える時間は今はない。

もし、ボクドク王子がまだ生きているのなら——この戦局は根本から覆る。

「……あの夜、何があった?」

私は息を詰めながら問う。

彼女はかすかに震えた。

咄嗟に彼女を抱き寄せ、髪を撫でる。

「大丈夫だ」

そっと囁く。

「今は俺がいる」

すると、彼女の身体がわずかに力を抜いたのを感じた。

雨に濡れた肌から、微かに香る甘い匂い。

指を絡め、その香りを胸いっぱいに吸い込む。

——このまま、全てを忘れてしまえたなら。

そんな思いが脳裏をかすめた瞬間、彼女が口を開いた。

「……マンチュン」

その名を聞いた途端、背筋が冷える。

怒りと、言いようのない感情が心の奥で渦巻く。

どうして——

こんな時に、彼の名を出す?

だが、すぐに気づく。彼女はこれから兄の死について話そうとしているのだ。

「……あの夜、寺にいたのは彼よ」

彼女は静かに続けた。

「彼と彼の兵たちが、私たちの一行を皆殺しにした……でも、なぜか私は生き残った。それがどうしてなのか、ずっと分からない……だから、思うの。もしかしたら……兄も同じように生きているのではないかって」

私はその言葉を反芻する。

マンチュン——

彼は徹底した忠義の男だった。

そんな彼が、王族を自らの手で殺す。

それがどうにも腑に落ちなかった。

まして、その後、大莫離支に公然と刃を向けたのなら——

あの夜、彼は王子の死を演出したのではないか?

その仮説が浮かんだ瞬間、今までの彼の行動が、一気に別の意味を持ち始める。

初めから、この戦局には隠された一手があったのだ——

「……どこに隠した?」

思わず問い詰めるようにヘヨンに向き直る。

「あなた、本気でそう思っているの?」

彼女の目が大きく見開かれる。

「正直なところ、説明がつくことが多すぎる」

「……今日の午後、砦の外で……兄を見た気がするの」

「どこだ?」

思わず詰め寄る。

「地図に描けるか?」

彼女は首を横に振る。

「……分からないの。輿の中にいたから、道が見えなかった」

私は猛烈な速さで思考を巡らせる。

——兄は慎重な男だ。

彼の周囲でこの件を知る者はごくわずかだろう。つまり、彼は万が一に備えて何かしらの対策を講じていたはずだ。

「どこかに記録を残しているはずだ」

私はそう結論づける。

「彼の持ち物はすでに調べた。でも、何も見つからなかったわ」

「そんなものを自宅には置かない。常に警護されている場所に隠すだろう」

「……彼の指揮所」

彼女はそう呟く。

「私は入ったことがない。彼はいつもそこにいるから」

私は彼女の瞳を見つめ、両手を彼女の肩にそっと置く。

「明日、昼の交代時なら、砦の内部にいる兵の数が減る。俺が何とかして、彼を足止めする」

「もし私が見つかったら……彼があなたの関与に気づいたら……?」

彼女の声に不安が滲む。

私は安心させるように微笑む。

今、彼女がためらうわけにはいかない。もしボクドク王子がこの国のどこかに生きているなら、必ず突き止めなければならない。

「俺はすでに疑われている」

穏やかな声で言う。

「今回は、奴の疑いが正しいことになるだけだ」

彼女は視線を落とし、小さく「ありがとう」と呟いた。

私は彼女の頬に手を添え、優しく顔を上げさせる。

「何があっても、どんな状況でも——お前は俺を頼っていい」

静かに告げる。

「俺は全力でお前を守る。そのことを忘れないでほしい」

そして、心の中でそっと付け加えた。

——お前の正体を知った今、もう二度と離すつもりはない。

理性を総動員して彼女から身を離し、数歩後ろへ下がる。

「そろそろ行ったほうがいい。誰かに見つかれば、すべてが台無しになる」

彼女がゆっくりと顔を上げる。

薄暗い部屋の中——その静寂の中で、彼女は息を呑むほど美しく見えた。

一瞬、腕を引き寄せ、唇を奪いたい衝動に駆られる。

だが、ぐっと堪える。

今はその時ではない。

まずは、足場を固めることが先決だ。

「……これが必要になる」

ふと、あることを思い出し、私は袖の中に手を滑り込ませる。

慎重に保管していた鍵を取り出し、彼女に手渡す。

「これは……?」

「指揮所の鍵の複製だ」

彼女の表情が揺らぐ。

「どうやって……?」

疑念を抱かれる前に、私は急いで説明する。

「違う、誤解しないでくれ」

慌てて言葉を継ぐ。

「偶然手に入ったんだ。だが、返そうとすると、また濡れ衣を着せられそうで……結局、持ち続けるしかなかった」

彼女は納得したように頷き、鍵を手に取る。

「それなら……都合がいいわね」

私は微笑み、扉の隙間から外を覗く。

暗闇の中、雨の音だけが静かに響いている。

警備の気配はない。

「行け」

小声で告げる。

「明日は必ず、お前に時間を稼ぐ。だから、必要な情報を必ず見つけ出してくれ」

彼女は小さく頷き、「ありがとう」と再び囁くと、雨の帳の中へと消えていった。

私は扉の隙間から、彼女の後ろ姿を見送る。

そして、雨に濡れた地面を眺めながら、思わず笑みをこぼす。

——すべてが変わった。

兄は、高句麗の王女を娶った。

つまり、もし彼に何かがあれば——私は彼女を正当な権利として手に入れることができる。

その時、私は——

ヤン・テウォン。

妾腹の子として、誰からも蔑まれてきたこの俺が。

ついに、王族の一員となる。

それも、王ボジャンと同等の立場を手に入れることになるのだ。

もしかすると——

もし李世民がボジャンを始末し、その間にボクドク王子がこの世から消えれば、俺だけが残ることになるのかもしれない。

もしそうなったら、李世民が約束した郡守の地位などでは満足できなくなる……。

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