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第1巻第1部第7節 「夜の訪問者・続き  薔薇の姉妹たち  剣と箒」

柔らかな湿り気を帯びた生暖かい一塊の風が音も無く吹き込み、テュスラは固くひっつめた前髪から一本だけ飛び出した後れ毛がやさしくなぶられるのを感じたけれども、だからといって自分の役目柄必要な、要害堅固な門守としての表情をゆるめたりはしなかった。その意気は逆手に持った庭掃き箒にもよく現われていてそれだけでも相手を威嚇するのに十分だったのだがその相手というのがいささか風変わりに場違いな風情であったため少し効き目がありすぎたというのが本当のところである。

戸口の上のランプが照らし出していたのは実際どう見ても十歳半ば位にしか見えない、ひょろりとしたひ弱そうな少女で、顔色がひどく悪く、後ろにひっ詰めた髪の毛も薄色でいかにも栄養が行き届いていず病的な感じにぱさぱさで見るからに気分が悪かったのである。その娘はいかにもおっかなびっくりという表情でテュスラの顔付きとその右手の箒を見較べていたがその左右不揃いな微かに藪睨み気味の右目には涙が一杯に溜まっていたのであった。

「 今晩は、」

小娘は蚊の鳴くようなかすれた声でかろうじて挨拶を述べた。そしてこんな短いたった一言の為に自分で自分の舌を噛んだらしくひどく顔を顰めた。

「 あなたは一体誰? こんな時間に何の用なの? というより一体どこからここへ入り込んだの? ここはあんたなんかが来るような場所じゃないのよ。」

「 わたしは、わたしは・・・、」

小娘は些か抗議の面持ちで口篭もりかけたが明らかにテュスラとまともに顔を合わせたくないらしく妙な角度で首を捻じ曲げていたがその視線の先には驢馬のイヨルカがいていつもの暖かい大きな目を潤ませているのを見ると心底ほっとしたようだった。それでそそくさと驢馬の傍に行きその首筋をそっと撫でた。ついでにもしゃもしゃの鬣の中に手を突っ込み鷲掴みにしたその一束をぐいと引っ張ったりした。

「 なによ、イヨルカ、あんたの知合いだったの? 」

「 まあ、そういうことになるな、だが、よく知っているわけではないし、ちゃんとした紹介ができるわけでもない、さあ、ヒレィン、挨拶くらいしろよ、ここにはワシの主もいるし、ガーズもいるし、その他もろもろいろんなお偉方が集まっていることでもあるんだ、いつもの調子で遊んでやるわけにはいかんのだ、」

少女はしかしますます皆の視線から隠れるように驢馬の後ろに回りこんだ。テュスラはいかにも胡散臭げにその姿を目で追っていたがすぐに呆れた風に首を振りさっさとテーブルの傍に戻った。

「 お使いにしたってもう少し気の利いたのを寄越すべきね、まるで赤ん坊じゃないの、」

娘はイヨルカの背中をがりがり掻いてやりながらひどく真剣な面持ちでゆっくりと驢馬を押し始めた。痛々しいほど痩せた、蒼白の素足が土間の地面をゆっくりと擦るように進むと驚いたことに驢馬は何の抵抗もできないまま、いや大して抵抗する気も見せずにずるずるとまるで玩具の木馬のように押し出された。ヨナルクは先程抜き打ちに使った剣を左手に提げたまま目を細めどこかしら些か楽しげな風情であり、庭男は相変わらずの仏頂面でまたもや砂糖を齧りなおしている。小娘の注意の焦点は明らかに日月箱の中にあったが同時に剣の間合いとさらには黒衣の侍女の冷ややかな視線の動きにも抜け目なく気を配る風があった。但しそういった一見小賢し気な動き様にもかかわらずその表情の裏側には殆んど度の過ぎたといってもいいほどの怯えた気配が貼り付いていて、その淵源には何か底知れぬところがあるようであった。

「 なかなか隅に置けないところがあるのね、イヨルカ、いつの間にそんなに仲良くなったのかしらん、第一、ロデロンでこんな子を見かけたことは一度もないわよ、」

「 奥勤めのあんたらにはわからんことさ、ここに遊びにきたがるのはカイアスくらいのもんだからな、」

さらに1スパン、ほとんど為すすべなくずるりと滑りながらイヨルカは澄まして答えた。

「 もっと驚くべき事だって色々とあるさ、」

小娘は手を伸ばせば日月箱に届きそうな位置にまで来た。剣の間合いは驢馬の馬鹿でかい頭によってほぼ殺されているけれども相手の手並みを考えれば大して気休めにはならないのである。

「 用件があるなら承ろう、」

ヨナルクは不図気付いたように剣を右手に持ち替えた。テュスラが無言のまま、ややひったくるようにしてそれを受け取り右手の箒と一緒に胸もとに抱え込んでしまう。小娘はおずおずと首を伸ばしやっとまともにヨナルクの顔を見た。

「 お願いがあるんです、」

「 まあ、そうだろうな、」

「 この子を渡してください、」

「 それはできんな、」

「 でも、ここから出てゆくことは不可能なのに? 」

「 そうとも限らんさ、」

「 不可能だわ! 」

ヒレィンの声調には絶対的な確信が篭っていた。否、むしろ憐れみの、いや、微かな嘲笑の気配さえ混じっていた。突然小娘は今までのおずおずした姿勢をかなぐり捨て小さな胸を精一杯反らせてしかし幾分かすれるような声で囁いた。

「 ここの本当の主が誰なのか、もしかしたらあんた方は知らないの?! 」

「 ここの本当の主が誰かだって? 」

「 そうよ! 」

「 無論、知っているさ、」

「 信じないわ、」

「 信じる信じないは別だがね、」

ヨナルクは上機嫌といってもいいような、とはいえ妙に場違いでちぐはぐな感じの笑顔を貼り付けたまま些か気だるげに肩を竦めてみせた。静寂が続いてい、虫どもの気配さえ消え失せていたけれども日月箱を中心とした半径13スパンの空間にはある濃密な負の質量の集積が感じられた。ドリン・セレン虫の消滅音が時々、とても幽かに響くだけである。

「 絶対の事実というものがあるし、これは曲げられない。」

「 絶対の事実というなら確かに存在するわね。」

小娘は深い確信を込めて頷いた。

「 で、ここの本当の主だが、無論、ガーズでもなければ、私でもない、さらにアガドゥニア、君の姉さん方でもない・・・、」

「 まあ、失礼な、あたしはアガドゥニアなんかじゃないわ、あたしは、あたしの名はヒリィーンよ、イヨルカはヒレィンって呼ぶけどそれは間違いじゃないわ、で、でも、」

「 それに言葉の使い方にも問題がある。君の言う‘ ここ ’では、勿論‘ 君たち ’が本当の主なんだろうが、私の言うここでは、」

「 次元が違いすぎるって訳かしらね、」

ヒレィンの後ろ、厩舎の内仕切り壁とさっき庭男が積み上げたガラクタの山の間にほの暗い影溜りがあり、そこに何時の間にか一人の長身の女が立っていた。これがまたひどく場違いにもつい今しがた〔退屈で暗鬱な、ろくな会話もなりたたない、日の差さない、風通しの悪い、滑稽な、空虚な会話、怪しげな身振りと視線の交差に満ち満ちた〕宮廷舞踏会をちょいと抜け出して涼みに出てきたという風情の、極めてしどけない身ごなしで、それでいて全く一分の隙も無い豪華な夜会用正装ドレス〔もってまわった言い回しを許していただきたい〕に身を包んでい、腕を胸前に組みながら粋につまんだ東方産の扇子の先端を〔幾分物問いたげに〕華奢な顎先にぴたりと当てている。

「 相も変わらず御高尚なお題目だわね、ヨナルク・ベオリガーンス、あなたの哲学的な世界観に付合っている暇もつもりもあたくしたちにはないし、もーちろんあなたの大好きな、所謂絶対的な時間とやらもどうやらとても足りないようにも思えるんだけど・・・ 」

女はすぐ目の前にいてほとんど完全に硬直し棒のようになっていた小娘を扇子の先で軽く押しのけたがどこにどんな力が篭っていたのかヒレィンは枯葉のように吹き飛ばされ庭男の椅子の足下に突っ込んでしまう。しかしカサリとも音は立たない。

「 おや、久しぶりだね、ダインバーント、」

男は軽く会釈しいかにも所在無さげに手を振って見せた。突然、床土の上でヒレィンが激しく咳き込んだ。身体を二つに折り曲げ口からは何か透明な液体を吐き戻している。直ぐ近くの庭男もテュスラも全く無関心だったがイヨルカだけは心配げに傍へ近付こうとした。が、女は、その背中に三本の爪を立て、ゆったりと掻いた。驢馬は硬直し、その意志にもかかわらず首をゆっくりと回して女の方を振り向いた。純白のドレスの、肌も露わな肩先に無骨極まるキスをした。

「 さあ、かの高名なるロデロンのイヨルカ殿、そんな役立たずの小娘なんぞほうっておおきなさいな、あなたには、あなたにしかできない大事な仕事があるでしょ。」

女は剥き出しの美しい腕を驢馬の首にするりと巻きつけた。イヨルカはぐらりと傾き、二三歩たたらを踏むようにして後ずさったが女は逃がさなかった。

「 ほらほら、あなたの場所はここ!」

「 ご期待には応えるべきなんだろう、かな? 」

ヨナルクは無造作に右手を伸ばし待ち構えていたようなテュスラから再び長剣を受取った。すぐに持ち替えたがまるで羽根箒でもぶら下げているような手付きである。女は横目でちらりとそれを見た。それからわざとらしく、いやに妖しい目付きで顔をイヨルカの鬣の中に埋めた。首を一二度振り、精巧に結い上げられた漆黒の髪と白銀製の髪飾りを揺らした。そうしてやおら起き直ったがヌミアの大理石にも紛う白皙の両肩とほっそりとした首元には真紅の血潮が上気して浮き上がっている。〔大した演出である〕

「 そんな脅しは無意味だわ、」

女はあくまでも優雅に首を竦めて見せた。

「 この子はあたしたちのものよ、」

日月箱には月光が差し込んでいた。赤子は眠り、そして月の光を飲んでいるようだった。少し離れた茂みの中でさっきと同じテンニンウグイスがまた囀り始めた。

「 せっかくの仰せだが、同意しかねるな、」

ヨナルクは応えたがどこかしら上の空という風だった。今、夜鳴き鶯の声は精妙極まる転調を繰り返しまるで夜空の全体に奇怪な符号で蔽われた網目模様を織り広げてゆくようでもある。

「 ねえ、ヨナルク、あたしにはよくわからないのよ、」

女は少し調子を変えた。

「 あなたのご自慢の予見幻視が何を見せたのか、それとも何かを見たと思い込んだだけなのか、もっとも人は、自分の見たいものを真っ先に見るとはいうけども、それにしても、ねえ、あの幸せなアズレインと比べても大仰すぎるんじゃないかしら? 」

二人は一瞬間だけお互いの目の奥を覗き込んだが、それぞれに予想外のものを読んだようだった。女はあくまでも尊大な構えを崩さなかったが今まで見えなかった緊張のこわばりが咽喉もとの翳の中に幽かに顕われた。

「 ダインバーント、偉大な薔薇の園の主よ、」

男は無造作に続けた。

「 この子の命をどうしようというのか、私になら話してもよかろう? 」

テュスラが微かに身じろぎし、その真向かいでは庭男が相変わらず無表情に石砂糖を舐めている。

「 そうね、他ならぬ、あなたになら、話してあげてもいいわね、」

女は素直に合槌を打った。ヒレィンは土間にへたりこんだままいかにも恐ろしげに長姉の横顔を見上げている。ぐしゃぐしゃになったスカートも汚物に塗れた胴着も壮麗な姉の姿と比べてはいかにも哀れである。虫どもの全合奏はやはり中断している。〔聞き耳を立てているのか いや そうらしい〕

「 あたしたちは、」

女は芝居がかった身振りで腕を使い空中に円を描いた。

「 あたしたち全てが、そう、待っていたのよ、」

「 待っていた? 」

「 そう、」

「 この子を? 」

「 この子をよ、」

「 まさか、救世主を、なんていうんじゃなかろうね、」

「 どうかしら、救世なんてのとはちょっと意味が違うかしら、」

「 どうも曖昧だな、あなた方がこの世の全てに興味を持っているとはとても思えないが、」

「 もちろんそうね、けれども全てが連環の相の下にあるとはあなた方予見者流の絶対哲学じゃなかったかしら、そうでなければそもそも予見なんて不可能じゃなくって? 」

「 まあ、そうかもしれん、」

男は相手以上に曖昧に答える。

「 じゃあ、そういうことなのよ、」

「 ふむ、」

「 この子はここに残るべきなの、ここ、ロデロンに、トゥレマルクの中心に、ということは、この赤い都の心臓として・・・ つまり、」

「 つまり? 」

「 この地に根付き、そして永遠に生きることになる・・・ 」

「 あんた方の、あの地下宮殿に、根の都に、永久に閉じ込めるわけか、生者でもなく、死者でもなく、本当の日の光を浴びることも無く・・・ 」

「 ヨナルク、あなたならわかるはず、いえ、すでによーくわかっているはずでしょ、ここを去り、荒野の彼方にこの子を置けば、どういうことになるのか、この子と世界にとって、どんな災厄が降りかかる事になるのか、そして、この子の帰還が、この赤い都ルシャルクにとってどんな意味を持つことになるのかも・・・ 」

〔女たちには、(そもそも自身、化体しているにもかかわらず)動物体・移動体としての生命の存在次元が理解できない・・・〕

「 一つ肝心なことを我々は忘れているような気がするが・・・・・・ 」

「 何よ? 」

「 この子自身にとっては一体何が幸せなのかってことだがね、」

「 ほほほ、大した偽善者っぷりね、」

「 それに、そもそも我々に、それを決める権利があるのかどうかってこともだがね、」

「 そんな反省、全然あなたらしくないわ、」

女は幾分わざとらしく、しかしそれと気付かれぬほど微かに、いかにも焦れた風を装って身体の角度を変えた。具体的には愈々気だるげにイヨルカの背中にのしかかった。女の熱い吐息が、全植物界の精髄ともいえる緑の薔薇の芳香が驢馬の片耳をくすぐり、それはそのまま落ちて日月箱の赤子の上に目には見えぬ分厚いヴェールとなって降りそそぐ。赤子は深い眠りに落ちているはずではあるが、無意識の裡にも何か異質の力を感じたらしく小さな両手を挙げて精一杯の伸びをした。小さな小さな握り拳が・・・さながら中空に浮かぶ小鳥の心臓が、薔薇色に染まり、展開し、また宙を握り、鼓動し、再び凝結して小石に戻るかのように。

月の光が、無遠慮に、青く、照り返す。女は赤子の手の平を見て少し慌てた風にアラと言った。そうして思わず知らず身を乗り出した。

次の瞬間、ヨナルクの剣が音も無く鞘走り、無心の赤子の真上で二つの物体を串刺しにし数スパンを押し戻した。一つは姉を庇おうと咄嗟に飛び出したヒリィーンの右の手の平であり、その先では姉娘ダインバーントの左胸、左鎖骨の僅かに下、露わな白皙の肌に深々と突き刺さった切先が殆ど一セカントの狂いもなく緑の心臓を貫いていた。

姉娘の目には驚愕の色も失望の気配もなく、ただ大きく見開かれたままに凍りついている。その視線の先には精一杯伸ばされた自分の右手指先があり、その数セカント先には赤ん坊の額が、いやに小難しげに皺を寄せた蒼白い額が何も知らぬ気に寝静まっている。永遠とも思える二三秒後苦しげにうめくヒリィーンの声が静寂を破った。同時にダインバーントの咽喉元がゴロゴロと鳴り、美しい唇を内側から押し開くようにして鮮血が溢れ出した。ただその色は人が見慣れた真紅ではなく殆ど黒色とも見紛う緑色、五月の新緑の透き通る緑ではなく、一夏の間、暴虐の太陽に焼き尽くされあらゆる風雨を嘗め尽くした後に輝き出るあの黒ずみ青みがかった深淵の緑色だった。

ヒレィンの苦痛の声は次第に啜り泣きに変わりやがて姉の名を呼ぶ絶望的な囁きへと変化したがそれもすぐに止んだ。但し二人の身体は日月箱の斜め上方で窮屈な形に交差したまま微動もできずに固定されているのでありこれはヨナルクの剣が文字通りに空間に縫い付けているも同じことだった。男は既に剣を手放し用心深いテュスラから二杯目のお茶を注ぎ足してもらって美味そうに飲んでいる。剣は宙空に浮かんだままで、あたかも目に見えぬ魔神の豪腕によって固く保持され、ある強力な麻痺の力もそこから由来しているようにも見えるが事実はそうではない。〔そしてこの力の流入と消失について、その有効範囲については疑義がある、そのことは甚だ曖昧な形ではあるがすぐに証明される〕

ダインバーントの唇から滴る体液は今やイヨルカのほぼ全身を深く妖しい緑色に染め上げていたが床上に零れ落ちる雫は一滴も無くその全てが驢馬の毛皮の下へと吸い込まれてゆくようなのが不思議といえば不思議である。

「 まったくきりが無いな、」

と匂いの出所を確かめようとでもするかのように鼻先で茶碗をゆっくりと揺すりながら些か顔を顰めていたヨナルクだったが、

「 いや、これはしかし、全然次元が違うようだ、お茶の香りではないな、ダインバーントめ、なかなか手の込んだことをする・・・ 」

「 それに床掃除の手間を省いてくれるのはいいんですけど、このイヨルカはどうするんです? これを全部落すとなるとたっぷり丸一日くらいはかかりそうですわ、まあ、わたしとしてはこんなに綺麗な緑色ならかえっていいんじゃないかしらんとも、」

「 冗談じゃない! こんな姿では一歩も出歩けんぞ、」

今この瞬間深い夢から覚めたように頭を振り立て、胴震いで全ての重荷を振り落とそうとしたイヨルカだったが事実はほんの少し腰が引けただけだったので、まさにたったの一歩たりとも動けはしなかったのである。しかし頭を捻じ曲げ自分の鬣の後ろで硬直したまま血を流している姉娘と空中を突進するアマツバメさながら凍りついてしまったヒレィンの小さな体が赤ん坊の額を頂点とした絶対の三角錐を形成しその内側に嵌まり込んでしまった己が体が一種異様な状態に陥ってしまっていることは理解できたようだった。

「 おおい、ダインバーントよ、いい加減降りてくれ、まったく、なんとまあ、この匂いは一体どうなっているんだか、さっぱり訳がわからんぞ、緑の、緑の太陽の匂い、甘い、いや、甘酸っぱい、日向の、おお、精気がひどく・・・、おや、なんだかひどく腹が減ってきたな、美味い薊が、突然、おお、あの流れの中の魚ども、」

碧の驢馬は半ば腰を落とし土間の土を掘り返さんばかりに激しくたたらを踏んだ。そして苦しげに首を振り小さく微かに嘶きつつ猛烈な勢いで精を迸らせた。

「 まあ、呆れた! なにやってんのよ、こいつ! 」

イヨルカの巨大な陰茎が何か全然別な生物のように荒れ狂っていた。それはこの種族のものとしても不気味なほど長大で明らかに異常であり自身の下腹部を酔っ払ったように鞭打ちながら際限なく精を撒き散らしているのである。黒衣の侍女は腹立ち紛れに箒を持ち替え驢馬の尻を打った。

「 やめなさいよ、みっともない、あーもう、掃除する身にもなって頂戴! 」

「 色としては・・・、」

と茶碗を置き、かすかに首を振りながらヨナルク。

「 なかなか悪くはない、」

精は、霧状に広がりあらゆるものの上に降りそそいでいた。開花したばかりの冥王楠のような強烈な香りはやや薄らいだがこれはただ鼻が慣れてしまっただけなのかもしれない。

「 お言葉ですけど、問題が全然違っているように思えますけど! 」

「 そう、問題は全く別だった・・・、 おおっと、またお客のようだ、もう一度あちらから入りたいらしいな、律儀なことだが・・・ 」〔全てを一人とみなす・・・〕

再びノックが聞こえたが今度はさほど遠慮がちでもなく、そう弱々しくもなかった。テュスラは隠しからハンカチを取り出していささか気持ちの悪い額や首筋を拭っていたが、別に急ぐ風でもなかった。その間にノックの音は幾分凶暴さを増していた。侍女はハンカチを畳み直しながらそこに緑の色がなく、すこしもべとつきもしていないことにちょっと驚いた風だった。箒を逆手に持ち、さっさとドアに近づいた。しかし、その時には勝手口にありがちのちゃちな閂はその役目を放棄して砕け落ち一陣の風と共に妙な二人連れが姿を現していた。

「 失敬、失敬、おや、しかし壊れてしまったものは仕方がない、あらゆるものには寿命と言うものがある、おおっと、今晩は、テュスラ殿、ガーズ殿、それに、」

奇妙な男は懐からそそくさと古臭いモノクルを取り出しヨナルクを見た。わざとらしく目を細めて鼻の横に嫌味な皺を作った。

「 手の早いヨナルク殿、いや、手が長すぎるというべきか? 」

「 シド! まわりくどい挨拶はあたしの前ではやってほしくないな、さきに言っといたはずだろ、やあ、テュスラ、久しぶり、相変わらずカチコチしてるな、それにまあ、イヨルカ、あたしらを歓迎してくれるにしたってもうちょっと上品な方がよかったな、」

手にした剣の柄でドアをガンガンやっていたのは精悍な身体付きのこちらの女の方だったらしい、身なりの方はどう見ても東方隊商付きの護衛兵崩れそのままで全く女らしくはないのだが見方によっては絶世の美女とも見なし得る不可思議な雰囲気を持っていた。黒衣の侍女はいささか呆れた風に肩を竦め振り返って主人に復命する。

「 カランソットとシド・レクですわ、厄介なことに! 」

後半の感想は言わずもがなであるが付け加えずにはおれなかったらしい、但し、表面的に忌々しげな口調にもかかわらずその裏側には隠し様のない歓迎の調子、こんがらがった事態を本能的に好む厄介な性格すらほんのりと透けて見えた。ヨナルクはゆったりと立ち上がりやや宮廷風に、しかし完全に優雅に会釈を返した。

「 これはこれは、正しく、千客万来の夜、シド・レク様、わざわざお越しいただくとは恐縮でございますな、」

外法道士の声調にはいささかの嫌味もなかったけれどもそれこそ嫌味というものである。

「 ご丁重なご挨拶痛み入りますな、いささか節操のない時間ではありますが噂の御茶をいただきに参りましたぞ、」

「 それに、談判もだ、」

と、男装の娘。

「 いやいや、ごく平和的な話し合いになるはずです、」

奇妙な男は奇妙な仕草で自分の身体を三等分する手振りを見せる。

「 でも、まずは先程の返礼を、でないとご本人はともかくこのあたしの気がすまないのね、」

次の瞬間、カランソットのかなりにくたびれた砂塵除け外套の裾がふわりと翻りその姿が視界から消えた。その目にもとまらぬ踏み込みはごく低い位置からヨナルクの喉元を狙った必殺の突きを生む為のものであり常人の目では鞘走った剣の光さえ捉えることはできないほどのものだった。本来ならばここでこの外法道士もあっさり串刺しになるはずであった。男はこの時丸腰だったし手にはまた、お茶碗をつまみあげてさらにおかわりが欲しそうな気配だったりしたからである。けれどもそうはならずにかわりにとても甲高い冴え切った音がしてカランソットの剣は中空に立往生している形がちらりと見えた。テュスラの箒の柄がさっと空中に差し出されいとも易々とその必殺の軌道を遮っている。ただし思わぬ妨害にも拘らず娘の表情には意外の感も驚きの色もなく、その恐ろしく容赦のない冷徹な剣の動きにはいささかのためらいも渋滞も存在しなかった。さらに十合、また、二十合、ありとあらゆる角度からいかなる微小の隙間をも見逃さずカランソットの剣は襲いかかったがその悉くが黒の侍女の箒によって打ち落とされてしまう。

さてしかし、確認しておかなければならないが娘の剣は東方産の片刃の長剣、名高いギモレット鋼の高価な逸物であり微かに優美な反りを見せる青白い刀身は見るものの魂を奪うに足る妖しの美しさである。かたや、侍女のもつ庭掃き箒はありふれた極普通の安物でありどこの市場ででも数本いくらの特売品として手に入るかなり情けない代物である。別に柄の中に特殊鋼の芯を仕込んでいる訳でもない。しかしこの打ち合いの特に後半戦、剣と箒が交差するたびに派手な火花がしかも色とりどりに飛び散り目ざましい光景を現出させていたことは注目に値する。この火花はしかし闇雲に飛び散っていたわけではないらしい。というのも誰の意図であったのかはまだ定かではないが、その落ち行く先は微妙な偏向を示し、大部分がまるで吸い寄せられるようにヨナルクの剣と空間の接合点、ヒレィンの右手、及びダインバーントの左胸の傷口に向かって集中していたからである。またその幾分かはイヨルカの背中や首筋の上にもかかっていた。

個々の火花の寿命は短くほんの一瞬だけ輝くのだったが、驢馬の毛皮の上に落ちた物だけは暫しこの空間にとどまっていた。それらはひどく高温だったに違いなく肉の焼け焦げる微かな音が確かにしたようである。また、ある種の嗅覚にはひどく刺激的でもある独特の臭いもした。

「 熱いのと冷たいのと、ちょっと忙しすぎますわ、あら、イヨルカ、やっと止まったのね、でもまだ動けないの、情けないわね、」

テュスラは鼻をちょいと啜り上げながら楽しそうに箒を振り回していた。相手に較べてこちらの衣裳の布地の多すぎるのが難点でひどく風が起こるのである。で、辺り一面、土埃や糸屑やらはもちろん、もっと大きい木のカケラ、秣の滓、獣毛の塊、その他諸々の塵屑が舞い上がり乱舞しまた落ちかかってきた。もうお茶どころの騒ぎではなく第一衛生上甚だ宜しくないのである。しかし、庭男は自分の頭の上で何が起ころうと一向に平気でまだ砂糖を齧っていたし、ヨナルクは三杯目のお茶を今度は隣の真似をして砂糖たっぷりにして飲もうとしているところだった。ランプが揺れ影が揺れた。シド・レクが手を振り合図したので虫どもは嫌々ながら退避した。

「 やはり何かつまみたい気がしてきたぞ、なあ、テュスラ、ここでは何かちょっとしたものは作れないのか、いやなにも本格的な晩飯にしようという訳じゃないんだが、まあ、これからちょいとやっかいな仕事も控えている訳だし、」

「 ちょっとしたものなんて駄目ですわ、ご主人様、ここは一番豪華にゆくべきです、ちょっと!! カランソット! 」

「 ちょっと、ちょっとってうるさいわね、あたしは今忙しいんだ、」

新機軸の二段突きから新手の変化を試していた娘は次に突然手を変えて箒の根本付近に直接強力な切断技を打ち込んできた。が、これは侍女の思う壺だった。一際激しい火花が散り、一瞬剣の動きが止まる。反転した箒はそのまま盤石の重しとなって剣を押さえ込んでしまう。小手先の技ではなく、非常に危険で大胆な体術の奥義ではあるらしいが侍女の制服にとってはいささか負担が大きすぎたようで派手な音とともに裾の一部が弾け千切れてしまったようだった。〔しかしこの現象には物理的な疑義がある〕

「 食事にしましょう! 」

テュスラは大声で宣言した。

「 わしも腹が減った! 」

同じくイヨルカも唱和する。

「 今のはなかなか大した技だった、兜割りの変形かな、」

心底感嘆したようなヨナルク。

「 あたしの鬼車は褒めてくださらない、」

「 ちょっと行儀が悪いからな、」

「 ほれ、テュスラ、太ももまで丸見えじゃないか、さっさと繕った方がいいな、」

「 こら、テュスラ、わたしの剣の上からその重たい尻をさっさとどけろ、」

黒の侍女はいささか名残惜しそうにゆっくり立ち上がりばらばらになったスカートの裾をちょいと抓まんで大袈裟に溜息をついた。

「 丁度いいわ、アタクシ着替えてきますから、その、ついでにお夜食の用意もしてきますからね、」

「 今頃バーモスを叩き起こすのかね、」

「 まさか・・・、 カイアスでも探し出して何か作らせますわ、もちろんアタクシが監督してです、すぐできますけど、まあ、ちょっとは間が空きますからその間にちゃんと話をつけておいてくださいね、そこのお二人さん、とっくにお目覚めならなんとかおっしゃいな、でもお話なら穏便にね、そこの粗暴な妹さんにもよく言ってね、あぁーあ、散らかっちゃってとても美味しいご飯がいただける環境じゃないわねぇ・・・、」

テュスラは箒を手にしたままさっさと出て行ってしまう。ヨナルクの背後の木戸がぱたんと閉まった時、同時にダインバーントの瞼がぱちりとしばたたいた。串刺しになったままの二人はもうずっと前から起きていたらしいのである。

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