第百八十六話:ヒトハの『一葉』
やりたいことは、沢山ある。
ヒトハのノートには、病室で書き続けてきた願いがコレでもかと記されていた。
入院したままでは、虚弱な身体を持つ自分一人では決して叶わぬ願いの数々。
紆余曲折あるとはいえども、伊賀崎ヒトハという少女は今こそそれらを叶える事に夢中となっていた。
「ヒトハ……本当にやるつもりなのか?」
「うん。せっかく身体を動かせるんだから、真似してみたくて!」
現在は空も夕焼けし始めている放課後。
ノートを手に持つヒトハと、付き添いの小太郎が立つ前にそびえるのは、学園から少し離れた場所にある長い階段。
とは言ってもわざわざこの階段を選ぶ必要もない場所なので、周囲にはあまり人の気がない。
強いて言うなら、空手着に身を包んだ集団が階段でロードワークをしているくらいである。
「ほら、やってる人もいるじゃん。ワタシも頑張ってムキムキになるよ〜」
「まずは基礎体力を考慮するべきではないかね? どう考えてもヒトハが耐えられる運動ではないだろ」
「も〜小太郎くんは心配性だなぁ。大丈夫だよ……たぶん」
そう言うとヒトハは「やりたいこと」を書いたノートと共に、自分のカバンを小太郎に預ける。
軽くストレッチのような動きをすると、ヒトハは目を輝かせて階段の先を見つめるのだった。
「鉄下駄は無いけど、初心者はこれで良いよねお姉様!」
「キミが何の影響を受けたのか理解はしたが、その上で何故無茶だと気付けないんだ」
「見ててねコーチ!」
小太郎の言葉をまるで聞いていないヒトハは、そのまま威勢よく階段を駆け上り始めた。
そんな彼女の背を見てから、小太郎はヒトハのノートを開いて見る。
「階段ダッシュをする……流石に順番が違うと思うのだが」
先日の三連休でも、小太郎はヒトハのやりたいことリストを埋める手伝いをしていた。
だからこそ、その内容がどれもささやかだったという事実が、小太郎の心に引っかかってしまう。
学校に通う事から始まり、行事を楽しむ、運動を楽しむ、サモンファイトをやって、カードショップに行き、友達と遊ぶ。
どれもこれも何てことのない内容。だからこそ世界は残酷なのだと、小太郎は感じる他なかった。
(僕は……偶々、運良く恵まれていた)
そう考えるのは今に始まった事でもない。
様々な環境が要因となって堕とされてしまった臣下達を見ていれば、必然的に中学の頃には考えるようにはなっていた。
偶然を偶然のまま放置する事は容易。
だがそれを本能的に気に入らないと感じたからこそ、今の財前小太郎は存在する。
「ふ、ふ、ふえぇぇぇ〜、もうむり〜」
「だから言ったんだ」
両脚をプルプルと震わせながら階段を下りてきたヒトハ。
案の定体力は持たなかったようで、小太郎は自分のカバンから取り出したタオルを彼女に手渡すのだった。
顔の汗を拭き始めると、ヒトハは白いタオルを顔に被せたままピタリと止まってしまった。
「……急にどうしたんだ?」
「小太郎くんの匂いがする」
「そんなに臭うか?」
「大丈夫だよ。ワタシ小太郎くんの匂い嫌いじゃないよ」
タオルを顔から外して、ヒトハははにかむような笑みを浮かべる。
その頬が赤らんでいたのは夕焼け空のせいなのか、判別しかねた小太郎は無言で視線を逸らすしかできない。
間違ってもヒトハが同様の状態であった事には気付けないのだった。
「ほら、もう行くぞ」
ヒトハにカバンとノートを返すと、小太郎は背を向けてその場を去り始める。
その後ろでヒトハはノートを開いて、スカートのポケットから取り出したボールペンで一本の線を引くのだった。
「階段ダッシュ……達成」
そして上機嫌にノートをカバンに仕舞うと、ヒトハはそのまま小太郎の後を追うのだった。
◆
電車で帰路につく二人。
今日はいつもと違うタイミングで電車に乗ったせいか、帰宅ラッシュ乗客数でぎゅうぎゅう詰めになっている。
「うぐぅ」
そもそも電車慣れをしてないヒトハは、このような人間密度を経験したこともなかった。
思わず息苦しそうな声を出してしまうが、なんとか我慢しよう。
ヒトハがそう思った瞬間、誰かに腕を掴まれて扉を背にするような位置に移動させられてしまった。
「えっ、小太郎くん?」
腕を掴んだのは小太郎。
彼は両手を車両の扉につけて、自分の身体で小さな空間を作っていた。
「これなら少しはマシだろう?」
「う、うん」
顔を真っ赤にして小さく頷くヒトハ。
小太郎にとっては不可抗力でしかなかったのだが、必然的に壁ドンのような形になっていた。
何より、電車の揺れで小太郎の顔が近づく事もあったので、ヒトハはさらに顔を赤くして目をグルグルと回すのだった。
「ヒトハ、本当に大丈夫か?」
「だだだ大丈夫だよ!」
「そういう割には顔が赤いぞ。調子が悪いなら――」
「顔真っ赤なのはお互いさまじゃん」
ヒトハに上目遣いで睨まれながら言い返されてしまう小太郎。
自分の顔の熱さに気付かされてしまった事もあり、小太郎は最寄り駅に着くまで何も言えなかった。
そして駅を出ると、二人は隣り合って歩き出す。
どこか気まずさを感じるせいか、お互いに何を言えば良いのかわからない。
夕焼けの空は紫色の闇を交え始めている。
周りは帰宅する人々や、今夜の食事を考える親子連れの声ばかりが聞こえてくる。
「ヒトハ」
「ひゃ、ひゃい!?」
「体調、大丈夫か?」
ようやく小太郎が紡げた言葉は、ヒトハへの心配であった。
顔は相手に向けられない。
それでもお互いの間にあった気まずさは、少し和らいだような気がした。
「うん。大丈夫」
「そうか。だったら良かった」
「ありがとう小太郎くん。ワタシのワガママに付き合ってくれて」
「気にするな。放っておけなかったから、僕が勝手にやっていることだ」
本心でもあり建前でもある。
小太郎は心のどこかでヒトハが気になっているからこそ、彼女に手を差し伸べたかった。
伊賀崎ヒトハという女の子を知りたい、ただそれだけの醜い欲望であると、財前小太郎は自分に言い聞かせる。
だからこそ小太郎にとって、コレらに褒められるような要素は存在しないのだった。
「でも小太郎くんは、ワタシをちゃんと見ていてくれた。本当のことを言ってもワタシと普通に接してくれた」
「特別扱いする理由がない。ただそれだけだ」
「臣下の人達が、小太郎くんを好きになる理由わかるかも」
「僕がワガママなだけだ」
「じゃあワタシもワガママになりまーす」
そう言うとヒトハは小太郎の前に立って、悪戯な笑みを浮かべる。
「ワタシだって小太郎くんの臣下なんだよ。臣下だって王さまのこと知りたいでーす」
「……なんだ、それは」
「だって小太郎くんワタシのことばっかり掘り下げるんだもん。小太郎くんのことだってもっと教えてよ〜」
「聞いて楽しい話は持ち合わせていないのだが」
「いいの。ワタシが知りたいだけだもん……ね、王さま」
そう言われてしまっては断れない。
小太郎は歩くペースを落とすと、ヒトハに「なにを聞きたいんだ」と告げた。
するとヒトハは次々に質問責めをしてくるので、小太郎はそれらに答えていく。
「はいはーい! じゃあまず小太郎くんの趣味から!」
「機械にバイク、物を弄ること全般だ」
「バイク!? 小太郎くんバイク乗るの!?」
「内緒にしてくれよ。まだ無免許なんだからな」
少し苦々しい様子でそう言う小太郎。
反してヒトハは目をキラキラと輝かせていた。
「ねぇねぇ小太郎くん! ワタシあれやってみたい! バイクの二人乗り!」
「突然どうしたんだ、理解がありすぎて反応に困るのだが」
「だってバイクの二人乗りだよ! 男の子が運転するバイクの後ろに乗るなんてロマンだよ! ロマンは正義だよ小太郎くん!」
「キミは何かそういう漫画でも愛読しているのか?」
ついつい困惑の表情を浮かべてしまう小太郎。
だがヒトハの語るロマンに関しては、満更でもなかった。
「やりたいことに追加しよ」
「それは今から追加しても良いシステムだったのか?」
「いーの。ワタシがやりたいことには変わりないもん」
鼻歌混じりにノートにペンを走らせるヒトハ。
幸せそうな彼女の姿を見ると、小太郎も自然と口元に笑みが浮かんでいた。
そして帰路を進んでいくと、気づいた頃にはヒトハの住むマンションの近くまで辿りついた。
マンションが視界に入ると、ヒトハは足を止めてしまう。
「……今日は、ここまでだね」
どこか辛そうな雰囲気はあるが、必死にそれを抑えているヒトハ。
家に帰ることに抵抗があるという事は、小太郎には容易に察せた。
「遠回り、するかい?」
咄嗟に出た提案であった。小太郎に行き先など決まっていない。
ただ目の前にいる女の子を放っておけなかった、それだけであった。
その奥底にある気持ちには見て見ぬふりをする。
「……いいの?」
振り返り、驚いた様子でそう聞くヒトハ。
小太郎は「キミが望むなら」と返すのだった。
その言葉がヒトハの心に温もりとなって膨れ上がる。
「小太郎くん!」
離したくない、離れたくない。
そんな思いが心と頭の中に満たされてしまい、ヒトハは衝動的に小太郎の手を握った。
今の自分がどんな顔をしているのかは分からない。
ただヒトハは少しでも長く小太郎といたいと思っていた。
「その、行き先とか、お願いします!」
「僕の趣味に走ってもいいなら」
「ワタシ、そっちの方がいい」
そう言うとヒトハは小太郎の手を握ったまま、マンションに背を向けるのだった。
ちょっとした遠回りというだけかもしれない。だけどヒトハには十分以上に嬉しかった。
胸がドキドキと音を立てる。だけど苦しいという感じはない。
ヒトハは今自分が抱いている気持ちが何か、すぐに理解できた。
「……一つ葉のクローバー」
「ん? なんだそれは」
「ないしょだよ〜」
強がり混じりで舌を出して笑顔になるヒトハ。
自分の身体の件があるからこそ、小太郎に本心を伝えるという選択肢は瞬時に消失していたのだ。
かつて病室で母から教えてもらった、自分の名前の由来。
一つ葉のクローバー……花言葉は「困難に打ち勝つ」。
そして……「初恋」。