第百七十九話:ヒトハのやりたいこと
一日が終わり、放課後がやってくる。
夕焼け空の下を歩いて、小太郎は帰路についていた。
最寄り駅から降りて、いつも通りに広場を通り抜けようとする。
だからこそイレギュラーは容易に目についてしまうのだ。
「僕の話を聞いていなかったな」
この前と同じように噴水を囲っている手すりに座っている、ピンク髪の女の子。
小太郎は呆れた表情で、開いたノートと睨めっこしているヒトハに近づいていった。
無言で近づいてみるも、ヒトハは小太郎に気づく様子がない。
その時ふと、小太郎はヒトハが開いているノートの中身が目に入った。
(授業用……ではないのか)
ノートには何やら色々と箇条書きがされている。
小太郎が軽く目にしただけでも「友達とお昼ご飯を食べる」「サモンの授業でファイトをする」「下校中の買い食い!」「文化祭!」「体育祭で走る!」などなど。
いくつかは赤いペンで線が引かれているが、どうにもそれらは普通の学生らしからぬ文言にしか見えなかった。
「キミはずっとそれと睨めっこをしていたのか?」
「ひゃぁぁぁ!? えっ、小太郎くん!?」
ようやく小太郎の存在に気がついたヒトハは、慌てて手に持っていたノートを閉じた。
よく見るとそのノートは年季が入っているのか、桜色の表紙の角が白く削ており、表紙をデコレーションするようにメロンパンのシールは貼られている。
ヒトハは顔を赤くしながら、小太郎の方へと振り向く。
「み……みた?」
「妙な箇条書きならいくつか」
「忘れて、お願い忘れてー!」
ノートを慌ててカバンに仕舞いながら、小太郎に訴えるヒトハ。
いつもの小太郎ならノートの中身に関心が向く事はなかった。
しかし今の小太郎は少し違う。目の前にいる伊賀崎ヒトハという女子が転校してきてから数日が経過した今、小太郎は言葉にできぬ違和感を覚えていた。
だがそれも今、ハッキリと言葉に変化した。
「ヒトハ。キミは随分と学校に慣れていないようだね?」
「えっ、べつにそんなこと――」
「目が泳いでいる。僕自身今さっき言語化に成功したからな、気づいていない奴の方が多いだろう」
そう言って小太郎は、ヒトハに視線を向けつつ話を続ける。
「最初は実技の授業でジャージに着替えた時だった。設備のない公立の小中学なら着替えて屋外でする事もある……だけどキミは女子校から転校してきたと言っていたね? 少なくとも今の日本で、設備不足になるような財政状況の公立女子校なんて存在しない」
ヒトハは小太郎から目を逸らしてしまう。
「次は教室の鍵。この前の移動教室、キミは教室の鍵という概念を知らなかった」
それは少し前にあった出来事。
移動教室から戻ってきたヒトハは、まだ鍵がかかっている扉を前にして異様にアタフタしていたのだ。
「それに加えて、どこの学校にでもある設備を見て妙に目を輝かせているし。座学の授業中は真面目というより楽しんでいるような顔をしている」
「う……あ……」
「他にも細かいところはあったが、言った方がいいかい?」
観念したようにヒトハは俯くと、無言で顔を横に振るのだった。
ちょうど今日ツルギから「伊賀崎さんって何か変な様子とかあったか?」と聞かれた手前もある。
小太郎はツルギの事には触れずに「何を隠しているんだ?」と、ヒトハに聞いた。
夕焼け空の下、帰宅する人々の出す音だけが二人の耳に響いてくる。
「みんなには、言わないで欲しいんだけど……」
俯いたままのヒトハ。
周囲の雑音に消されそうな声量で、ポツリポツリと語り出した。
「本当はね、前の学校……一度も行ったことないの。籍はあったけど、それだけ」
「不登校、というわけでも無さそうだな」
「うん。ワタシ生まれつき身体が弱くて、ず〜っと入院してたの。学校に通うのも久しぶりで、本当に色々知らなくて」
言葉を選ぶように話すヒトハ。
小太郎はただ静かにそれに耳を傾け続ける。
「頑張って普通にしようとしてたんだけど、小太郎くんにはバレちゃったか」
「最初から言ってもらえれば、周りもフォローできたのだけどな」
「そこは、その……乙女心的な色々言いますか」
「はぁ。言いづらいなら無理をする必要はない」
そう言うと小太郎はヒトハの前に移動をする。
そしてヒトハが顔を上げると同時に、小太郎は「ただし」と続けた。
「僕はもう知ってしまった。都合よく記憶を消せるような人間でもない以上、僕が見える範囲では勝手にフォローをさせてもらうよ」
呆然と見上げてくるヒトハに、小太郎は「いいな?」と問いかける。
堂々と立ち、一切合切の迷いはなくその言葉を使ってくる小太郎の姿は、ヒトハには未知の輝きに見えた。
何となくではあったが、小太郎は本当に必要な場面にでもならない限り秘密を喋らないだろう。ヒトハは不思議とそう感じていた。
「小太郎くんって、世話焼きな人なんだね」
ふんわりと微笑んで、ヒトハはそう返す。
決して嫌味でも拒絶でもない。ヒトハは純粋に小太郎の善意を嬉しく思っていた。
一方の小太郎は、今まで向けられた事のないタイプの笑顔を前にして、少し反応に困っていた。
「世話を焼くのには慣れているだけだ」
「おうさまだから?」
「……そうしたかったから、だな」
どこか遠くに思いを馳せるように、小太郎は淡々と答える。
人間という存在が持つ負の側面はいくらか見てきた。
勝者の通り道に残る瓦礫と化した者達とも出会ってきた。
見捨てる事もできず、どうにか手を伸ばそうと足掻いた結果辿り着いた小太郎の境地。
それをわざわざ自分から全て語るような真似を、小太郎は決してしようとは思わなかった。
「さてヒトハ。キミは僕が先日何と言ったのか覚えているかい?」
「え、え〜っとその……ごめんなさい」
「まったく。そういう事をされると放置できないじゃないか」
小太郎はため息を一つ吐いて、ヒトハに「陽が落ちるまで時間もない。僕が送るから準備しろ」と告げた。
そしてヒトハはいつかの時と同じように、小太郎と一緒に帰路につく。
だがヒトハの歩みは、心なしか先日よりもゆっくりな気がした。
「そういえば、あのノートはやりたい事でもまとめているのか?」
「うん……退院したら、やりたかったことリスト」
暗闇混じりの夕焼け空を見上げながらヒトハは答える。
横目で見る小太郎には、その時のヒトハはどこか悲しそうな顔をしているようにも見えた。
「色々やりたいことはあるけど、なんか難しいな〜って」
「卒業まで時間はある。だったら気長にすればいいだろう。何よりキミはそのために難易度の高い編入試験に合格したんじゃないのか、ヒトハ?」
「うん……そう、だね」
少し歯切れ悪そうに言うヒトハ。
まるでどこか諦め含んでいるような彼女の様子が、小太郎はどうにも気に入らなかった。
諦めるような事でもない。諦めさせるような事でもない。
「人手が必要なら僕に声をかけたまえ。多少は使える伝手があるかもしれない」
だからこそ小太郎は、どうしてもヒトハを見捨てられなかった。
少なくとも先程見えた範囲では、ノートにはささやかな願いしか書かれていなかった。
叶えて問題ない。特別な願いであってはならない。
間違ってもヒトハに僅かな諦めさえも抱えさせてはならないと、小太郎は感じずにはいられなかった。
「……ありがとう、小太郎くん」
申し訳なさそうに、どこか罪悪感を抑え込みように、ヒトハは感謝の言葉を告げる。
まだ時間はある。前向きに生きる術はこれから探していけばいい。
小太郎はそんな事を考えながら、ヒトハをマンションの前まで送るのだった。
「ねぇ小太郎くん」
マンションの前で別れる直前、ヒトハは小太郎に背を向けながら語りかけてきた。
「もしも……ワタシの事を嫌いになったら、すぐに離れていいよ」
「そんな事、脳にメモする気も起きないね」
そう言い残して小太郎はその場を去る。
だからこそ、彼は背を向けていたヒトハが身体を震わせていた事に気づけなかった。
◆
まだ慣れぬマンションの一室に帰ってくるヒトハ。
ただいまと言っても、誰も返事はしてこない。
この部屋に住む者はヒトハただ一人。書類上は母親と同居という事になっているが、それはこの部屋を用意した人物による嘘である。
靴を脱いで部屋の明かりをつけると、ヒトハの中から人ならざる声が響いてくる。
『オナカが空いた。オナカ空いたわ』
その声が心底気持ち悪くて、ヒトハは顔を歪めてしまう。
カバンを適当に置いて、リビングの明かりを点けると……ソレは置かれていた。
「ンーッ! ンーッ!」
手足を縛られて布で口枷をされている中年の男性が一人。
普通の少女なら不審者として悲鳴を上げる場面だが、ヒトハは無言で苦しい表情を浮かべていた。
人がリビングに置かれているのは今日に限った事ではない。
このマンションに引っ越してきてから毎日である。
『オナカが空いたのよ。早ク食べたいわ』
「やめてッ!」
身体の奥底から声が響いてくるので、思わずヒトハは拒絶の言葉を吐き捨ててしまう。
その時であった、ヒトハのスマートフォンに一つの着信があった。
画面に表示されている相手の名前は……政誠司。
ヒトハはその名前に強い恐怖を抱きながら、電話に出た。
「はい」
『やぁ。そちらは夜だろうから、こんばんはかな?』
「なにか、御用でしょうか?」
『なに、大したことじゃない……ちゃんと君の食事が届いたのか確認をしたくてね』
食事という単語が出てきた瞬間、ヒトハは顔を青くしてリビングで拘束されている男性を見る。
恐怖と嫌悪が止まらない中、電話の向こうから政誠司の言葉が続く。
『財団……スポンサーの皆様も早く処分して欲しいみたいだからね。綺麗に食べてもらえれば、みんなが得をする』
「はい……そう、ですね」
『ところで学園の方はどうかな? 少しは慣れてくれたかい?』
あくまで生徒たちの首長として話しかけてくる政誠司。
ヒトハは学園での生活に幸せを感じていたが、それはあくまで現実から目を背けた上でのものでしかない。
『学食を利用できない件は残念だけど……君も自分の母親を無駄にはしたくないだろう?』
「は……い……」
『僕達も来月には帰国できる。君はただ……普通に学園生活を楽しんでくれれば、それだけで良いんだ』
ただ普通に学校に通うだけで良い。
ヒトハが退院した時にも同じ事を言われ続けた。
しかしそれは決して平凡な意味合いの言葉などではない。
あるのは底なしの闇、手段を選ばぬ者達によって仕込まれた生きた爆弾としての役割でしかなかった。
『分かっていると思うが、生物という存在は食わねば死んでしまう……君も、二度も死にたくないだろう?』
「はい……」
『どうせ消えても問題ない人間だ。気にせず食べるといい』
そして、アメリカからかかってきた電話は切れた。
ヒトハは通話終了の画面を見ると、改めて拘束されている男性の方に視線を向ける。
『早ク、早ク!』
身体の奥底からソレがさらに声を大きくしてくる。
ヒトハも自分の中にある食欲と空腹感に抗えず、ゆらりと男に歩み寄る。
口枷でまともに喋る事はできないが、男は涙を流しながら拒絶の目をヒトハに向けている。
しかし身体の中に潜むソレに操られるかのようにヒトハは男の前にしゃがみ込むと……
「『いただきまぁす』」
そう言って、口を大きく開いた。
ヒトハの口からコールタールのように黒くてドロドロとしたソレは姿を現す。
スライムのような半液体状のソレは、顔は無くとも嬉々とした動きで男の身体を喰らい始めた。
強力な酸で溶かして喰らってみる。目を抉り出して喰らってみる。強引に出血を止めて苦痛を与えてから喰らってみる。
ただ生命を弄ぶことを楽しみながら、ソレは男を喰らい続ける。
気づけばソレは、ヒトハの口だけではなく全身からも姿を現し始めていた。
『あぁ美味しいわ〜、美味しくて楽しくて最高』
そう言ってソレは男を無惨に喰い荒らしていく。
そして男の全身を喰らいきると、ソレとヒトハの腹は完璧に満たされていた。
満たされてしまった事で、ヒトハはようやく正気に戻る。
「あ……あぁ……」
『ふぅ、ごちそうさま』
「やめて、もうやめてよクイーン!」
ヒトハは人間を喰い殺したという罪悪感に押し潰されながら、黒いソレことクイーンにやめて欲しいと懇願する。
しかしクイーンと呼ばれたソレは、顔は無くとも嘲笑するような動きを見せてきた。
『やめてって貴女ねぇ、アタシは別にやめても良いのよ? 貴女との共生を』
「ッ!?」
『分かってるでしょう? アタシとの共生が解除されてしまえば、貴女はどうなるのか』
回避不可能な死の恐怖を想起してしまい、ヒトハは床に崩れ落ちた体勢のまま身体を震わせてしまう。
『貴女は長生きできる。アタシは美味しい食事ができる。完璧に利害が一致しているじゃない』
ケタケタと笑うようにクイーンは容赦なくそう言い放つ。
そこに生命を思う心は存在しない。
あるのは純粋で無邪気な残虐さ。好奇心で虫を殺す子どものように、クイーンにとって人間を殺して喰らう事はエンターテイメントでしかなかった。
『あぁ〜、食事のあとは眠くなるものね。それじゃあねヒトハ……また明日もよろしく〜』
そう言い残して、クイーンはヒトハの身体の中へと姿を消してしまった。
リビングに残っているのは、男を拘束していた布や紐だけ。
物音が消えてしまったリビングで、ヒトハは顔を手で覆って泣き出してしまう。
「うぅ……あぁ……」
嗚咽をあげても誰も助けてはくれない。
病室で生きたいと願ったばかりに、悪意ある者達によって『人造化神』クイーンを植え付けられてしまったヒトハ。
自分のせいで人が死んでしまう。しかし殺して喰わねば自分が死んでしまう。
「だれか……たすけて」
返事はない。
あるのは自分自身への嫌悪感と、政誠司という男への恐怖のみ。
誰にも言えない秘密を抱えながら、伊賀崎ヒトハの夜は孤独に過ぎ去っていくのだった。