屁神
あるところに五十代の男がいた。生まれてこのかた恋人がいなかった。めぼしい人もなく、十八で実家を出てから、一人暮らしが続いていた。しかし男は決して寂しさを覚えなかった。それは自由気ままに生活できるからである。稼いだ金は自由に使えたし、誰の目も気にすることなく屁をこけた。
男は一歩で、ぷ。二歩で、ぷぷ。三四と続けてこいた。彼は服を着るのが億劫で、生尻を床につけて、ぷ。さらには湯船の中で、ぷ。排尿中に、ぷ。我慢することなく屁をこいた。すると、こかなければ、なんだか尻がむずむずと痒くなるようになっていた。これはなんとしてもこかなければ、仕事にも支障がきたしてしまうと思った彼は、屁をこけるように芋をたくさん食べて、尻から酸素を吸うようになった。効果はすぐに現れて、彼はまたぷぷぷと屁をこいた。
寝ても覚めても所構わずこいていた男は、いつのまにか屁中毒者になっていた。こうなると、職場であろうが、電車内であろうが、屁をこかなければどうしようもなくなるのだ。
「ちょっと、なにしているのかね」
上司の一人が、男に怒鳴った。
「申しぷ訳、ござぷぷいぷません。ぷ」
上司は謝罪しながら屁をこく男を叱責しようとしたのだが、あまりにも情けない顔で屁をこくので、真剣に怒る気にはなれなかった。
「はやく病院へ行きなさい」
男は高名な医者に視てもらうことになった。
「治ぷぷぷぷしぷてください。ぷぷぷこのまぷまでぷぷは解ぷぷ雇さぷれてぷぷしまぷいますぷ」
「やれることはやりますが、結果は保証できませんね」
医者は手を尽くしたが、やはり男の屁は止まらなかった。それどころか、原因不明のまま、悪化の一途を辿った。毎秒屁をこくようになっていのだった。
その頃には、屁をこき続ける超人としてテレビで取り上げられていた。男がやめてくれと頼んでもメディアは聞かなかった。すると、日本国内だけでなく、世界のメディアまでもが、彼に目をつけた。
男の屁は一人の環境活動家の耳にまで轟いていた。
「彼の屁は大気汚染の原因だ。いますぐ屁を辞めさせろ」
環境活動家は、国際環境保護連盟会議で、彼を糾弾した。
次第に面白がっていた人たちが男の周りからいなくなっていった。 彼の屁に刺さる視線は冷たいものになっていた。
「ぼぷぷくぷぷだぷって好ぷぷきで屁ぷぷぷぷをぷぷこいぷぷぷていぷぷぷぷるぷんぷぷじゃなぷぷぷい」
男の反論も空しく、事態を重く見た会社によって男は解雇されしまい、涙ながらに家に籠った。
彼の家の前にはデモ隊が集まっていた。
「屁をこくなー」
「大気汚染、環境破壊を阻止するぞー」
ひとしきり太鼓を叩き拡声器で喚き散らかすと、男の玄関前に、デモ隊の代表者が立った。
「こんにちは。今後について、話し合いましょうよ。ね?」
優しく問いかけても男は家から出てこなかった。それどころか扉越しに屁の音が鳴り続けていた。代表者は髪を逆立て顔を紅潮させた。
「この犯罪者。懲りずに屁をこきやがって。こうなりゃ、強硬させてもらう」
デモ隊の先行部隊が玄関の扉を破壊し、彼を捕獲しようと試みた。しかし扉を開けた瞬間に部屋に充満した屁が、外へと放たれた。
「うぎゃっ」
デモ隊の代表者は屁酸化炭素中毒で呼吸困難に陥り、救急搬送されたが、まもなく死亡した。先行部隊も半分がやられてしまった。
代表者を失ったデモ隊はまもなく統率がとれなくなり、暴徒化した。一部始終を見守っていた警察官たちは、彼らを抑制しようとしたが、返り討ちにあった。
デモ隊はそのまま一帯を占拠した。
今は亡き代表者の恋人が演説台に上がった。
「屁を根絶しなければなりません。屁は人類を滅ぼす害悪なのです」
涙をぽろぽろと溢しながら訴えかけた。
「屁をしないで」
デモ隊は自衛隊により、すぐに制圧され、逮捕された。この武力制圧は大衆の反感を買った。この件以降、全国各地、国境を越えて反屁運動が勃発した。メディアで発表された彼女の演説が大衆の心を動かしたと、後に教科書に記載された。大衆は反屁を叫び、屁をこく者を私刑し始めた。
反屁は政界まで波及し始めていた。国会で、屁について論じることもあった。与党は屁のこく自由を国民に訴え、野党は反屁のイデオロギーに則って与党を責め立てた。
街のいたるところで屁論が繰り広げられていた。
メディアによって反屁論が大衆に広まると、逆に屁を神として奉る者が現れた。
「屁は救世主なり」
政府は対応に追われることになった。
「屁は生理現象だ。屁を自制することは不可能だ」
国会議員と官僚は口角に泡を飛ばして演説した。
「屁の自由は憲法によって守られている」
「人間の勝手で環境を汚染し、破壊することを認めるなんて間違っている。憲法を改正するべきだ。時代遅れなんだよ」
野党は一党にまとまり、大衆に訴えた。
「いまこそ悪しき体制を打ち倒すのだ」
自衛隊は反屁派によって乗っ取られ、ついに国家を建国した。これは日本だけでなく、世界でも同様の事態が起きていた。世界は屁のために戦争をした。そうして世界会議で屁を抑止するための機構が設置された。世界屁換機構である。
一時、屁神教徒によるテロが起こったが、教祖である五十代の男が逮捕され、事態は終息したかに見えた。
世界屁換機構は数回の議論を重ねた結果、屁を発生させないように人体の遺伝子編集を行うことにした。そうして百年が経ったころには、屁を抱える者はいなくなった。