第30章:ヘヨン
夜明けの薄明かりの中、私は駆けていた。
胸の奥が冷たく締めつけられる。
先ほどの光景が、何度も脳裏に焼きついていた。
——最初から、彼は私が誰なのかを知っていた。
私は弄ばれた。
そして、その罠にまんまと嵌った。
あれほど警戒していたはずの相手なのに。
なぜ、私はあんなにも愚かだったのか?
走り続けるうちに、怒りは次第に薄れ——
代わりに、圧倒的な虚しさが広がっていく。
復讐なんて、無意味ではないのか?
——あんな冷酷な男たちに、私が敵うはずもない。
砦の土壁沿いを歩きながら、自分の寝所へ向かおうとしたその時だった。
闇の中で、何かが動いた。
反応する間もなく、誰かの手が私の口を塞いだ。
「っ——!」
悲鳴が喉に詰まる。
そして、目の前に映ったのは——
テウォンの瞳だった。
「俺だ。」
彼はそっと手を離し、夜の影へ私を引き込んだ。
後ろを振り返り、誰もいないことを確認すると、低い声で囁いた。
「お前の無事を確かめたかった。」
「俺は……」
言葉を詰まらせる。
彼は眉をひそめ、私の顔を覗き込んだ。
「……震えている。」
「兄貴に、何かされたのか?」
私は首を振る。
「……大丈夫。」
かすれた声が漏れる。
「私は……ただ……」
言いかけた瞬間、彼が私を抱きしめた。
その腕の温もりに、力が抜けていく。
抗うこともなく、私は彼の体温に身を委ねた。
だが——
安堵は、一瞬だった。
脳裏に、弓兵の血まみれの亡骸が蘇る。
「……来るべきじゃなかったわ。」
私は彼の腕を押し返し、身を引いた。
「私は、お前なんか頼らない。自分のことは自分でどうにかする。」
テウォンは苦しげに微笑んだ。
そっと、私の髪を耳にかける。
指先が頬を撫でるように触れた。
「……そんなことを言いながら、お前の目は……泣きそうじゃないか?」
「誰にもお前を奪わせない。誰にもお前を傷つけさせない。覚悟しておけ。私は、誰も容赦しない。」
マンチュンの言葉が脳裏に蘇り、背筋に冷たいものが走る。
私は、テウォンの手を振り払った。胸が重い。
もしまたマンチュンに見つかれば、今度こそ彼はテウォンを狙うだろう。
——間違いなく。
「ごめんなさい……」
かすれた声で呟く。
「でも、私たちはもう……会わないほうがいいの。」
彼が口を開き、何かを言おうとした。
だが、私はそれを待たずに背を向ける。
そして、夜の闇へと駆け出した。
胸が締めつけられる。
息が詰まる。
私は、この砦の囚われ人だ。
そして、世界で最も憎むべき男の囚われ人でもある。
……私には、何の自由もない。
——いや、初めからなかったのだ。
彼は、最初から私の先を行っていた。
私は、復讐できると思っていた。
彼の秘密を暴き、それを武器に戦えると思っていた。
——なんて愚かだったのか!
私は、敗北した。
惨めに、無様に。
こんな人間たちに、私は勝てない。
彼らのように汚い手を使うこともできない。
そして、その現実を悟った瞬間——
熱い涙がこぼれ落ちた。
止めることも、誤魔化すこともできないほどに。