馬鹿になりたい葉加瀬さん
「俺、葉加瀬さんに告白しようと思ってるんだ……」
学校からの帰り道。友人と寄ったハンバーガーショップで、俺はそんな相談を受けていた。
葉加瀬理子とは、俺たちのクラスメイトであり、才色兼備を体現する美少女だ。
テストは学年でぶっちぎりの一位。それを鼻にかけることなく、おっとりとした雰囲気が性別問わず人を虜にする。整った顔立ちとつややかな長い黒髪。そして豊満なバストは特に男子からの人気が高かった。
「止めといた方が無難だろ」
俺、天貝優斗は分かりきった死地に赴く友人を止める。
「……やっぱりそうか。あんな美人に彼氏いないわけないよなぁ」
「そもそもあの人、勉強が忙しすぎてそういうのは無理らしい」
「うへぇ。学年一位の天才は違うなあ」
「それがあの人の意思ならまだしも、親のしつけらしいぞ。将来医者とか弁護士とかにさせたいらしくて、勉強以外のことを許さないらしい」
「マジかよ……」
友人は難しそうな顔でポテトを咀嚼していた。前回の中間テストで最下位スレスレだった人間には、耳の痛い話だろう。
葉加瀬さんの成績は、天賦の才によるものではない。病的なまでの努力を強制されてしまったが故の結晶だ。
「ってかお前、何でそんなこと知ってるの?」
「……知らないのか? けっこうよく聞く噂だぞ」
俺は適当にはぐらかすと、ナゲットを口に放り込む。葉加瀬さん本人から聞いたとは、口が裂けても言えなかった。
家に帰ってスマホを確認する。一番上は両親から。いつもと同じ文面だった。
「今日も遅くなるから、晩御飯は適当によろしく」
俺の両親は仕事が忙しく滅多なことでは家に帰らない。小さいころからそうだったので、もう慣れたものではある。
俺が明日の予習や料理などをして、だいたい三時間が経った頃だろうか。インターホンが鳴り響いた。
俺が玄関の扉を開けると、前で待っていた人間は倒れ込むように家の中に入ってきた。
「今日も一日大変だったよぉ」
その勢いのまま俺に抱き着く。ふわりと甘い香りが俺の鼻をかすめた。
それは父でも母でもない。葉加瀬理子であった。
「分かったから。まず手洗いなさい」
「ゆぅ君ったらお母さんみたい」
渋々と言った様子で腕を解くと、洗面所に行き手洗いうがいをする。俺はその間に理子が放り出した荷物を、俺の部屋に運んでおいた。
「ありがとー。荷物運んでくれて」
遅れて部屋に入ってくる理子が、そのまま俺のベッドに倒れ込む。今日も相当疲れたのだろうと俺は飲み物と軽い食事を小さな机に準備する。
「理子ってファーストフート店って入ったことあるのか?」
「ないよぉ。お母さん健康マニアだから」
「だったらこれは新鮮だろう。バーガーショップ風のチキンナゲットだ」
放課後に食べたものをレシピも検索しつつ再現した。ジャンクフードっぽさがよくでた自信作だ。
理子はまだ熱いそれを指でつまむと、ポイっと口に放り込んで目を細めた。
「おいひぃ! こういう味付け好きだなぁ」
そう言ってコップに注いだコーラを飲む。ベッドに寝転んでジャンクフードを食べる彼女は、学校で見せる才女の面影もない。
「親が大切にしてくれた体を糖分と油分と添加物で汚していく感覚がたまらないね」
昔読んだ小説と似たような言い回しがおかしくて、俺は思わず苦笑する。
「また賢さが出てるぞ。この一時間は思いっきり馬鹿になるんだろ?」
「あっ。そうだったそうだった」
そう。理子が俺の部屋に来る理由。それは馬鹿になるためなのだ。俺たちがこういう関係になった始まりは、三か月前にさかのぼる。
この関係を説明する前に、まずは俺のことを少し語る必要がある。周囲の人間から見た俺の評価は大抵一様だ。
真面目な男。後輩先輩果ては教師までもがそう答えるだろう。
頼まれた仕事はきっちりこなしていたら、そういうイメージがついてしまった。そのせいで便利屋として扱われることが多い。
断ってもいいのだが、それをして評価が下がるのは嫌だった。
昔から両親が仕事で忙しく、俺が粗相をするととんでもない迷惑がかかってしまうのが原因なのだと思う。極力他人からの評価は下げぬよう立ち回ってばかりいた。
だが、それもまたストレスがたまる。そこで俺は週一回から二回、昼休みに空き教室で漫画を読むことにした。
うちの学校はなぜか漫画の持ち込みを禁止している。規制しようのない漫画サイトの閲覧をやっていることは変わらないというのに。
だが、禁止されているからこそ得られるものもある。腹の奥に滾る背徳が、勝手に張り付けられた真面目のレッテルに火をつけてはしゃいでいた。
誰も来ないこの空き教室は、俺だけの聖域にはるはずだった。だが、ある日別の人間がやってきたのだ。
それが葉加瀬理子だ。いつもと変わらないはずだが、ひどくやつれているように見えた。俺を見て咄嗟に浮かべた笑顔の中に失望の感情があった。俺は何かしたかと不安になったが、違う。
「……俺、図書室行くから」
彼女は一人になれる場所を探していたのだ。俺と同じ思いだ。だから直感でそれが分かった。咄嗟に隠した漫画をカバンに入れ、俺は席を立つ。
「あ、ごめんね。邪魔だったかな?」
「いいよ。……葉加瀬さん、やけに疲れてるように見えたから」
「…………分かる?」
「考えてることが一緒なんだよ。わざわざ人の来ない教室に来る人なんて」
そうして俺は扉へ向かう。だが、その右腕が握られる。
「天貝君さえよかったら少しお話ししない?」
そこから俺たちの関係は始まる。初めはずっと葉加瀬さんの口から零れる、らしくない愚痴を聞いていた。
両親が厳格な人で、ほとんどの行動が制限されているらしい。将来のために朝から晩まで勉強。少しでも成績が下がれば大目玉。
放任主義の俺とは真逆の存在。だが、そんな二人が同じような行動をとったということがおかしくて、二人で思わず笑ってしまった。
共通点は他にもあった。周囲の人間から勤勉で真面目というイメージがついてしまい、行動の一つ一つに気を払わなければならないことだ。
不良がごみを拾えば賞賛されるが、逆に優等生は落ちているごみを見逃すだけでもイメージが著しく下がる。俺たちはどこまでも息苦しい世界に溺れていた。
「いっそもう、不良にでもなろうかな? 何もかも放り出して、馬鹿になれたらどれだけ楽だろうね?」
冗談めかして言う彼女。だが、それは紛れもない本音のように聞こえた。
小刻みに震える体は、声のかけ方を一つ間違えればボロボロになってしまいそうなほど繊細だった。
「……この教室の中だけなら、馬鹿になってもいいんじゃないか?」
俺は隠していた漫画を取り出した。ハッとしたように葉加瀬さんが目を丸くする。
「俺がこの教室に来てるの。漫画を読んでるからなんだ。誰かに見られれば怒られるしイメージも下がるけど、バレなきゃいいと思ってる」
「あの天貝君が……?」
「葉加瀬さんも、ここにいるなら好きなことをすればいいんじゃないか? どうせ俺しか見てないし、俺だってルールを破ってるんだ。誰かにチクったりもできない」
逡巡。だが、それは長く続かない。すぐに葉加瀬さんはその顔をほころばせた。
「漫画って、どういうの読んでるの?」
「ああ。今日持ってきたやつは………………。あんまりおススメできないな」
俺は視線を斜め下にやる。よりにもよって今日の漫画は決して人におススメできない。
男子高校生の主人公を溺愛する女子高生のヒロインとの、馬鹿みたいに甘いラブコメディー。男性向けのそれは女性が読んでも「キモイ」の一言だろう。
「漫画が気になるなら、今度万人受けするやつをいくつか見繕ってこようか?」
「……ううん。なんか隠されてるから、なおさら気になる。それ読んじゃだめ?」
俺の方に寄ってきて、上目づかいにお願いする。普段真面目な葉加瀬さんの小悪魔的な仕草に俺の言葉は全て霧散し、言われるがままに漫画を差し出してしまった。
「ありがと」
葉加瀬さんはそれを受け取って読み始める。おそらくは時折出てくる下ネタに赤面しながらも、ページをパラパラとめくっていった。
俺は羞恥に気が気じゃなくなって、机につっぷして悶絶していた。やがて読み終わった葉加瀬さんが漫画をぱたんと閉じた。
「私は好きだな、こういうの」
「そっか。ならよかったよ」
俺は胸をなでおろして、大きく息をつく。
「続きはある?」
「……持ってくるよ。また今度な」
「うん。お願いね」
そうして俺たちの関係は始まる。お互いに昼休みは用事があることもあり、この密会は週に一、二回程度だった。
それを繰り返して、一か月が経とうという頃だった。
「天貝君もやっぱりこういうのが好きなの?」
葉加瀬さんが甘いラブコメをもっと読みたいというので持っていき続けた末、そう尋ねられた。
「……嫌いって言ったら嘘になるけど、現実にこれを期待するほど馬鹿じゃないよ」
「…………なら、二人で馬鹿にならない?」
その言葉の意味を理解できず、俺は頭が真っ白になる。
「この漫画みたいな関係。少し憧れるの。もし私が甘えたら、天貝君は甘やかしてくれる?」
それは願ってもいないチャンスだった。逸る気持ちを抑えて、俺は努めて冷静になる。ここでキモくなってしまったら終わりだ。
「……あなたがそれを許してくれるなら」
絞り出すように、可能な限り無難な答えを返す。葉加瀬さんは照れくさそうに笑った。
「冷静にならないでよ。私だって恥ずかしいんだから」
「……ごめん」
「もう。もっと馬鹿になって。お互いに何も考えないで好き好き言い合うの!」
葉加瀬さんは頬を膨らませる。俺の言葉を待っているようだ。
これは彼女ができたと言ってもいいのだろうかなんて益体のないことばかりが浮かぶ。だが、意を決して息を吸い込んだ。
言葉が吐かれるその前に、昼休みが終わるチャイムが鳴った。俺たちは唖然とする。
思っていたより時間が経っていたみたいだ。しまらないなんて笑いあいながら、急いで教室に戻る。そして二人なかよく注意を喰らった。
そうして今に至る。
学校や外でイチャつくには人目につくリスクが高い。だから親がほとんどいない俺の家に来ることになった。
理子の親は、理子が塾の自習室で遅くまで勉強をしていると思っているらしい。だから怪しまれないよう一時間だけ。二人でこうして息抜きをしている。
成績が落ちたらまずいのではないかと思ったが、理子はむしろ適度な休憩を挟んだ方が集中できると言った。
「しゅきぃ。えへへー」
ナゲットを食べ終わった理子は手を洗って歯を磨くと、また俺にギュッと抱き着いた。
「理子は今日もかわいいな」
そうして俺たちは今日も、馬鹿になってお互いを愛し合う。
体に触れ、見つめあい、抱きしめ、キスをして。一緒に料理を作ったり、読んだ漫画の感想を言ったり、ゲームをしたり。そしてまた、抱きしめあって。
「残念だなぁ。もっと四六時中、他人に見せつけるように恋愛したかったのに」
万が一この関係がバレれば理子は親に怒られ監視体制がいっそう強まるだろうし、俺は男子からの嫉妬で間違いなく命を落とす。それを考えると人目は忍ばなければいけない。
「そういう趣味だったのか?」
「馬鹿ップルって人目をはばからないイメージ。ちょっと憧れるなぁ」
「分からんこともないな。このかわいい子が俺の彼女なんですよって自慢したくなることはある」
かわいい、という言葉に理子はいちいちふにゃっと笑う。それがまたかわいいから、いくらでも褒めてあげたくなる。
「まあ、時間が限られてる分、この一時間で存分にイチャイチャすればいいのさ」
「うん! これからもい~っぱい甘えるから、い~っぱい甘やかしてね?」
「……分かってるよ」
学校とは違うしまりのない笑顔。それを一人占めできるのならば。この少女と一緒にどこまでも馬鹿になっていこうと心に誓った。
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