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第31章:マンチュン

「解毒剤だ。」

スジンに、女弓兵から奪った薬袋を渡す。

「軍医に調べさせろ。そして、完全な解毒薬を作らせるんだ。」

スジンは袋を受け取りながら、低い声で言った。

「大莫離支がこの切り札を失ったと知れば、彼女は危険に晒されます。」

「……今も、十分に危険な状況だ。」

「それまでに、こちらも準備を整える時間はある。」

スジンは苦々しげに息を吐く。

「……砦内の間者を完全に制御するのは容易ではありません。」

「まだ一刻も経たぬうちに、すでに砦中が噂で持ちきりです。

亡くなった女弓兵は、あなたの妹から信頼されていた人物だった。

あなたの判断を疑う者たちも現れ始めています。」

「——内乱が起こる可能性がある、ということか?」

「ええ。最悪の場合……」

私はスジンの言葉を遮った。

「その噂を流している者を突き止めろ。」

「……!」

「そいつらが、我々の味方でない可能性は高い。」

「身分など関係ない。

たとえ誰であろうと、砦内の敵はすべて排除する。」

「……砦の粛清が、最優先事項だ。」

「春が近い。

そして……李世民が動く前に——」

——その時、扉を叩く音が響いた。

私はスジンと視線を交わす。

軽く頷くと、彼は剣の柄に手を添えながら扉を開けた。

——そこに立っていたのは、ヘヨンだった。

蒼白な顔。

だが、その瞳に浮かぶ決意に、胸の奥がわずかに締めつけられる。

私は驚きを悟られぬよう、無表情を装った。

——数時間前の出来事を考えれば、まさかこんなにも早く彼女が私の元を訪れるとは思っていなかった。

だが、この早さは、ただひとつの事実を物語っている。

彼女は、まだ諦めていない。

私は目を細める。

「中へ入れ。」

スジンに指示を出し、続けて命じる。

「——それと、お前は外で待て。」

スジンは一礼し、道を譲ると静かに部屋を後にした。

ヘヨンは足を踏み入れ、堂々とした態度を装っている。

だが——私は知っている。

それは、見せかけの自信に過ぎないことを。

「……何の用だ?」

私は冷淡に尋ねる。

彼女は顎を上げ、私の視線を真っ直ぐに受け止める。

わずかな沈黙の後、低い声で告げた。

「——取引をしましょう。」

「……取引?」

私は鼻で笑った。

「貴様が、私と取引を?」

「どんな取引を持ちかけるつもりだ?」

彼女は冷え切った笑みを浮かべた。

「——お互いの憎しみを捨てる、という取引です。」

私は眉をひそめる。

「……それは、罠ではないのか?」

私の挑発にも動じず、彼女は静かに続けた。

「私は——あなたに協力を申し出る。」

私は目を細め、彼女の表情を見つめる。

「……お前が、私に協力するだと?」

「——戦は目前まで迫っています。」

彼女の声は揺るぎなく、澄んでいた。

「この緊急事態の前では、他のすべては取るに足りません。

だから、もし国と民のために私を利用する必要があるのなら——

あるいは私を取引の道具として差し出す必要があるのなら——

私はそれを受け入れ、あなたの望むことをいたします。」

「……自分が何を言っているのか、本当に理解しているのか?」

私は低く問いながら、ゆっくりと彼女へと歩み寄る。

——二歩。

たったそれだけで、彼女と対峙する距離にまで近づく。

しかし、今回は前とは違う。

彼女は一歩も退かない。

むしろ、私の視線を真正面から受け止め、その眼差しには揺るぎない決意が宿っていた。

それが、信じられないほど——美しい。

「……取引を受け入れる前に、一つ聞こう。」

私は視線を逸らさずに言葉を続ける。

「見返りは何だ?

——お前の申し出には、必ず条件があるはずだ。」

彼女は静かに答える。

「もし戦が起こらず、あるいは高句麗が勝利し、そのとき私がまだここにいるのなら——

私の自由を返していただきたい。」

私は眉をひそめる。

「……自由?

——それが、お前の望みだと?」

彼女は微かに息を吐く。

「望みではありません。

——それだけが、私に許された唯一の選択肢だからです。」

「……なるほどな。」

私は冷ややかに笑う。

「つまり、お前も諦める側の人間だということか。」

「諦めているのではありません。

私は——現実を受け入れているのです。

手の届かないものを追い求めても、苦しみと絶望が募るばかり。

それは、亡き父母が望むことではない。」

彼女は少し間を置き、静かに付け加えた。

「必要とあらば、私は妻の役割を果たします。」

私は息を呑む。

——この女は、本気で自らを売るつもりなのか?

それに気づいた瞬間、耐えがたい嫌悪感がこみ上げた。

次の瞬間、私は彼女の腰を引き寄せ、その身を腕の中へ閉じ込める。

彼女の瞳が私を捉える。

だが、逃げることはしない。

鼓動が高鳴る。

血流が速まるのを感じる。

「……そんな提案では、私は満足できない。」

私は低く囁く。

彼女の身体が微かに震えた。

「もしお前が、そんな茶番で私の信頼を得られると思っているのなら——

覚えておけ。

『妻の役を演じる』程度では、私を欺くことはできない。

私は、見せかけだけのものでは満足しない男だ。」

——嘘だ。

私は、彼女に何かを強いるつもりなどない。

ただ、試している。

彼女がここまでして自らを犠牲にしようとするのが、許せないだけだ。

どんな理由があろうと、そんな犠牲は決して正当化されない。

たとえ、それが高句麗のためであろうと。

……私は動きを止める。

そして、その瞬間、ようやく自覚する。

もし今再び、国への忠誠と彼女への想いのどちらかを選ばねばならないのなら——

今度こそ、私は彼女を選ぶ。

——この数年、私は彼女を失ったと信じていた。

それなのに——今になって、私は決して望んではならぬものを求めている。

……姫よ。

お前は、一体、私をどうしようというのだ?

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