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片瀬陽菜、高校1年生になったばかりの15歳。
趣味は読書、特技は速読、お小遣いの使い道は本の購入。
自己紹介できることがあるとすればそれくらい、というのがこの少女。
それは入学したばかりのクラスルームで一人ずつ自己紹介をすることになったときも同じだった。
慣れない教室、全く知らないクラスメイト、出会ったばかりの先生。そんな環境下で陽菜にまともな自己紹介は出来るはずがなかった。
出席番号順でア行の人たちが順々に出番を終えていくと、カ行の頭に来る陽菜にすぐ順番が回ってきて、結局何も固まらないままクラス全員の視線と注目を浴びることになる。
そうして口から吐き出せたのは名前と出身校と、あとは趣味― 本に関することだけだった。
大して取っ掛かりもないような中身で、だけどそれ以外に自分の人に誇れるところなんて何も思い付かなかった。
他のクラスメイトは様々な話題で自分をアピールする。
勉強だったらどの科目が好きなのか、運動だったらどんなスポーツが得意なのか、性格はどんな感じでどういうふうに話しかけて欲しいのか、他にも習い事や特技など、テーマは人ごとに様々。
だけど、それを聞いていても陽菜には自分に何があるのだろうと悩んでしまう。
勉強は人並みにはできるけど何かが飛び抜けているわけではないし、運動は苦手だからそんな話題を出すわけにはいかない。人に話しかけるのはあんまり得意ではないし、人から話しかけられるのもそんなに好きではないし、かといって家の一人の時間で何か技術を磨いたり夢の為に邁進したりするわけでもなく。
ただただ、本を読むのが好きだった。
それくらいしか自分が好きだと言えることはなく、自分を誇れるものもなかった。
陽菜にとって本を読むことはごく自然なことだった。
小さい頃から家には本がたくさんあった。絵本はもちろん、図鑑や神話の本、児童文学まで決して少なくない数とジャンルがあって、幼い頃の陽菜がそれらに触れたのは自然なことだった。
そもそもどうしてそんなに本があったのかといえば、親が買ってきたから、が唯一にして単純な理由だ。
そうしていく中で陽菜の日常は読書によって構成されてきた。
朝起きたら学校に行く前に読む、休み時間は教室から出ずに一人で机に座って読む、放課後は家に帰って読む、夜は歯磨きとお風呂を済ませたら寝る前にも読む。
それが陽菜にとっての当たり前の生活であり、自分の好きと言える全てだった。
だけど、この歳になって「これでいいのか」と思ってしまう自分がいることは否定できなかった。
友達はいないわけじゃないけど決して多くない、将来の夢なんて何もない、華やかな青春の日々なんて送ったためしもない。
それを振り払いたくて、少しでも青春っぽいことをしてみたくなって、何か自分しかしていないようなことをしてみたくなって、高校生になった陽菜は家の門限が伸びたのをいいことに放課後の寄り道をするようになった。
それが書店巡りである。
本屋とは一口にいっても様々で、あらゆるジャンルを取り扱う大型書店から、一般的に受ける書籍に的を絞っているような街の本屋さん、ショッピングモールの中に入っている少し面積広めのお店、はたまた漫画やライトノベルを中心に据えている店まで。
それぞれのお店が本を買ってもらおう、本を好きになってもらおうと様々な工夫を練っている。
本の陳列や配置、棚の飾りつけに手書きのポップ作成、今どきの店なんかではカフェを併設しているところまであったりする。
それを巡るのが楽しくて、今や週2日以上は帰り道に書店を巡るちょっとした冒険に出ているのが陽菜の日常だった。なお、一緒に行く相手は当然ながらいない。
そして、今日この店を訪れたのはネットで偶然にも噂を見たからだった。
茶色の外装で統一されたまるで絵本の中のログハウスのようなその建物は、入口に山ほどの緑を植えていて中へ入る扉が見えそうもないくらいの隠れ家的な本屋だった。
その隠れ家感も評判にはなっていたのだが、もう一つネット上を流れていた不思議な噂があった。
ここの店主に悩みを相談すると、自分に合った本をお薦めしてもらえるらしい。
そしてその本を読むと悩みの種が解消されたり、解決の糸口が見えてくるらしい。
まさか本当にそれが事実だとは陽菜は思っていなかった。
恐らくこの店の魅力に憑りつかれた一部のネットユーザーが大げさに誇張しただけだろう。
だけど、この店の雰囲気に興味を持って、訪れたみたいと思った自分がいて、そういうわけで学校から電車で20分揺られて、更に駅から歩いて5分の小さな店舗までやってきたというわけだ。
店頭の緑を掻き分けるようにして扉に手を掛けると、カランと軽く鐘の音が鳴って店内への道が開ける。
そしてその先はまるで異界のような不思議な空気が流れる空間だった。
深い茶色の壁と木製の書棚で構成された店内に、木の根っこをそのまま切り取ってテーブルにした売り場がひとつふたつと訪問客を出迎える。
ところどころに配置された観葉植物が緑のアクセントで空間を引き締め、天井には温かみのある橙色のランプが吊り下げられてこの空間をほんのりと照らしていた。
少しずつこの空間を歩いて回れば、色々な本にお店の手製ポップが付いていた。
長文で切々とその魅力を説いた黒字の凛々しい書体の推薦文もあれば、ピンクのハート型の紙に目を引く口説き文句が記された軽めのポップまで、店員のこだわりが伝わってくるようだった。
歩けば右も左も本に囲まれて、童話の中に入ったようなデザインの店内でゆっくりと本を眺める。
当たりだと陽菜は思った。この店の評判は間違っていなかったと。
そして歩いているとふと気付いたことがある。
ネットに書かれていた通り、この店は小説しか扱っていないようだった。
目の前の棚を眺めても、テーブルの方を見ても、反対側の棚に目を凝らしても置いてあるのは小説だけ。
学術書や実用書、雑誌、エッセイといった一般的な書店に置かれているはずのジャンルの書籍はさっぱり見当たらなかった。
本当に小説しかないのだなと感心しながら店内を更に奥へと進む。
左手の壁際の棚には文庫がずらりと並ぶ。陽菜も読んだことのある有名な作家から、名前は知っているけど読んだことはない作家までたくさんの作品がずらりと並んでいる。
反対側に目を向ければ児童文学のコーナーが展開されていて、陽菜も小学生の頃に読んだことのある作品があったかと思えば、恐らく最近刊行されたであろう名前すら知らない作品も平置きで並んでいる。
そういえば昔読んだこのジャンルの作品は友情の大切さを説くものだったり、子供同士の絆を描いたりする作品が多かったけれど、自分にはそんな子供時代はなかったな、と思い返す。
誰かと一緒に冒険したり、大喧嘩の後で仲直りしたり、親に反抗してみたり。そんなことは一度もなかった。
いつも陽菜にとって誰かとの関係を築き上げる行為は物語の主人公に憑依した上に存在するものだった。
わたしは一体何をしているんだろう。
また、そんなことが頭に浮かんできて、悲しいような切ないようなきゅっと胸が締め付けられるような。
そんな感覚が心臓のあたりから消えなくて、一言でいえばボーっとしていた。
だから、ふと隣まで人が近付いていたことに気付いたのも声を掛けられる直前で―
「……あの」
「は、はいっ!? あっ、す、すいません、なんでしょう……」
真横からの突然の投げかけに慌てて大きな声が出てしまったのを抑え、小さめのボリュームで返答する。
声を掛けてきたのはセーラー服の上にエプロンを着けた同い年くらいの少女だった。
長い黒髪が背中まで伸びていて、どこか冷ややかな面持ちも感じさせる彼女は、引き続き凛としたトーンの声で陽菜に話しかけてくる。
「小説、お好きなんですか?」
「えっと、はい。小さい頃からずっと好きで読んでて……」
「そうなんですね。熱心に見ておられたので、気になってお声を掛けてしまいました」
そう言って少しだけ表情を崩すと、柔らかさが出てきてホッとする陽菜。
そして気になっているのはこの少女が何者なのかということ。
「あの、そちらはこのお店の店員さんですか……?」
「店員……ああ、実は店長をやってまして」
「て、てんちょうさん……」
自分と同い年くらいなのに店長、という衝撃が陽菜の脳を殴った。
こちらは読書以外に趣味のない平凡な人間、それに対して彼女は若いのにしっかり働いている。
それがあまりにも衝撃的でしばらくフリーズしていたのだけど、それを上書きする衝撃が続けざまにやって来て―
「突然なのですが、この店でアルバイトをする気はありませんか?」
それは陽菜にとって人生初のスカウトであり、初めてのアルバイトのお誘いだった。