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陽菜は机に肘をついてぼけーっと窓の外を眺めていた。
今は昼休み。誰もいないグラウンドに春の柔らかな日差しが降り注ぎ、地上をやんわりと温めている頃合い。
そして周囲のクラスメイトは昼食をしながら友人同士の会話に華を咲かせているようだったが―
(これ、本当にアルバイトだよね……?)
陽菜の手元には単行本が一冊。
『空と地図の向こう側』と題された一冊は旅行をテーマにした小説で、人の訪れない地を旅することを生業とする旅行者とそのバディの旅の様子を描く作品だった。
そして、話は昨日の放課後に遡る。
突然のアルバイトの提案を受けて陽菜は見事にフリーズした。軽く30秒は動きを止めていた。
結局そのままでは話にならず、レジ内の椅子に座って話を聞くことになったのだが、そこからの内容が陽菜にとっては意外なものだった。
まず店長の名前は柳瀬結衣。
陽菜と同じ高校生で、わけあってこの店のオーナーをしている。
小さくやっている店なので一人で運営していてもよかったのだが、最近少し客が増えてきたのでアルバイトを雇いたいと思い、かつ年上を雇うのは気が引けるので同年代で本好きがいないかと探していたという。
その内容に一応陽菜は納得した。
雇用契約書なるものも事前に準備されていたので、そちらは一旦家に持ち帰って親に見てもらうことにしたが、ここで働く分には異存はなかった。
好きな本に囲まれた環境で、しかも近い年代の雇い主と仕事ができるのであれば歓迎だ。
仕事内容も店内の整備や掃除、新入荷品の受け入れやレジ番などそこまで難しいというわけではない。
レジ番に関しては接客ということで少し躊躇したが、この歳になって不安なことを躊躇っていては成長もないだろう、という現状への危機意識からチャレンジすることにした。
そして、もう一つ陽菜には課された仕事があった。
それは結衣が指定する作品を読んで、その感想を語り聞かせること。
そうして指定され、家でも学校でも好きに読んでほしいと言われたのが今手元にあるこの一冊だ。
正直そこだけがよくわからない。
まあ、本を読むという拘束時間も加味して時給は多めにしてもらっているので、元々読書を好む陽菜としては一石二鳥である。むしろ歓迎するところなのだが。
だが、どうして仕事として読むのかがよくわからない。
それだけが謎で頭の隅に引っ掛かっていた。
(でも、特にやましいことがあるわけじゃないし……)
という具合で自分を納得させて本の世界に潜り込む陽菜。
旅行者とバディが辿る道のりは決して平坦ではなく、時に命の危険に迫られるような行路を求められることもあり、読んでいる側の陽菜も手に汗を握るシーンが時折出てくる。
それでも二人がそれらを乗り越えていく様子はバディものとしての面白さもあり、その先に広がる光景を文章からだけでも感じ取って想像できるというカタルシスがあり、中々良いものだと読みながら感じる。
道すがらの会話はウィットに富んでいてくすりと笑える場面もあるし、この二人の出会いを遡って描くシーンなんかは感動的な描写で思わず涙が零れそうになって、ハンカチで涙を拭いかけたところで―
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、周りのクラスメイト達も慌てて動き出す。
陽菜もそれに合わせるように本を仕舞って教科書や筆記用具を取り出して授業の準備。
幸いまだ次の科目担当は来ていないようなので問題なかった。
鞄の中に仕舞った本を思い返し、陽菜はもう一度作品の世界に想いを馳せる。
スリル、興奮、ユーモア、色々なものが詰め込まれた世界はとても魅力的で、授業さえなければ今すぐ続きを読みに行きたいと思う。
けれど、結局次に手を付けられたのはアルバイトへ向かう電車で席に座ったところだった。
―――
「柳瀬さん、お疲れ様です」
「はい、お待ちしていましたよ」
放課後すぐ学校を飛び出して、急いで移動して店に到着すると店長は既にレジの前に座って待っていた。
静かなクラシックのBGMが流れる店内と同じように落ち着きを感じさせる彼女の姿は、陽菜にとっては自分のなりたい姿のようで少し羨ましいと思ったりもした。
「あの、昨日の本読んできたんですが、お話ししてもいいでしょうか?」
「……もう読み終わったんですか、早いですね」
「ええと……わたし、読むのは速い方なので……」
驚く彼女の様子に少し申し訳なさすら感じるが、読み終わったのは事実だった。
実際、陽菜は本を読むのが速い。一般的な日本人の読書スピードは1分で400~600文字と言われてるが、陽菜は1分900~1000字ペースで読む。これが良いことなのか悪いことなのかは本人もよくわからない。
そういえば昔から比較的読むのは速い方だったと思う。
特にドキドキハラハラしすぎるのが苦手で、そういうシーンが出てくると安心するところまで急いで読みたくなってスピードが急上昇するという癖は自分でも知っている。
ただ、そうでもない平穏な場面でも結局スピードは速いままなので、これはもう生まれ持った読書の癖なのかもしれないと陽菜は半分諦めている。
もしかしたらそのせいで深く味わえるはずの文章のミソを味わい損ねているのかもしれないし、細かい見落としでストーリーを読み解く上での欠陥をもたらしているのかもしれない。
けれど、それはそれでもう構わないというのが正直なところだった。だってそう簡単に治せないし。
「速読気味の人も世の中にはたくさんいます。あまり気にし過ぎないでもいいと思いますよ」
「あっ、はい……」
それに対する陽菜の思考を見抜いてか否か、彼女の返答は実に的確であった。
そして座っていた椅子をこちらに向けると話を聞く体勢になったようで、手元にはメモなんかも用意している。
「えっと、じゃあ感想をお話ししますね」
鞄から取り出した一冊をぱらぱらとめくりながら、思いのままに感じたものを言葉にする。
「この作品は主人公を俯瞰するのではなく、主人公と自分を重ねて見ていく物語だと思いました。
あらすじの通り人の訪れない土地を旅する主人公の行く先を描く内容ですが、その内容は実際の描写こそ旅の行程であれ、そこで求められるマインドや遭遇するアクシデントは読者が自分の人生に重ねられるようにできています。
困ったことも、危険を冒してでも叶えたいと思ったことも、バディと愉快に過ごすことも、読者の人生においてもありうると思ったんです。そこで主人公が選んでいく行動や取る態度を通して自分の内省を深めつつ、しかしそれでいて主人公に没入して旅の到着地という一種のカタルシスも味わえる、なんというか、一粒で二度美味しい作品でした。現実逃避したい人には現実逃避になる、自分と向き合いたい人にはきっかけをくれる、どちらの意味でも優れた作品だったと思います」
頭の中でうっすらと考えていたことを言葉にしていくと、自分の思考も整理されてはっきりとしてくる。
インタビューを受ける人というのはこういう気持ちを味わっているのかも、と少しだけ想像が捗った。
そして、それを聞く彼女は真剣に耳を傾けてくれた。
それと同時に手元のメモにも何か書き込んでいる。
「……あの、こんな感じで大丈夫でしたか」
「はい、十分です。ありがとうございます」
そう言って微笑んだ彼女が不意に可愛らしく見えて少しドキッと胸が高鳴ったのは内緒だ。
「えっと、柳瀬さん」
「結衣でいいですよ。私も陽菜さんと呼びますので」
「じゃあ、結衣さん。わたしのこの感想って、どういうふうにお仕事に繋がるんでしょうか」
「そうですね……明日にはわかるので少し待ってください」
その焦らすような言い方に、明日が来るのが待ち遠しいと思いながら陽菜は仕事に取り掛かる。
お客さんが少ない時間帯を見計らって掃除機を掛けたり、新しく入荷した本を倉庫で整理したり、レジに立ってお会計をしたり。
そういえばここで本を買っていく人のことを眺めてふと気付いたことがある。
陽菜が見た限り、どの人も真剣そうに本と向き合っていた。
今更何を言っているのかと思われそうだったが、普段他の書店にいる時とは何かが違う気がする。
それを何なのかを上手く言えなくて、「真剣そうに向き合っている」としか表現できなかったけど、それは確かに陽菜の心を揺さぶっていた。
そして思い出す。ネットで見たこの店の噂。
ここの店主に悩みを相談すると、自分に合った本をお薦めしてもらえるらしい。
そしてその本を読むと悩みの種が解消されたり、解決の糸口が見えてくるらしい。
陽菜の感じた何かは、この噂と関わっているのかもしれない。
とすればいつかはそれを本人に聞いてみようと思うのだった。もちろん、今すぐ聞く勇気なんて陽菜にあるはずがなかった。