愚者の居場所④
心臓の鼓動が早くなる。久しぶりに全力で走っているのが主な原因だが、歩を進める度により鮮明に、よりグロテスクに目に飛び込んでくる景色が、更にそれを加速させる。
「お母さーん!」
村全体を囲っていた防護柵も、見る影もなく吹き飛ばされていた。周辺を見渡すと、家屋のあちこちから火の手が上がっている。
「山賊? でも、さっきの地響きは……」
アルカは最早意味をなしていない柵を乗り越え、村の中へ入る。
燻煙の臭いが鼻の奥を突き刺さる。思わず口元を袖で覆いながら村を突き進む。
しばらく進むと前方に男の人影が見えた。自警団の人間なのだろう。手製の槍を片手に道の真ん中で仁王立ちをしていた。
この非常事態に焦りもせず立ち尽くしていることに疑問を覚えつつも声をかける。
「あの! この村の外れに住んでるナーブレインなんですけど! 一体! 何が!」
息も切れ切れ、男の背中に問いかける。しかし、男は立ち尽くし明後日の方向を向いたままだ。
「あ、あの?」
状況の説明もできないほど茫然自失としているのだろうか。アルカは奇妙に思いつつ男の前面に回り込む。
「ひっ!?」
その男の顔を見てアルカは悲鳴を上げて大きく後ずさる。なぜならその男の顔は死人のように血色が悪く、目は焦点があってなかった。それだけなら気味が悪いで済むが、異常だと確信したのはその男の顎がえぐれて存在していなかったためだ。
「あー?」
男は悲鳴でアルカの存在に気付き、首を有り得ない角度に曲げて振り向く。
人間なら致命傷たりうるレベルで顔が欠損しているのに、眼前のこの生物は動いている。その事実を前にアルカの脳は思考を停止させ、次に何をすべきかの行動を身体に指示できずにいた。
「アゔーぁッ!」
男は奇声を上げると下顎がない口から汁を飛ばしながら、立ち竦むアルカに向かってくる。
「きゃっ!」
明確な敵意を感じてようやく身体の防衛本能が働く。しかし、咄嗟の危険信号に身体がついて行かず背中から転んでしまう。急いで起き上がろうとしたのも束の間、男が上から槍で押さえつけるようにアルカに覆い被さる。
「ウばぁーッ!」
涎か血か分からない液体を口から撒き散らしながら顔を近づけてくる。アルカは恐怖で失禁しながらも、必死に槍を押し返し抵抗する。
「いや! 来ないで! お願い!」
しばらく揉み合いになる二人。次第にアルカは疲れが溜まり抵抗する力が弱くなっていく。男はその隙を逃す筈もなく更に距離を詰めてくる。
(殺される……)
アルカはそう悟り、間もなく来る槍の刺突による痛みに身構え、ぎゅっと目を閉じる。しかし、しばらくしても痛みを感じることはなかった。
恐る恐る目を開けると男はアルカの身体に噛み付こうとしていた。だが、下顎がないため顔を押し付けることしかできない様子だった。殺害が目的なら手に持っている槍を使えば良いはずなのに、どうやら噛み殺すことに執着しているようで必死に歯を身体に押し当ててくる。
よく分からないが男の気が変わらないうちは殺されないことは分かった。ならば、行動は早いに越したことはない。男の手の力が少し緩んだ瞬間を皮切りに反逆を始める。
「くっ!」
掴んでいた槍を思い切り回転させる。すると男は腕が絡まりバランスを崩す。アルカはその押さえつける力から開放された一瞬を利用し拘束から抜け出す。
「ぐぁ!?」
男はひっくり返ったイワダンゴムシよろしく地面に倒れる。倒れた拍子に男は槍から手を離してくれたため、武器を奪い完全なる無力化を図ることができた。
「ウアあ……」
だが、その程度で戦意を失うはずもなく男は徐ろに立ち上がりこちらへ向かってくる。アルカは手に持っていた槍を固く握りしめ、穂先を男に向ける。
「来ないでください! 刺しますよ!」
しかし、男は聞こえていないのか聞こうともしていないのかアルカの呼びかけを無視して距離を詰めてくる。どうやら男はまともに受け答えすら出来ない状況のようだ。
「くっ……」
アルカは意を決して槍を振り上げる。だが、その槍の先端を目の前の人間のようなものに突き刺すということを意識すると、どうしても振り下ろすことはできなかった。
「ごめんなさい!」
アルカはその場から逃げ出す。命を奪う行為は今までやってきた。川魚を釣って卸したこともあるし、野兎を罠で捕まえて捌いたこともある。だが、それらとは違った。明確にその局面と対峙して分かった。
(私は、人は殺せない!)
心のなかでそう確信しながら大通りを往く。となると今この現状で残された選択肢は一つしかない。