第1巻第2部第1節の続きその17 「手術終り 続きその11 大雀蜂ジーナ その10 門の前 続き シルバ・シルバの下にて・続きの続きの続きの続きの続き」
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突然激しく嘔吐を始めたアトゥーラを気遣わしげに見下ろしていたドナドナだったがやおら小娘の体を抱き上げた。
「痛いのか」
「わかんない、物凄く痛いんだとは思うんだけど、よう、よ、よくわかんない、」
小娘はまるで他人事のように呟いた。エズキはするのだが生憎しっかりとしたモノなぞ
朝から何一つ口にしていないのだからちょっとした涎が
か細い顎先をちょっぴり、ちとちと、濡らすだけなのである。
ラグンが首を伸ばしアトゥーラの顔全体を舐めた。
「もう終わりにならないの?」
小娘はどうでもいいやと言わんばかりだった。
「まだまだね、」
小娘の体は時に蛯のように強直し震え通しだった。
「あたし、もう死ぬのね、」
微かに笑いラグンへの反論をも込めていささか嬉しげに呟いた。
「なかなかいい人生だったわ」
「気が早いな、」
ドナドナが笑った。
「だいたいのことは見たし、聞いたし、
もうじゅうぶんだわ、」
「なにも未練はないのか?」
「未練? 未練? って、 どうだろ? なんかあるんかしらん?」
ドナドナの青灰色の顎髭の先、虚空の彼方にシルバ・シルバの頂上が揺らいでいる。
(青のデカ帽は背中にずり落ちかけているのだ)
そう、陽炎のように、揺らいでいる。
その揺らぎの角で
ギザギザの黒点がひとつ、ひどく歪に、
何事かを大声で嗤っているように揺れている。
「あ、あれはカラスね、オオガラス・・・ 」
小娘はひどく体をよじった。
「そお、そだ、雲が、」
小娘は大儀そうに自分の左手を引っ張りあげる。
「はは、手がある、なんか不思議、」
銀の手は何かを握り込むように丸まっている。
「なんだろ、さっきより随分軽い、あっ、開く!」
手のウチではジーナが眠っていた。その薄い琥珀のような澄明な翅で自身をくるみこむように、ひどくこじんまりと納まっている。
もう元の親指大の大きさなのである。
「あああ、物凄く痛いけど指動く、ゆううーーくり、そおおーーーと、」
中指と薬指がそっとすぼまり、黄金の胸部装甲板に触れる。
静かに翅がひろがる。
「あああ、よく寝た、って、あら、」
一瞬で、翅を始動する強力な風切り音。
「あれれ、なんだろう、すごく長く夢見てたみたい、体が銀色になっちゃって、もう、イヨルカったら、やらしいんだから、
気持ちよすぎんじゃないの、」
「あんたの例のアレ、すごくよかったわ、それにしてもイッパイ出してくれたわねえ、もしかして、たまってた?」
「ふふふ、バカなこと言わないで、ふつうに狩りしてたらそんなことにはならないわ、」
「ま、そうよね、えと、それでね、ちょっと言いにくいんだけど、」
「なに?」
「イッパイもらっちゃったから、ついでに解析してみたんだけど、」
「なになに?」
「その、アレ、ね、もうひとひねり、なんていうか、そ、か、改良? するとね、」
「う、うん、ああ、あ、ち、ちょ、ちょと、こそばい、」
「あ、ごめん、あんたのちょうどお腹の下だったわね、別にどこで振動させても声は声なんだけどね、あ、それでね、ちょっと改良するとね、」
「ふんふん、」
「今の十倍くらいキョウア、じゃなくて、強力にできるんだけど、」
「あんた、いま、凶悪って言いかけたでしょ、」
「言ってない、言ってない、そ、それでね、あと、単純麻痺とか、溶血、単原子分解とか、いろいろ、素敵な機能を分離分載できるんだけど、」
「へえ、そりゃすごい、」
「でも、それには別々の収納容器っていうか、貯留嚢が要ることになっちゃうし、そおすると、あんたの体の中をいじって、いろいろ、バイパスとか、逆流防止弁とか、切ったりはつったりすることになっちゃうから・・・ 」
「べつにいいわよ、やってみて、」
「え、そんなカンタンに、え? いいの?」
「問題ないわ、それに、今の毒袋がちょっと大きすぎるのは前から気になってたのよ、ちょうどいいから改造しちゃってよ、」
「ま、ま、ま、ま、ま、まあだ、け、け、け、けい、計い~~画段階だから、そ、そんなに、すぐには、」
「さっきみたく、ここで眠ってるあいだにできるんでしょ、」
「ま、まあね、」
「夢見てるあいだに強化されちゃうなんて、おっほう、最高じゃない!」
「そうねえ、あんたをここで握り込んでて、あっためてると、なんだかこっちまで
イイキモチ」
「あ、あのう、盛り上が? サカッテル? とこ、悪いんだけど、」
ドナドナの腕の中、お姫様抱っこの体勢でブルブル震えながらアトゥーラが口を挟む。
「ああ、ごめん、ごめん、アタシとしたことが、なんだっけ、雲が、って言いかけてたわよね、」
「そうよ、あんたたち、っていうか、ジーナ、あんたみたく、空飛べる人はいいわよねってハナシ、あたしはね、」
しかし、ジーナはまだ飛び立つ気配なく、すこうし体をずらしてモゾモゾずり上がり、銀の左手中指の真ん中をジワジワと未練たらしく甘噛みしているのである。
「あんたら、ひとの体でイチャイチャすんの止めてよね、」
「ままま堅いことは言わないの、それより、どおよ、だいぶ動かせるようになったでしょ、」
「うう、それはいいんだけど、うん、そお、だいぶ動く、いいんだけど、痛すぎるんだけど、ここの手首んとこ、それに目ん玉も、ああ、吐きそう、」
「で、雲がなんだって?」
ドナドナが左腕一本で小娘の体を支え、右手ではやさしく例の青手巾を使い左目の周りを拭っていたのだが血は相変わらず少しも付かないのである。ジーナを愛撫し、アトゥーラの血を処理し、その上、周囲を警戒しつつ小娘の体の全表面を防護しているイヨルカはかなり忙しいはずなのであるがそんなことはおくびにも出さない。どうやら絶好調なのであった。
「雲?」
ドナドナは長い右手を伸ばし帽子を腰の後ろへと回し落とした。
「だいぶ強烈そうだな、」
男はラグンに目配せした。
「ちょっと早いが手術の仕上げをしてしまおう、」
そして木の箱車を残し、
二人と三頭と一頭と一匹の姿は、
ヌヒテルの森の門の手前、
春の野の小道の上から、
掻き消すように見えなくなる。
*
不意に痛みが消えた。
ひんやりとした、なめらかな、
しかし微かに吸い付くような感触が背中全体にひろがっている。
青空が近い。
黄金の太陽が、やや気後れしたように、柔らかく、優しげに輝いている。
十字形の雲が、ゆっくりと近づいている。しかしそれは気のせいで、実は微動だにしていないのである。その上空は強風域のはずなのであるが・・・
首を左右に振ってみる。少し遠い、この床面の縁近く、黒い物体が三つ並んでいる。よく見るとそれは狼の生首だった。その三つを簡単に見分け、それぞれの名を呼ぶことができる。
三つの頭は珍しくもごく生真面目な目付きでアトゥーラを見つめている。
なんだかこそばゆい。
両手は頭の上に斜めに持ち上がりこのなめらかな床に吸い付いている。少しも動かせない。
両足もすこし開いたままちっとも動かせない。
首を持ち上げ顎を立ててみる。
痩せこけたお腹、腰骨、膝小僧、そして爪先まで、ずっと見通せる。
見慣れた、あまり嬉しくもない、自分の体・・・
そしてそれは一糸まとわぬ全裸だったけども、そのことにも何の違和感も無い。
「寒くはないか?」
左の脇の下、すぐ近くの床面に、ドナドナの首が生えていた。
顎髭の先がまだ床下に沈んだままなのが変な感じ・・・ というか何故か可笑しい。
「うううん、ぜんぜん」
「そうか」
首の横に今度は右手が生えてくる。長い指の、よく知った手、ドナドナの右手なのである。
その手がゆっくりと伸び、アトゥーラの額の髪を掻き上げる。
埋め込まれたばかりの左目が虚空に曝される。
*
「よい格好ね、アトゥーラ」
巨大な雀蜂が胸の上すぐ1メルデンに、斜めに、棒のように、傾き、浮かんでいる。
その翅の一枚一枚がアトゥーラの腕の長さほどもあり、
それらがごくゆっくりと空間を削ぎ落とすかのように、
あるいは撹拌するように羽搏いている。
しかし風はすこしも起こらない。
「それ痛くないの? 凄いことになってるけど、」
「わかんない、もう全然痛くないんだけど、なんかモヤモヤする感じ、」
「真っ赤な太陽がそこに埋まってるって感じかな、」
「へええ、」
「ちゃんと見えてんの?」
「わかんない」
「右目つむってみて、」
「こおお?」
「どう?」
「こっち見てる、」
「それで?」
「あ、今、瞬き(ウィンク)した、」
「太陽目玉ってわけね、」
「太陽が目玉のお化けだったってのは初めて知ったわ、」
「ご機嫌はどうなの?」
「さあ、どうかしらん、あれ、あたしが瞬きしたらウィンクした、」
「ま、ご機嫌みたいね、」
「ジーナはあれ知ってた?」
「まあ、アタシたちの昼間飛行はアレとの共同作業だしね、複眼、単眼、三角点というわけよ、」
「ねえ、ここは一体どこ?」
「自分で確かめてみたら?」
「だって起きれないもん、」
「ちょっと吸い付いているだけでしょ、頑張れば起き上がれるわよ、」
「あら、ほんとだ、」
膝を立て、肘を突くと割りと簡単に身を起こすことができた。
丁度炉部屋の天井台くらいの広さだろうか、輝くような銀色の床面がのっぺりと広がっている。
そして狼の生首が四つに増えていた。
*
「バスポラ!」
にじり寄った小娘は一番近い仔狼の首を拾い上げようとする。
しかし驚くべし、首は首だけではなく、
そのままズリズリと全身が引っ張り揚げられイモムシのように続けて出て来るのである。
「なによ、あんた、チョン切られて首だけの置物にされちゃったんだって思ってたのに!」
「悪かったな、手頃なオキモンでなくってよ(なんだその残念そーな口調は)、」
「みんな一緒なの?」
「そりゃそうだろ、」
「なによ、エラソーに、それで、そっちは?」
小娘が引っ張るのを止めるとバスポラはまた沈み込んで首だけになったが動けないわけではないらしく面倒臭そーに振り返ると鼻を鳴らした。
「そっちはタビリスだ、さっき会ってるぞ、」
「そうだっけ、」
四頭目は非常に尖った顔つきでひどく生真面目そうだった。その鼻先の床面に突然モフモフの前足の先っぽが突き出てきた。
「よお、アトゥーラ、お前が覚えてないのは無理もない、そこのじいさんが失神してるおまえのパンツを脱がすとき、無意識で暴れるヤクザな右足を押さえてたのはこの俺だ、」
逆お手要求もしくは握手のつもりなのか、短い手首がクイクイと動く。
アトゥーラは普通に握手した。そしてトワイム、ペームダーともちょっと恥ずかしそうに目を合わせた。膝立ちのまま小娘は振り返った。ドナドナはもう腰から上まで現れている。
「ねえ、ドナドナ、あたしのパンツって、どゆこと?」
「はははは、なに、手術にちょいと邪魔だっただけじゃ、」
「手術って、左手と左目をくれるってやつじゃん、なんでパンツまで脱がす必要あるの?」
「大手術じゃからな、麻酔の関係もあるんじゃ、」
「意味わかんない、」
「そんなことより、どーじゃ、立ち上がって下を見てみな、」
不審極まるという顔付きで、やや薮睨みに眉をひそめたまま、アトゥーラは立ち上がる。四つの頭の間を、だがすこうし慎重に床面を睨みながら、自分の足が沈み込みはしないかと一歩一歩確かめながら、ちょいとヨダレを垂らして噛み付きたそうにしている四つの口を避けながら、小娘は進む。そして銀の台座の縁へと出た。
*
「ここは・・・ 」
「そう、つまり、シルバ・シルバの上じゃ、」
全裸の小娘は反射的に身を引きひっくり返されたように再び四つん這いとなった。丁度目の前にきたバスポラの顔がほとんど笑っている。そして鼻先を舐められてしまう。あとの三頭も床石の中を泳ぐように近付きそれぞれ思い思いにアトゥーラの尻や太もも、腰骨のあたりを舐めたり、軽く噛み付いたりしている。しかし好奇心の強い小娘は自分の心臓が早鐘の乱れ打ちさながら喉元から飛び出しそうになっているにもかかわらずゆっくりと、確信的に信地旋回し再び石台の縁へとにじり寄る。
遥か下方には、のんびりと春の白雲が浮かんでいる。ダヌンの絶壁がその下でとぐろを巻いている。静かの森は青黒く、不審不穏な稲光を纏いながら何か深海の怪物のように息を潜めているようだ。風の渦巻く轟音が微かに聞こえているのにここは完全な無風空間だ。
「こ、こんな、あ、ありえない、」
「そう、ありえない、でも現実なのよ、」
いつの間にかジーナが回り込んでいた。その姿はさらに異様に変容し、ほとんどアトゥーラの身長に等しい大きさ、ほぼ人形に近い、女性型の体つきとなっている。ただし腕は四本ある。その全身は白銀色に輝きほとんど潤んでいるような、瑞々しい質感に満ちている。巨大な翅は折り畳まれ背中に優雅に格納されている。
「ここは手術台なのよ、さあ、もいちど仰向けに寝転がって、」
ジーナの声は信じられないくらいの優しさに満ちた、心を蕩かすような、しかし、艶やかで、きっぱりとした、甘やかな声だった。それは男の声のようでもあり、女の声のようでもあった。元女雀蜂は完全に重力を無視し体を半回転させるとアトゥーラの体の下へと滑り込んできた。四つの腕が小娘の体をそっと抱き締める。そして天地が真逆になるように体勢を入れ替えた。
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再び太陽が真上にきた。しかもさっきより随分と近い。
手を伸ばせば掴めそうだ。
腕はまた万歳の形に、両足も浅く開いたまま微動だにできない。
左手首はバスポラ、右手首はトワイム、左足首はペームダー、そして右足首はタビリスがそれぞれガッチリと噛み締め万力のように固定している。
仔狼どもはちょうど首から上だけを床面に突き出しているのである。
「雲が好きなのね、」
アトゥーラはまた他人事のように喋り始めた。
「あれは・・・ あの十字形のはちょっと違うけど、でも、やっぱり、いつも雲を見てたのよ、」
黄色い太陽は雲に囚われ幾分ぼやけている。四つの幻日が第一、第二象限と、第三、第四象限へと、きれいに分離しひどく大人しく囲われている。中央の白日は時々思い出したように黄色い舌を出し周りの空虚に探りを入れているようだ。
「仕事や言い付けの合間合間に空を見上げるのよ、ほんの一瞬だけ、それ以上はダメ、ぼうと見上げてなんかいるとすぐ叩きのめされちゃう、泥んこや汚物の中へ叩き込まれるちゃうからね、」
上半身だけのドナドナが滑るようにゆっくりと近付いてくる。
ジーナは、下側の2本の腕でアトゥーラの腰を抱き締め、
空いた上の2本の腕でゆっくりと、小娘の額を、測るように撫で回している。
青い帽子の人形師はジーナに手術刀の一種を手渡す。もう1本は長さ300セカントもある鋭い極細の針である。
「だから、そう、未練っていえば、そう、あの空の雲をね、ずうっとまる一日でもね、誰にも邪魔されずにね、ゆっくり眺めてたかったのよね、」
アトゥーラは暢気に続ける。
「でも、ここはダメね、馬鹿みたいに高すぎるもの、雲が下に見えるなんて、雲の背中なんて、まあ、それはそれでいいのかもしれんのだけど、でもやっぱりねえ、」
針が左目の裏側へとゆっくりと刺し込まれてゆく。ジーナの右手が手術刀を操り石眼の周りを鮮やかに切開してゆく。そしてアトゥーラの絶叫は、白い空虚の中へと吸い込まれほとんどなかったことのように消失してしまう。
また一日、いえ二日遅れてしまいました。
申し訳ありません。リアルの泥沼でアップアップしております。
さて、
残酷なシーンが続きますが、これまだ序の口なんです。
訳者としてはとても迷うところです。
やさしくヴェールで覆い隠しておきたいのはヤマヤマなんですが・・・
次回と合わせいささか改変してしまうこともありかと・・・
わがヒロインの運命の物語なんですが、いくらなんでも、アレは、・・・・・・
仏仏・・・ 仏仏・・・




