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初出勤となった翌日、陽菜は同じように放課後に店へ出ていた。
学校が終わるのは16時過ぎ、そこから電車に飛び乗って店に着く頃には16時半過ぎ。
そこから店が閉まる19時までの2時間半が陽菜の勤務時間だった。
まずお店に着けば裏の控室に荷物を置いて、店のロゴマークが入ったエプロンを着ける。
そうして新入荷の商品がないかを確認。特になければ店内を見回って本や販促物に不備がないかを一通りチェック。
品出しは結衣がやっているようなので特に手伝うことはなく、店頭の本にシュリンクを掛ける仕事もない。
雑誌や漫画は立ち読み防止の目的でシュリンクを掛ける場合が多いが、この店の場合は小説しか扱わないのでそこまでやる必要がないのだろうと推測している。
なので今店頭に出ている本に関しては特段何かをするわけではないのだが、ふと面出しで並んでいる一冊に目がいった。
昨日結衣に感想を語って聞かせたあの本が、おもむろに並んでいた。しかもポップ付きで。
水色の爽やかな背景に丁寧な文字で書かれた推薦文はこうだった。
『まだ見ぬ地を求める旅人とバディの旅行記という名の英雄譚。それは主人公の物語でもあり、あなた自身の物語でもある―』
目を引くワードとどことなく手を取りたくなってしまう引き方。
それは結衣によって翻訳された陽菜自身の感想であることをぼんやりと理解した。
(明日にはわかる、って言ってたのはこういうことだったんだ)
つまり結衣は商品の宣伝資材を作るために、代わりに読んで感想を述べてくれる人を求めていたわけだ。
それはそうだろう。一冊を読み切らないとポップは作れないが、そんなに速いペースで読むのは難しい。
そこで陽菜は自身に課された仕事の意味を理解した。
そうしてレジの方を見ると、こちらに視線を向けていた結衣と目が合ってふふっと微笑む。
彼女も陽菜の意図を解したようでにっこり笑っていた。
そんな心地良さを感じながら仕事を続ける。
今はお客さんがいるので掃除機は掛けられないから、人のいない通路だけ静かにほうきとちり取りで掃除を済ませる。それから観葉植物に積もったホコリも取ってやる。
そこまで出来たらレジの対応だ。
会計の前で座っている結衣に手が空いたことを告げると、彼女は裏へと引っ込んでいって代わりに陽菜が席に着く。
レジから見る店内というのは意外と新鮮なもので、同じ景色のはずなのに店側の人間であるという意識と目の前のカウンターを隔てているだけで景色が違ってみえる。
それと同時にやはり本を眺めているお客さんの様子が目に入る。
棚の前に立って色々な本の背表紙(に載っているあらすじ)を眺めたり、結衣が作ったのであろうポップを読み込んだり、平置きの作品を手に取ってぱらぱらと試し読みしていたりと様々だ。
それを眺めているとなんだか穏やかな気持ちになる陽菜。
自分の好きな本の世界を同じように好きでいる人がこの世界には確実に存在するんだな、ということを感じる。
一人で学校で過ごしていると、たまに自分以外に本を読む人なんているのかなと疑いたくなることがある。
休み時間の周りを見渡してみてもそんな人いないし、図書室に行ってみても勉強で使っている人はいるけど読書している人は滅多に見掛けない。
本屋に行ってみても大抵の人は雑誌や漫画のコーナーにいるし、小説の棚の前に立って、ましてや真剣にそれらを見ようとしているシーンなんて遭遇したことは少ない。
自分がマイノリティだと言いたいわけではないけど、そういう不安を覚えることはたまにある。
だけどこの店に来ている人を見ているとそうじゃないと思えてくる。
それだけで心が軽くなる自分がいて陽菜はちょっと驚いた。
―と、そうこうしているうちにお客さんの一人がこちらへ向かって歩いてきた。
仕事中に気を抜いていてはならないと引き締まった気持ちでレジの準備をする陽菜。
ただ、よく見るとその人は手に何の本も持っていなかった。
「すいません。少し伺いたいのですが」
「は、はいっ。どのような内容でしょうか?」
「あの、こちらの店主さんにお話しすると本を勧めていただけると聞いたのですが……」
ああ、そういえば。
自分も聞こうと思って聞けていなかった話、悩んでいると本を勧めてくれるというのが本当なのか気になりつつ、とりあえず結衣を呼びに行かないといけない。
「ええと、確認してまいりますので少々お待ちください」
そう告げて控室にいる彼女の元へ確認に行く。
ちらりとお客さんの表情を一瞥すると、何か真剣そうなものが見えてますます気が逸る陽菜だった。
バックヤードへの扉を開けると、暖簾を一枚隔てて控室が準備されている。
こちらは木の茶色の印象が強い店内とは違って、至って普通の白色をしたいかにも控室という様相を呈している。
そこで座ってやっぱり何か本を読んでいた結衣に声を掛ける。
「あの、店長さんに本を勧めてほしいっていうお客さんがいるんですが……」
その言葉に顔を上げた結衣の表情はどこか慈母のようなものすら感じさせ、陽菜は鳥肌が立つ。
ただ、それを感じたのはほんの一瞬だけで、読みかけの本を閉じて表へ出ていく結衣。
「わかりました。私が対応しますので陽菜さんはそのままレジ番をお願いします」
「はい、了解です!」
あの感覚はなんだったのだろうと思いつつも、結衣の背中を追って店内に戻る。
依頼してきたお客さんを連れてフロアへと出ていった彼女を見送ると、すぐに次の会計客が来てはっとする陽菜。だけど慌てず丁寧にお会計を済ませて、本はブックカバーに入れて、それをまた手提げ袋へ慎重に入れる。
陽菜も読んだことのあるSF小説を買っていったそのお客さんはどこか嬉しそうな仕草で店を後にした。
買った本を読むのが楽しみでうきうきして足取りが速くなってしまうのは陽菜自身もよくあることなので、同じようにしている人がいると不意に嬉しくなってしまう。
さて、そうしている間に結衣と依頼客は店の入口の方へと場所を移して何やら話し込んでいた。
BGMのクラシック音楽に掻き消されるくらいの小さい声なのは、やはり依頼客が何か悩みを抱えて、それを喋っているからなのだろうか。
この店の評判をネットで見た時、確かに「悩みがあって相談すると~」というような文章があった。
そんなに都合よくいくものかと思っていたし、今も思っているけれど、実際に接客している結衣の様子を見るとその認識が崩れそうになる自分がいる。
依頼客の話を聞いて相槌を打っている彼女の姿は至って真面目に見える。
それからほら、棚から一冊取り出して何か語っている時の表情も至極真剣そうだ。
それから依頼客が勧められたであろう本を持ってレジに来るまでそう長くは掛からなかった。
その会計を見届けた結衣はどこかすっきりしたような表情で控室で戻っていき― と思いつつ、陽菜の近くで立ち止まると。
「そういえば陽菜さん。これ、また読んでおいてください」
「あ、はい。早速今晩から読んでみます!」
いつの間にか手に持っていたミステリー小説を陽菜に渡していく。
今度の作品は何やらのコンテストを通過して出版された新進気鋭の作家によるものらしく、陽菜もタイトルだけは知っていたがまだ読んだことのない作品だった。
お客さんが全員帰ったのをいいことに早速読み始めようかとも思ったがそれは我慢。
でも中身は気になるのでわくわくする気持ちは抑え切れない。本を前にするといつもこうだった。
そういえば自分はいつからこんな感じになったのだろうと今更ながら思う。
本を読み始めたのはきっと3歳とか4歳くらいの頃だろうけど、自分から積極的に手に取って楽しもうとし始めたのはいつ頃だろうか。小学校中学年くらい?
そう思うと5年以上はこんな感じの生活を繰り返しているのか。
改めて思うとたくさんの本を読んだな、と思う。
学校の図書室で借りた本もあれば、両親の部屋に置いてあるものを読ませてもらったこともあるし、お小遣いで買ったり誕生日やクリスマスのプレゼントで買ってもらったものもある。
自分で所有しているものは自室の本棚に並べていっているが、そういえば数をカウントしたことはない気がする。気が向いたらしてみよう。
そんな柄にもない内省をしてしまうのが、この店の空間的な魅力でもあり、何をするでもなく一人で過ごしているからでもあった。
そしてその内省がより深まるのは、それから1ヶ月ほど先の話だった。