第1巻第1部第8節 「宝剣ドリュムフォーンズ 暗闘」
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「 もう駄目よ、カラン、物騒な長物は早くおしまいなさいな、」
姉娘は囁いたのだが咽喉もとの風穴がひゅうひゅう伴奏するので少しく聞き取りにくい。カランソットは剣を持ち替え聞こえぬふりをしながら刃こぼれを調べるふうだったが大変機嫌が悪かった。
「 む、こんなところにも傷がある、テュスラめ、一体どんな箒なんだ、あれは、」
「 ねーさんはほんとに剣(長いもの)がすきねぇ、でもあれはカイアスに頼まれてあたしが市場で買ってきたものだし、三本で確か28クロシェント、」
「 馬鹿め!」
手にした鞘で末の妹の頭を叩きつけて黙らせると渋々剣を収めた。ヒレィンはめそめそと泣き出した。
「 聞いたか、シド、うちの馬鹿妹にかかるとこのザマなんだ、いつもそうなんだ、こいつは碌なことをせんのだ、さっきだってそう、姉上を守るどころか一緒になって磔にされちまってベギナの仕事をひとつもふたつも増やし、お蔭でドリュムフォーンズとの接触もかなり難しくなったようなんだ、まあ、一応、成功はしたようなんだが・・・ 」
シド・レクはしかし返事もせずに放心したように日月箱を覗き込んでいる。月光を背負いすっかり陰になっているというのに目玉だけが小さく紅く輝いている。いな、その暗い眼球の中には三つ、否、五つばかりの燃えるような紅玉がちらちらと煌めきそのそれぞれが固有の命をもって勝手気ままに動き回っているらしい。
「 ドリュム・・・・・・、 フォーンズ・・・・・・、 」
ムカデの王はしかし何か全然別の夢を見てでもいるかのような、とりわけあやふやな口調で呟いた。
「 姉上も姉上だ、」
不機嫌そうにカランソットは続ける。
「 自信たっぷりなことをおっしゃってたわりにはあんまりみっとものいいザマではないし、いや、相当無様であるともいえそーな、そう、最初からあたしに任せておいてくださったならもう少しいい格好で落ち着いてたようにも思えるんだが・・・ まあ、姉上のお考えについてはあたし如きがあれこれ言ってもどーにもならんことくらいは、 」
「 ベギナはよくやってくれたわ、それにヒレィンだって初めてのお使いだっていうのに相当に頑張ったわ、本当のところを言えばあなたが起こしてくれた風が一番厄介だったともいうわ、」
「 なんなら、もう一巻きぐらい巻いてもいいぞ、」
男装の娘は手に心地よく磨り減った白銀の柄頭をさすりながら意固地そうに呟いた。
「 どんな風にも表と裏があるし、順風と逆風の入れ替わりを一枚の葉がそのあるがままに受け入れることも、風の十二方位がすべての風の王だということも、私たちにとっては秘密ではないわ、それどころか、」
「 やめてよ、呪文を吹き込むんならもっと別な耳があるでしょ、それにシド、さっきから一体どうしたの、なんだか震えてるじゃないの、」
宮廷顧問官シドレック子爵として通っている洒落た伊達男の格好は次第に崩れ始めていて何かこうどこがどうというわけには行かないが急に古ぼけた、しまりのない風情が漂い始めていた。
「 まさか、こん、なことが、あろうとは、聞きしに勝るとは、ち、陳腐だが、ま、さか、この目で見るまでは、」
「 一体どうしたの、ご自慢の舌先も硬直してるみたいよ、」
「 君は気付かんのか、完全に遮蔽されているんだぞ、二重、三重に恐ろしい、否、際限もなく、無限に恐ろしい・・・ 」
シド・レクは必死の努力で顔面の輪郭線が崩れそうになるのを抑えているようだった。眼球の中では、狂ったように互いの後ろに隠れようと旋回を続けていた五つの紅玉がとうとう一つに融合し眼窩そのものからさえ溢れ出しそうになっていた。赤い液体が一筋、震える鼻翼の脇を流れ落ちる。
「 一体どんな力なのか、どうして可能なのか、さっぱりわからん、」
ムカデの王は外法道士をちらりと見た。お茶の所為で大分温まったらしいヨナルクはマントーを脱ぎ椅子の背に掛けた。胃の辺りをしきりにさすっているのは空腹の為だけではないらしい。ひどく痩せ細り薄緑色の修道衣一枚だけが肌にぴったり張り付いているのでまるでオオカマキリ殿が食事の予感に震えながら欺瞞に満ちた不動の姿勢を保っているかのようだ。
「 テュスラはまだかな? 」
庭男は湯沸し鍋を再び火に掛けた。小屋の中はもうかなりに暖まり汗ばむほどである。
「 にもかかわらず、に、にもかかわらず、だ、」
シドは赤ん坊に目を戻し、しかし一歩あとずさった。ダインバーントがどこかに目配せをする。
「 我々はここにこうして集まっている、ある予感が、人間の言う、第六感が、つまり、わたしの言いたいのは、決して感覚ではありえない、いや、完全には言い切れないが、ええい、ここは遥かに専門家である、あなたにお任せしようか、」
しかしヨナルクは引き取らず黙って立ち上がると中空の剣に手を掛けた。柄頭に嵌め込まれたベリン・サーファイアーに月光が奇妙に屈折し青緑色の光の点が赤子の額に落ちる。男は手首を返し柄の重さを確かめでもするように二三秒間軽く揺すってみる。微かに目を細めたがそのまま躊躇なく宝剣を引き抜いた。剣は鞘に戻り再び守り刀のように日月箱の隣に鎮座する。ほとんど中空に浮かんでいた状態のヒレィンがばたりと床に落ちた。姉娘ダインバーントは何事もなかったかのように背筋を伸ばし優雅に扇を使い出した。あれほどの大出血にもかかわらず壮麗な衣裳には染みひとつ見当たらない。
「 いやに暑いわね、ほら、ガーズ・ドゥームーン、お湯が沸いているわよ、」
庭男はいやまだまだという風に手を振り鍋の蓋だけをとった。その間に自分の椅子をさがし出して来たカランソットがイヨルカを押しのけてテーブルにつき足下にへたり込んでいる末の妹をブーツの爪先で突っついた。
「 ほら、ぼけっとしてないでこれをちゃんと持ってろ、」
ヒレィンはびくっとして姉の長剣を受取り胸元に恐る恐る抱え込んだ。ずしりと重いのですこしふらふらするようだ。
「 じゃあ、ややこしいのが戻ってくる前に話をつけておこうか、シド、まだ気分が悪いのか? 」
ひどく分厚い真っ赤な絹のハンカチで顔を拭っていた宮廷顧問官は遠慮深げに手を振り誰に向かってするのでもなく優雅な会釈をした。
「 いや、私は大丈夫、それより君たちは何ともないのかね、私は、そう、もう少し、その大渦巻きから離れていることにしよう、どーも、直接、視覚を経由すると、どーも、い、いかん、ようだ、」
シド・レクは厩舎側の控え壁際にまで後退し薄青い影の中に身を落ち着けた。真紅の眼球は既に幾分かは縮小していたがまだ融合したままである。戦略的後退ともいうべきその慎重な動きとはほぼ正確に交差する形でダインバーントはゆっくりと身を翻し末の妹ヒレィン、ロバのイヨルカ、中の妹カランソットと、順繰りにその頭部に微かに触れながらテーブルの周りを優雅に半周し先にテュスラが自分の為に用意していた粗末な席に着いた。この時完全に無言であった三姉妹は完全に同時に、揃ってヨナルクを見た。やや遅れて庭男ガーズが、さらに遅れてイヨルカがヨナルクを見た。五つの視線にさらされた外法道士は、そのおのおの異質の力を感じているようだったが、一向に平気で再び日月箱の扉を閉じ、封印をかけなおした。この時同時に虫どもの合唱が戻って来た。その小さな咽喉で全世界を覆わんとしていたかの如きあのテンニンウグイスはやや声調を変え幾分軽やかな織目を交えて密やかに追従する。青かった月の光が誰にも気付かれぬほど微かに緑の波長側へとその身をずらすと額縁めいた窓の木枠がまるで濡れているかのように光るのだった。遥か彼方で夜の第三時の時鐘が鳴る。一番近いのは、つまり、西翼廊外れに突き出した大厨房のそれのはずであるが・・・それにしても普段ここまで聞こえることは滅多にない。光も音も、今この空間に遍在するありとあらゆる波動が何かしら奇怪な変調を蒙っていた。まるで時空そのものがある微妙な変移に身を任せ身悶えしその微かな震えが全ての事象に隠微極まる干渉を与えているかのようだった。
宮廷顧問官シド・レック子爵は二重三重の影の中に立ち先程よりはかなり落ち着いた顔付きで沈思黙考の形である。但しその視線は相変らず日月箱の上に釘付けなのではあったが注意力の全体は用心深くも全ての人影と一頭のロバ、熱っせられ掻き混ぜられた空気の流れ、夜の鳥の声、月と星の光の震えにまで及んでいた。この男には確かにその体節と脚の数だけの忍耐力が具わっているようだった。先見の明、否、むしろ第六感或いはそれ以上の超越的な感覚が具わっているといっていいのである。そしてその頭脳はそれ以上に明晰だった。
「 諸君、私はここから、すこしばかり離れて、見守ることにする・・・ 」
ムカデの王はダインバーントの白皙のうなじに暫し目を留めつつ再び宣言した。
「 よろしく決着をつけてくれたまえ、どう決まろうと文句は言わんことにする、」
「 じゃ、決まりだな、多数決を取るまでもない、」
腕組みをし少しくふんぞり返り気味のカランソットはランプの周囲を旋回するセレン虫どもを睨みつけながらあっさりと決めつけた。
「 それにあたしたちがこの子を預かるのとゼノワの意志が求めている解決法とは、その結果から言って少しも矛盾しない、いえ、より優雅で、より洗練された方法だと言ってもいい筈だわ、」
ダインバーントは極おしとやかに引き取った。
「 という訳で、」
二人は唱和した。
「 ヨナルク、あなたの仕事はもう終りよ、さっさとその危なっかしいものは片付けて、旅支度だってもう必要ない、あとはゼノワの、あの長いスカートの影の下へ戻り新しい運命の表を繰り出したり引っ込めたり、互いに矛盾する助言の順番を考えたりしてる方がずっといいと思うわ、」〔完全な同調は何故可能か?〕
ヒレィンは窮屈な姿勢から恐る恐る姉娘達の表情を窺っていたが、ふと目を落すとテーブルの下に伸びた長姉ダインバーントの純白の繻子の靴、可憐な舞踏靴の先が微妙なリズムでもって密かにまた微かに打ち合い、時には些か苛立たしげに互いに擦れ合っている様に気付いてひどく吃驚したのだった。染み一つない純白のオコジョが二頭淫靡にじゃれ合っている様にも等しく恐ろしく魅力的な光景だった、小娘は我知らず手を伸ばしそのすべすべした小さな丸っこい頭を撫でようとしたが、次の瞬間ぎくりとして手を止めた。カランソットの右手が獲物を窺う緑蛇の鎌首のようにそっとテーブル下の薄闇の中へと下りてきてその小指の先だけが音もなく吸い付くように長剣の白銀の柄頭にとまったからである。
「 残念だが、偉大なる薔薇の女王よ、」
外法道士の声が荘重に、いかにもわざとらしく荘重に響く。
「 あなた方の希望には到底添いかねるし、かといってあなた方を傷つけることも本意ではないのだ、できるだけ、すみやかに、あの月の沈黙を乱すことなく、穏かに、我々を行かせてもらいたいのだが・・・ 」
「 ふん、」
カランソットが呟き、ヒレィンは抱え込んだ長剣から、すうっと重さが消えてゆくのを感じ、痩せた薄い胸の中で小さな心臓が狂ったように躍り出しそうになるのを必死になって抑えている。
「 さっきも言ったように、それは不可能だわ、」
テンニンウグイスの声調が再び変わり、やや重苦しさを増す。虫どもの合奏はやはり幽かなままである。