第32章:ヘヨン
胃の奥が締めつけられるような感覚に襲われながらも、
私は彼の目を逸らさずにいた。
彼の瞳が鋭く私を見据えている。
返答を待っているのだろう。
これはただの挑発にすぎない。
……そう理解しているのに、心臓が跳ね上がる。
このやりとりを終わらせなければ——。
「……まだお怪我が治っていません。」
私は冷静を装い、淡々と告げる。
「今は、それどころではないはずです。」
彼の唇に、薄く笑みが浮かぶ。
「……そうか。」
彼はゆるく頷き、続ける。
「では、負傷している私をお前が世話するのは、何の問題もないというわけだな?」
彼の視線が鋭さを増す。
——私は、息を呑んだ。
「……っ。」
言葉を続けようとするが、喉が詰まる。
そうか……やはり、嫉妬しているのね。
彼とテウォンの間に横たわる確執は、思っていたより根深い。
ヤン一族の関係は、あまりにも複雑だ。
もう、何を言っても無駄だろう。
彼の目には——私はテウォンの傷を癒した女にしか映っていないのだから。
私は静かに息を吐き、無言で頷く。
それを見届けると、彼は満足げに微笑み、ゆっくりとした口調で言った。
「では——私の妻よ。」
「さっそく始めるとしようか。」
そして、私をさらに追い詰めるように、彼は傷の痛みに耐えながらも腕を広げ、挑発的に言った。
「何を待っている? 早く脱がせてくれ。」
喉が鳴る。
——息が詰まるほどの沈黙。
この部屋の空気が、一瞬で変わった気がする。
だが、もう後には引けない。
彼の信頼を得るには、ここを乗り越えねばならない。
拒めば、すべてが水の泡になる。
私は、震える指先を制服の襟元へと伸ばした。
そして、躊躇いながらも、ひとつ、またひとつと結び目を解いていく。
最後の布が落ち、彼の裸の上半身が露わになった瞬間——
私は思わず息を呑んだ。
——近い。
それほど距離があるわけではないのに、彼の体温をはっきりと感じる。
私は顔を伏せたまま、彼の視線を避けるように立ち尽くした。
彼は何も言わず、ただ静かに待っている。
肩から胸にかけて、大きな包帯が巻かれている。
しかし、何より目を奪われたのは——
彼の肌に刻まれた無数の傷跡だった。
それらを見た瞬間、胸の奥がひどくざわめいた。
——これらは、私と同じように彼を葬ろうとした者たちが残した傷なのだろう。
だが、誰一人として成し遂げることはできなかった。
「……気にならないのか?」
ふと、彼が低く問いかける。
まるで、私の考えを見透かしたかのように。
「あなたは駐屯軍の指揮官です。」
私は努めて平静を装いながら答えた。
「無傷でいられるはずがないでしょう。」
「戦場は、常に私の一部だ。
そうすることでしか、大切なものを守れないこともある。」
彼の言葉には、どこか静かな重みがあった。
——彼にとって、本当に守るべきものとは何なのか?
それは、ヨン・ゲソムンが追い求める『秘密の軍隊』ではなく——
たった一人の誰かなのではないか?
その考えが頭をよぎったとき、私はそっと手を伸ばし、彼の包帯を外そうとした。
しかし——
彼の指が、私の手首をそっと掴む。
予想外の柔らかさを持つその手が、私の動きを止めた。
「必要ない。」
彼は、穏やかに微笑んだ。
「医者がいる。傷の手当はそいつの役目だ。」
「俺が見たかったのは——」
彼は少し言葉を切り、私を見つめた。
「お前の限界が、どこまでなのかということだけだ。」
——試されていたのか。
私は無言のまま、彼の手が離れるのを待つ。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「妻として振る舞うつもりなら——」
「ここに住む方が、それらしく見えるだろう?」
——ここに?
つまり、彼の居館に。
もしそれが許されるなら、彼のすべてにより近づける。
この要塞の指揮系統さえも、手の届く範囲に入る。
まさか、こんなに早く機会が訪れるとは——。
私は静かに息を整え、慎重に言葉を選んだ。
「……私が寝込みを襲うとは思わないのですか?」
すると、彼は小さく笑った。
「なぜ俺がお前を恐れる?」
彼は当然のように続ける。
「もし俺を殺しても、お前の復讐は半端なものにしかならない。
お前にとって最良の機会は——結婚初夜、あの時だけだった。
もしあの夜、お前が俺を仕留めていたなら、大莫離支とて簡単に言い訳はできなかったはずだ。」
「だが今となっては、たとえ王の大臣たちが騒ぎ立てようとも、ヨン・ゲソムンは簡単に逃げ切る。
適当な理由をでっち上げれば、それで終わりだ。」
——その通りだ。
私も、それを理解している。
「……心配するな。」
彼の声が、ふっと柔らかくなった。
「お前を無理に俺の寝台に引きずり込むつもりはない。」
「書斎に寝具を用意させよう。快適とは言えんが、寝るには十分だろう。」
——書斎。
まさに、私がもう一度探るべき場所。
だが、こんなに簡単に入ることを許されたのなら……そこに本当に秘密など残されているのだろうか?
彼は、私にすべてを見せても構わないとでもいうのか。
それとも——
私は深く考えるのをやめ、静かに一礼する。
「では、失礼いたします。」
くるりと身を翻し、部屋を後にしようとしたその瞬間——
「……許してくれ、姫。」
背後から、低く絞り出すような声が響いた。
「三年前のことを。」
私は足を止めた。
——三年前。
彼が何を指しているのか、すぐに分かった。
だが。
私は、答えなかった。
答える言葉など、最初から何もなかったのだから。
そのまま、一度も振り返ることなく、静かに部屋を後にした。
* * *
——深夜。
私は暗闇の中でじっと待つ。
耳を澄ませ、慎重に気配を探る。
そして、ついに確信する。
マンチュンは深い眠りに落ちている。
静かに寝台を抜け出し、慎重に床を踏みしめる。
——ずっと彼の言葉が頭から離れなかった。
「……許してくれ、姫。」
あの言葉は、いったい何を意味していたのか?
罪悪感? 後悔?
だが、何に対して?
私を殺そうとしたことか?
それとも、殺し損ねたことに対してか?
——彼が後悔などする人間ではないことは、分かっている。
彼は決して軽率な男ではない。
亡き兄王とその従者を暗殺したのは、計算された行為だった。
決して衝動的なものではなく、確固たる意志に基づいた決断。
——その彼が、何を悔いるというのか?
不可解な思考を振り払うように、私は勢いよく寝具を押しのけた。
そして、再び書斎を調べることにする。
机の引き出しを開け、書類を確認し、隠し機構がないか探る。
だが、結果は予想通り——何も見つからない。
彼が私にここでの宿泊を許可した時点で、こうなることは分かっていた。
——何も得られないと分かっているからこそ、ここに私を置いたのだ。
それでも、試す価値はある。
何か、彼の気まぐれで置き忘れたものがあるかもしれない。
次の一時間、私は書棚や家具を調べ、壁を叩き、隠し部屋がないかも確認する。
しかし、成果はない。
——東の空が、ほんのり白み始めていた。
私は溜息をつきながら、再び壁に掛けられた一枚の水墨画に視線を向けた。
——平壌の王宮。
私が二度と戻ることのない場所。
過去に置き去りにされた記憶。
私はその横に添えられた詩を読み返す。
——こんなにも感傷的な詩を、彼のような男が好むとは思えない。
「何か見つかったか?」
——背後から、不意に声がした。
——しまった。
私は身を強張らせ、ゆっくりと振り返る。
「なぜそんなことを聞く?」
私は強気に返す。
「まるで、何かが隠されているみたいな言い方ですね。」
彼は苦笑した。
「……お前が信用を得ようとするなら、俺の書斎を漁っているところを見られない方が良かったんじゃないか?」
私は肩をすくめ、平然を装う。
「眠れなかっただけです。何か読むものを探していました。」
彼は笑いを噛み殺すことなく、あからさまに愉快そうに息を吐いた。
「……読書?」
「この風景画……。」
私は話題を逸らすように、壁に掛けられた絵に目を向けた。
「あなたが描いたのですか?」
彼は無造作に肩をすくめる。
「ただの絵だ。誰が描いたかなんて、どうでもいいだろう。」
「でも、これは名のある画家の作品でも、書家のものでもない。」
私は静かに指摘する。
「それなのに、どうしてこれだけを特別扱いするのですか?」
——彼の居館には、これ以外に装飾らしいものが何もない。
——屏風ですら無地のままだというのに。
彼はつまらなそうに言った。
「壁に空きがあったから、飾っただけだ。」
——嘘だ。
「違いますね。」
私は言葉を切り、彼の目を見据える。
「これは、あなたにとって大切なもののはず。」
彼は鼻で笑った。
「……女は何でも感傷に結びつけたがるな。」
「ただの絵だ。意味などない。」
「なら、捨ててしまえばいいじゃないですか。」
私は一歩前に出た。
そして、絵に手を伸ばす。
「今すぐ破り捨てて差し上げましょうか?」
——だが、次の瞬間。
彼はすでに私の腕を掴んでいた。
——速い。
私の動きを封じるように、その手はしっかりと私の腕を押さえている。
私は彼を睨みつけようとした。
だが——
——金の光を湛えた瞳に、ほんの一瞬、哀しみの色を見た。
その刹那、私は言葉を失った。
動揺を悟られぬように、そっと視線を逸らす。
そして、乱暴に腕を引き抜いた。
彼は小さく息を吐いた。
——分かってしまった。
この絵を描いたのは——
彼自身だ。
「……いつ王宮へ行ったのですか?」
私は思わず問い詰めた。
彼は、短く答えた。
「知らんな。」
そして——
彼は迷いなく、その絵を引き剥がした。
——一瞬の出来事だった。
紙が破れ、上部が裂ける。
——それを、私の足元に投げ捨てると、彼は無言のまま部屋を後にした。
私は、ただ立ち尽くすしかなかった。
彼の背中を、見送ることすらできずに——。
——私は視線を上げる。
破れた水墨画の中で、桜の枝が途中で途切れていた。
その輪郭に目を留めながら、私は感じる。
——この絵には、もっと深い何かが隠されている。
それは、単なる装飾や過去の遺物ではなく、彼にとって本当に大切なものなのではないか。
しかし、それが何なのか、私には掴みきれない。
手を伸ばせば触れられる気がするのに、指先をすり抜けていく。
それは私の中に、言いようのない孤独を呼び覚ますのだった。