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第34章: ヘヨン

静かな書斎。

机の上には、開いたままの本。

私は、ため息をつきながら、そっと茶の杯を唇に運ぶ。

「……奥方様。」

——マンチュンの護衛の声が、静寂を破る。

扉を開け、彼は一礼し、言った。

「——司令官が、城門でお待ちです。」

私は、ゆっくりと杯を置く。

「……何の用?」

護衛は、首を振った。

「理由は聞かされておりません。ただ、奥方様をお呼びするようにと。」

私は、本の表紙を軽く指で叩く。

——もしかして、すでに知られたのか?

——私が図書館にいたことを。

誰にも秘密にできるはずがなかった。

だが、まさか、こんなに早く呼び出されるとは——

「——お待ちです。」

護衛が、改めて促した。

私は、彼を一瞥し、わずかに不機嫌そうに身支度を整えた。

「案内なさい。」

私は、静かに立ち上がり、彼の後について書斎を出る。

石畳の敷かれた庭を抜け、城砦の兵舎を通り抜け、

市街地を進み、やがて——

——安市城の、巨大な城門の前へとたどり着いた。

太陽がすでに高く昇っている。

春の訪れとともに、かすかに暖かい風が吹き始めていた。

——遼東の厳しい冬は、もうすぐ消え去る。

——また何か企んでいるのだろうか。

——あるいは、これも新たな屈辱なのか。

私はそう覚悟していた。

しかし、目の前にあったのは——

城門のそばに停められた輿こし

その傍らで、マンチュンが背を向けて待っていた。

その輿は、先日寺へ向かう際に使ったものとよく似ている。

さらに、四騎の武装兵が馬上で待機していた。

——要するに、私たちは城を出るのだ。

……首都へ送り返されるのか?

そのとき、マンチュンが振り返る。

私の姿を認めた瞬間、彼の瞳に一瞬、奇妙な光がよぎった。

私は黙って歩を進め、彼の前で立ち止まる。

次の指示を待つ——

——だが、彼は何も言わず、ただ手を差し出した。

それは、私を輿に乗せるための仕草だった。

——一瞬、ためらう。

だが、約束したではないか。

「このゲーム」に付き合うと。

これは、彼が私に課した「試練」の一つに過ぎない。

私は静かにその手を取り、輿へと乗り込んだ。

マンチュンはそのまま私の向かいに腰を下ろす。

そして、輿がゆっくりと動き出した——

——だが、この空間は、息が詰まるほどに閉塞的だった。

私は、僅かに視線を横へ滑らせる。

彼もまた、こちらを見ていた。

外から響くのは、馬の蹄の音と車輪が揺れる音だけ。

——それ以外は、沈黙。

「……どこへ向かうの?」

ついに、私は口を開いた。

彼は薄く微笑む。

「着けば分かる。」

——また、謎めいたことを。

私がそれ以上追及しないでいると、彼は懐に手を入れ、

——緑色の陶磁器の小瓶 を取り出した。

「……?」

彼はそれを私に差し出す。

だが、私は受け取らず、そのまま見つめた。

彼はため息をつくと、私の手首を取り、手のひらを返して

——その小瓶を、そっと握らせる。

彼の指は、意外なほどに温かく、そして、驚くほどに滑らかだった。

「それは——」

「お前の"服従の毒"の解毒剤だ。」

「……一度飲めば、完全に解毒される。」

「——ただし。」

「……ただし?」

私が眉をひそめると、彼はわずかに咳払いをした。

「……この薬には、副作用がある。」

「——しばらく、強い吐き気に襲われる。」

「移動中に飲むのは、賢明ではないだろう。」

「城へ戻ってからの方がいい。」

私は、小瓶をじっと見下ろした。

「……どうして、こんなことを?」

彼の答えは、淡々としていた。

「言っただろう。」

「——お前は、生きていた方が役に立つ。」

その声には、皮肉の色さえなかった。

ちょうどそのとき、輿が止まる。

「——降りるぞ。」

まるで、もう会話は終わりだと言わんばかりに。

彼は先に地面へ降り、再び私に手を差し出す。

私は、その手を指先で掠めるように取ると、

すぐに離し、地面へ降り立った。

——周囲には、何もない。

遼東の丘陵地帯。

見渡す限り、広がるのは草木だけ。

「……なぜ、ここへ?」

マンチュンは微笑んだ。

「見れば分かる。」

それだけ言い残し、

——黙って、丘の頂上へと歩き出す。

私は苛立ちながらも、その背を追った。

護衛たちは、輿のそばで待機している。

——彼は、丘の上で立ち止まる。

背筋を伸ばし、手を背に組んで、

私が追いつくのを待っていた。

「……?」

私は、彼の隣へと歩み寄る。

——そして、その瞬間。

私は、言葉を失った。

「——桜が、昨日から咲き始めた。」

彼の言葉に、私はただ、目の前の光景を見つめる。

——遥かに広がる、満開の桜の谷。

——舞い散る花弁、風に揺れる枝々。

「……城の周辺は、荒れ果てている。」

「何もない、何も見るものがない。」

彼はふと、私を振り返った。

「——だからこそ、ここへ連れてきた。」

「——お前なら、気に入ると思ってな。」

私は驚いて彼の方を振り向く。

その瞬間、あの破れた絵の前で感じたのと同じ感覚が、胸の奥から甦る。

それは、言葉にできないほど儚く、どこか未完のまま残されたものへの郷愁を帯びた感覚だった。

マンチュンがこちらを向いた。

春の光が彼の瞳の奥に潜む金の輝きを映し出し、

その光景に、私はふと息を呑む。

——一瞬だけ、時が巻き戻されたような気がした。

——遠い過去へ。別の場所へ。別の誰かと共に。

その錯覚は、ほんの一瞬のものだった。

だが、私の心を深く揺さぶるには十分だった。

「春を待ち、桜の花を愛でる——」

あの子供じみた詩が、突如として違った意味を帯びる。

私はそっと目を逸らした。

——何かに戸惑うように。

「戦が迫る今——」

マンチュンが、何事もなかったかのように口を開いた。

「これが、我々に許された唯一の花見の機会というわけだ。」

「平壌の桜には到底及ばないだろうが、今はこれで満足するしかないな。」

——息が詰まる。

私は思わず彼の方を振り向いた。

しかし、彼はすでにそこにはいなかった。

——斜面へと足を進め、満開の花々の間を歩んでいた。

両手を背に組み、穏やかな足取りで。

そして、数歩進んだところで、彼はふと振り返る。

「——俺なら、ぼんやり立っているより楽しむけどな。」

私は彼の後を追った。

だが、それは漫然と歩くためではなかった。

——はっきりさせるべきことがある。

「……私はもう、あの頃の私ではない。」

気づけば、そう口にしていた。

「王女など、とっくに存在しない。」

「……お前が何を名乗ろうと、何になろうと——」

「——お前は変わらない。」

「お前は、永遠に高句麗の王女だ。」

その言葉に、胸がざわめく。

私は、思わず問うていた。

「——だからあなたは、私との婚姻を受け入れたの?」

「そして、決してこの縁を断とうとしないの?」

問いながら、私は自分の中で何かが繋がるのを感じた。

「……もしあなたが、私の正体を明かせば、」

「ゲソムンに私を差し出し、己の地位を確立することもできる。」

「けれど、あなたが本当に望むものは、それではない。」

「——王座を、直接手にすることでは?」

「——歴史には前例がある。」

「王族の姫を娶ることで、王家の一員となり、正統性を得る。」

「正式には、あなたの地位はボジャンよりも上になる。」

「——だって彼は、私の父の甥に過ぎないのだから。」

マンチュンは、くすりと微笑んだ。

「——俺は、王座には興味がない。」

「信じるか信じないかはお前次第だが——」

「——俺は、世間が言うような裏切り者ではない。」

「——だが、それでも兄を殺し、私に毒を盛ったのね。」

私の声は、わずかに震えていた。

「……それは、あの夜に起こったこととは違う。」

——彼がそう言った、その瞬間だった。

——下の谷で、何かが動く。

川の流れに沿って、二頭の馬が進んでいた。

騎乗しているのは、二人の男。

そのうちの一人が、深くかぶった竹笠で顔を隠していた。

痩せ細り、まるで病に伏せていたかのような若者だった。

——いや、まだ少年と言ってもいい年頃かもしれない。

だが、私が目を奪われたのは、彼の靴だった。

——息が止まる。

彼の靴の革に沿うように、金属と木で作られた補助具が固定されていた。

それは、足の不自由な者が一生手放せない支えだった。

私は、硬直したまま、彼らの行く先を目で追った。

彼らは、私たちに気づくこともなく、静かに谷を進んでいく。

——そう思った、そのとき。

竹笠の男が、わずかに顔を上げた。

——こちらを見た?

私の心臓が跳ね上がる。

だが、笠の影が深すぎて、彼の顔をはっきりと見ることはできなかった。

——瞬きをした、その刹那。

彼らの姿は、森の陰に消えていった。

……夢を見ていたような感覚だった。

「——戻るぞ。」

マンチュンの声が、背後で響く。

私は、その音に驚いて、肩を揺らした。

——彼の存在を、すっかり忘れていた。

「日が落ちるのが早いな。」

マンチュンが続ける。

「日暮れ前に砦へ戻ったほうがいい。」

その言葉を聞いて、ようやく私は自分の頬を涙が伝っていることに気づく。

慌てて袖で拭い、喉に詰まったものを振り払おうと咳払いする。

それでも、目はまだ谷を彷徨っていた。

——少年の姿を探して。

——たとえ影だけでも。

——だが、どこにもいない。

まるで最初から存在しなかったかのように。

「まさか……」

一瞬、そんな考えがよぎる。

しかし、すぐに頭を振った。

——あり得ない。

——マンチュンの戯れに違いない。

「……私たちは本当に桜を見に来たの?」

そう問うと、彼は肩をすくめる。

「他に何がある?」

その気のない返答が、私の胸に生まれた疑念を、さらに深く根付かせる。

「——あの夜に起こったことは、違う。」

数分前、彼はそう言った。

もし、ボクドクも——あの恐ろしい夜を生き延びていたとしたら?

——そんなはずはない。

——この目で彼の亡骸を見たのだから。

私は息を吸い込み、心の中の嵐を鎮めようとする。

マンチュンと向き合う前に、どうにか気持ちを落ち着かせなければならない。

しかし、意を決して顔を上げたときには、彼の姿はすでに遠ざかっていた。

——背を向け、一人、丘の上へと歩いていく。

私は、その背中を見つめる。

——私の考えは、すべて間違っていたのか?

もしも、ボクドクが——

もしも、私の兄が生きているのなら。

——それこそが、彼の秘密なのか?

——ヨン・ゲソムンが、必死に探し求めているものは?

全身を戦慄が駆け抜ける。

この三年間、私が信じてきたすべてが——

——音を立てて崩れていく。

どんなにヘヨンに優しく振る舞っても、マンチュンは内面の脆さを見せず、相変わらずグランピーな態度を貫いているようだ。

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