第1巻第1部第6節 「夜のお茶会 箱を開く 夜の訪問者」
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庭男はお茶の支度を始めた。部屋の片隅には実用的でこぢんまりとした二丁炉が切ってあり、今はただ片方の炉に薄汚れた小さな湯沸し鍋一つだけがかかったままになっている。男はここで暖を取り必要な鍛冶仕事もし、恐らくは食事の用意もするのであろうが、他に調理用具らしきものは見当たらない。埋み火を熾し新しく薪を足すと部屋はさらに明るくなった。薄青い煙が厩舎の天井の方へゆっくりと流れてゆく。全く無言のまま男は茶碗とその受け皿、そしてティースプーンを並べ馬鹿でかいシロメのポットには干した薔薇の蕾を山のように放り込んだ。無愛想で、幾分腹立たしげな動作だが無駄がなく飾り気も無い。テュスラは少しも手伝おうとはしなかったが最後に厩舎側の隅から古ぼけた丸椅子を二脚運んできた。
庭男は自分の肘掛け椅子を引っ張り出して正面に据え主人顔で腰をおろすと二人にも座るように促した。長身のヨナルクは扉を背にして座り自分の真向かい、ずっと奥に目だけを光らせているイヨルカを呼ぶ。 驢馬は気難しげに首を振りゆっくりとテーブルに近付いた。
「 この箱には見覚えがあるぞ、なあ、ヨナルク、例のあの箱だな。」
ロバは鼻面を突き出し日月箱の匂いを嗅いだ。
「 ふん、間違いない、あの箱だ、してみると又、旅に出る必要があるのかな? 」
テュスラは作業台に腰骨を押しつけるようにして立ち、左手を箱に、右手をイヨルカの頭において何事かを測るように首を傾げた。
「 どうかしたのか? 」
「 いえ、ご主人様、どうも横入りする奴がいないかどうか・・・、ちょっとむずむずしたもんですから・・・ 」
「 それはそうと皆そろっているのかな、」
「 多分 」
「 多分では困る、」
「 本当に困ってらっしゃるのかしら? 」
テュスラは突然声調を変えた。両腰に拳を当て恐ろしく尊大な姿勢をとる。
「 そもそも全員集まる必要なんて全然ないと思いますわ、第一、今度はこのあたしが随行するんですし、何も問題などないはずです。」
「 自分独りではではちょっと荷が重いって言ってたのはおまえだぞ。」
「 今夜北の大門を抜けるのはちょっと骨だって言ったんです。ガルデンジーブスなんて問題じゃありませんわ。」
胸を張るテュスラを男は疑わしそうに見上げた。褐色のヒトリ蛾が突然舞い込み、女の頭上を掠めてランプの笠にぴたりととまる。虫どもの合唱は波のように大きくうねっている。
「 まあ、いいさ、しかし、僕としては奴をそれほど甘く見ることはできんね。」
「 甘いといえばですね、お砂糖がでていませんね、庭男さん、どうせあたしにお給仕させるつもりだったんでしょ、あの馬鹿でっかいお砂糖壷はどこに隠したの? どーせ後で自分ひとりで齧るつもりだったんでしょ、早く出しなさいよ、いいわ、いいわ、自分で捜すから、全くもう、そんな露骨に嫌な顔しなくってもいいでしょうに、」
庭男の後ろの壁際には随分場違いに立派な、背の低い、黒檀製の食器箪笥が鎮座していたが〔この部屋の中では家具らしい家具といえばこれだけだった〕、黒衣の侍女はその前に座り込み何やらガチャガチャやりだしたのである。一番上段の鍵付き戸棚を大した苦労もせずにすんなり開けてしまうと小さな歓声とともに一抱えほどもありそうな巨大な素焼きの壷を引っぱり出してきた。中にはひき割りされ大小様々な形になった石砂糖の塊がぎっしり詰まっている。テュスラは洗面器にもなりそうな大型ボウルも取り出してテーブルの真ん中に置きその上へ壷の中身を惜しげもなく移しかえた。庭男は全く身じろぎもせず、ひどく悲しげな面持ちでその様子を眺めていたが別に怒り出しはしなかった。いや、一瞬だけ、その黄蝋臭い、血の気の失せた、皺だらけの額に怒りの色が浮かんだがそれもすぐに消えた。侍女はもう三分の一ほどしか残っていない砂糖壷に蓋をし、元通り戸棚にしまいこんでからポットをとり、炉の上で既に煮えくり返っていた湯を移した。そこで漂い出した香りは、あらゆる薔薇の精髄とでもいうべきもので決して単一のものではなく、又、外の薔薇園を支配している四種の特別種─即ち、グリム・ガスタム、ドラ・エムスタード、ムジュル・アガドゥニア、マーモ・アルキクラペー─だけが混合されている訳でもなさそうであった。
「 相変わらずいい香り、」
テュスラはほんの少し腰をかがめて立ちいささか満足げに小鼻をうごめかした。
「 では、お茶の時間にいたしましょう。但し、」
と、いかにも鹿爪らしく、しかも余計なことは百も承知してますわという高慢ちきな顔付きで付け加えた。
「 時間が時間ですし、おまけに場所が場所ですから、八釜しい行儀作法は抜きということになりますね。世間には随分お上品なお茶会もたくさんあるというのに一寸悲しいことですわね、ほら、イヨルカ、先に鼻面を突っ込むんじゃないの! あんたのお目当てはこのお砂糖でしょ。ええ、違うの? だってあんた、こんなお茶碗でお茶を飲むわけにはいかんでしょうに、ちょっとお待ちなさいな。」
テーブルの上はかなりごたごたしていたがテュスラが動き出すとすぐにさっぱりと整頓されたので、さきほどからすこし悲しげな顔付きだった庭男の口元にもうっすらと微笑めいたものが浮かび始めた。しかし腕組みをしたなり相変わらず黙りこくっているので陰気臭いことはこの上ないのである。
「 さあ、どうぞ、あら、でもまともな茶碗がひとつもないのね、相変わらずカイアスも全然気が利かないんだから!」
三人の前に置かれた茶碗はどれもこれも出所を異にするらしく大きさも形もまちまちで縁が欠け、罅が入り、或いは鍍金が剥げ落ちなどして完全なものは一つも無かった。但しロンゲヘランや東の城壁市場等で買えるような庶民的な代物では勿論ないのである。黒衣の侍女はぶつぶつ文句は言ったが結局大して頓着する風でもなく至極優雅な手付きで茶を注ぎ分けた。
「 では、頂くとしよう、すこし冷えこんできたから丁度いいな。」
三人は黙ったまま茶を啜り、驢馬はテュスラに分けて貰った砂糖の塊を齧った。庭男はすぐに二杯目を自分で注ぎ今度は大量の砂糖をカップに放り込んだ。そしてそれだけでは足らず受け皿を外してその上にも割り砂糖を山のように盛り上げた。侍女は見て見ぬ振りをしていた。
「 さて、お腹も大分暖まったから本題に入ることにしよう。さっきイヨルカの言い当てたように ─ いや、実に鋭い ― また少し旅に出ねばならん、おーい、ロバ公、どこへ行くんだ? 」
驢馬はくるりと向きを変え厩舎の方へ戻ろうとしていた。長い尻尾を不機嫌そうに振り回している。
「 どこへも行きはせん、ちょっと喉が渇いただけだ、すぐ戻る。」
驢馬の動きとともにコオロギどもの全合奏の位相も変化したがそれは酷く人間的な変調であり実際管弦楽的な移調までをも含んでいた。それは本来ありえない感情線の変動をひどく隠微な形で露呈しているように聞こえたのでヨナルクはいささか眉を顰めた。驢馬は飼葉桶と対になった小さな水槽からたっぷり飲みすぐに戻ってきた。
「 おまえがいないと話が始まらん、まあ機嫌を直して聞け、」
テュスラはごくお上品に砂糖を齧りながら時々お茶を何か不味い薬湯でも飲み下すような妙に味気なさそうな顔付きで啜っていたがまんざらでも無さそうであった。ただ絶対の主であるヨナルクと同僚であるロバを等分に見比べる時には何とはなし些か誇らしげな、否、何かひどくもったいぶった高慢な微笑がその口元に閃いた。
「 今夜、生まれたのが誰なのか、もう知っているな、」
修道僧は続けた。
「 その子を連れて旅に出ねばならん、要するに、単なる、法律上の、否、習慣上の問題である訳だ、」
「 話がよくわからんな、」
ロバは糞真面目に答える。
「 その生まれた子供というのは、要するに、アズレインの弟妹だな、どういう法律上の問題があるのか、それはワシにとっては問題ではない、だがどんな問題があろうと生れたばかりの赤ん坊を遺棄するなんぞということは、そんな仕事のためにワシの背中が使われるということは我慢ならんのだ、アズレイン一人でもう十分だ、」
「 妙な言葉遣いだぞ、イヨルカ、今夜はどうもおかしい・・・」
ヨナルクは些か珍しいことだが、幾分あやふやな口調で呟いた。〔既にして自信がない〕
「 それに誰も赤ん坊を遺棄するなんぞとは言ってない。」
イヨルカはまるで頭の中が痒くてたまらんとでもいう風に無茶苦茶に、その巨大な頭を振り回した。風が起こりランプが揺れる。上を見たテュスラが微かに舌を鳴らした。主たるヨナルクもそれを見た。
この時、既に、この小さなランプの笠は五倍の大きさに膨れ上がり吊り金具から外れてゆっくりと垂れ下がり始めていた。薄焼きパンに似たその円盤には何やら道化めいた、妙な具合にひん曲がった微笑を浮かべた巨大な顔が浮かび出ており全くの無言無音のまま刻々とその表情を変えてゆく。やがてその顔はいかにも心外なという目付きで、しかもいかにもわざとらしくという風情で重力の誘惑に屈し始め、徐々に上下に引き延ばされ終には一本の紐のようになって真下の日月箱の上に落ちかかった。
「 待て、ダリマン、触れてはいかん。」
しかし、主の制止にもかかわらず紐は箱にくっつき、あっという間にとぐろを巻いてさも心地よげに落ち着いてしまう。次の瞬間には再び円盤状の間延びした顔に戻り、まるで屈託のない虚ろで巨大な目玉を左右に動かして主たる修道僧と朋輩たるロバ公を見較べた。
「 遺棄しない! となれば選択肢はただ一つしか残らんな! 」
日月箱の上で、ほとんど実体のない妙な窪みだけの口がはくはくと動いたが、その発音と薄い唇の動きとの間には微妙なずれがあり、いかにも胡散臭いのであった。ヨナルクは誰にも気付かれないと思われるほどだが微かに目を細めた。ロバは再び不機嫌そうに首を振った。
「 言ってみろ、ワシには想像できん。」
「 簡単だろ、鈍いロバ君、単純な引算だ、」
「 わからん、」
「 しょーのないやつだな、答はほら、そこにある、そう、今庭男が出してくれる。」
当の庭男はランプの笠とロバが対話を始めた瞬間からすぐに席を立ち、部屋の隅に山のように積み上げられた埃まみれの園芸道具類をさっさとずらし、床土を拭って半ば朽ちかけた木の扉を開けようとしていた。その小さな穴蔵から取り出されたのは幾重にも油紙にくるまれた細長い包みで一見して剣箱であると知れた。庭男はいかにも面倒臭げに包みをほどきその古風な箱を日月箱の横に並べた。そしてこれ以上は触れたくはないという顔つきで曖昧に手を振った。テュスラがすぐにひきとり、手を清めてから掛け金を外し、中に収められた真に貴重な遺物を取り出した。
「 やはりそうか、何年振りかな、ふん、血腥いことだ、しかし、よりによってこれを使うということは、余程の決意があるということだな、」
「 もちろん、これは純粋に法律的な問題なのだ、ただ、ゼノワ様は王家の慣習法─ズーライ法典との抵触だけを問題にされている訳ではない・・・」
ヨナルクはわざとのように体の向きを変え、月が、何かいかがわしげな角度で無遠慮に覗き込んでいる小さな窓へと顔を向ける。その視界の端では祭壇たる日月箱の前に捧げ置かれた一振りの長剣・・・銀青色に輝いてはいるが深淵から引き上げられ即死した死魚のように徐々にその美しい色味を失いつつある・・・が、全く異質な音楽のように鳴り響き、その響きは小屋の内外に鳴りどよむ虫どもの全力合奏に対して絶対的な不協和音を提示している如くである。但し、窓外の視野の外れには同じ月光を浴びた一本の林檎の老木が見える。私は或る日、そこに繋がれた老いぼれたロバが、一人の魔法使いと突飛な契約を交わすのを見た。ある春の日、蜜蜂どもと陽炎だけがその証人だったのだ。〔この一本の林檎の木が問題となることがある。或いは、あの邪悪の木が・・・〕
否、ヨナルクは完全に剣を見つめていた。その波長は、この途方もない外法道士の内奥のそれと完全に一致していた。しかし、事物の外見は全て虚妄であり、発言は全て虚言である。私はそれを知っていた。
「 そう、言外の仰せではあくまでも秘密裏に、極密やかに葬り奉り、一切の痕跡を残さぬことが・・・」
「 ゼノワらしくもない、それに何の根拠もない、承服できんな、」
ロバは疑わしげに首を振った。
「 ではこうしよう、今から箱の封印だけを解き、この子を見せる、」
「 ふん、無意味だな、」
「 いや、色々な意味があるのだ、特に今、ここで、ということには、だ。」
ヨナルクは立ち上がり吹き抜けの天井を見上げた。いつの間にかランプの笠は元の姿に戻りその縁にはまたもや小さな、茶褐色の火取蛾がつつましくとまっている。そして小屋の屋根の上では小鳥が一羽さきほどから歌っていた。季節はずれのテンニンウグイスだった。その異様に低く単調な調べは、しかし執拗に全く同じ旋律を繰り返していた。それは子守唄のようでもあった。イヨルカはこの時自分の後ろの影の中に一人の女が佇んでいることに気付いた。女は大きく胸をはだけその素肌の上に長い茨を鞠のように丸めてできた小さな人形を抱きしめている。豊かな乳房は深く傷つき血を流していた。女も何か口の中で幽かに唄っているようだった。
日月箱は横たわり祭壇側の扉が開かれていた。青く華やかな月光が差し込んでいた。赤ん坊はまるで子猫のように小さく丸く、ほとんどまだ子宮の中で浮かんでいるかのように身を縮こめていた。赤褐色の薄いもしゃもしゃした髪はあまり美しくない。広い額には三本の深い皺がある。左目のあるべき場所には緑色の変哲もない眼帯がかけられている。呼吸の気配すらほとんどなく、その眠りは底なしの井戸のように深い。
「 そうだ、これこそアズレインの妹だ、そして例によって名無しのままだ・・・ 」
ヨナルクは左手を伸ばし赤子の頭の上にかざした。その掌は微かに震えているのだが、これは誰にも分からない・・・ または、ある図形を描いたのだとも見えた。
「 そして、今、またここで、誰にも知られず、密やかに、確かに、全くの越権行為ではあるのだが、そう、我が力能の影の名の下に、命名する、ワルトランディスの第二王女、その血統から否認されてはいるが、わたし、ヨナルクが名付ける、ガッダ・アトゥーラ・ワルトランディス、この娘こそ第一王女アズレインの妹であり、王位継承権第二位をその命とともに永遠に保つ、証人は、我が下僕、テュスラ、ダリマン、ウーシャ、リュフォビア、そしてロデロンのイヨルカ、及び、ロデロンの庭師頭ガーズである、さて、」
緑衣の外法道士は今度は右手を伸ばし何かを断ち切るような仕草をした。
「 わたしがゼノワ・ワルトランディスから受けた仕事はただ一つ、この世から、この子の王位継承権者としての存在の痕跡を消し去ること、これのみである、その方法は、わたしに任されている、何か意見があるのか、イヨルカ? 」
ロバは主の右手を押しのけるようにして暫し覗き込んだ後、まるで自分でも訳がわからないとでも言う風に、二歩三歩よろめき後退りした。四つの足がてんでんばらばらに、妙に不確かな動きをするのである。
「 わしにはわからん、」
ロバはあやふやに答えた。
「 この子は・・・ アズレインに比べてもとても小さいし、ひ弱そうだ、とても長生きできるとは思えない、わしには・・・ わからん・・・ 」
ロバの背後の影に同化していた女の影がすぅっと床の上を伸び、作業台の足に届いた。木の足はそのまま微動もせずに一本の蔓薔薇の茎に変わりたちまちアカグロイ若々しい芽を吹いた。その中から一本の蔓がゆっくりと伸び上がり台の上、赤子の頭の上に優雅なアーチをかける。緑色の翳りが赤ん坊を蔽い、それはすぐにひどく華奢で、繊細な女の右手へと変化した。手はおずおずと空間をまさぐり、なぞり、探ったが赤子の額へあと僅か数セカントのところでピクリとし、凍りついたように停止する。
「 この子は、」
ヨナルクは微笑した。
「 ここの主たちにも好かれているようだな、来ているのは誰だ? アガドゥニアかな? 」
庭師は自分に向けられた視線には応えずまだ砂糖の塊を口の中でガリガリやりながら肩を竦めた。ただすこし呆れた風に、茶碗を持ったままの左手を伸ばし作業台の下を指差した。いつの間にかテーブルの四つの足は全て蔓薔薇の茎に変化していたし、その錯綜し複合した強靭な腕の隙間には様々な虫どもの代表者が所狭しと息を潜めていた。やがてその代表者の代表が進み出た。悪夢のように巨大なムカデである。
「 おや、なんだ、みんな揃っているのか、それに、シド・レク、御前までもやって来るとはなんだか仰々しいな、」
百足の王はするりと台上に上がるとまるで自分の卵塊を抱くようにぐるりと日月箱に巻き付いてしまう。無数の脚が緩やかに波打つように顫動しそれはこの種族にとって何よりも大切なものへの愛撫なのである。巨大な体節の一つ一つは香ばしい油を塗り篭められたようにヌラヌラと光り、しかしそれはいかなる攻撃をも跳ね返す装甲板、無敵の盾でもあった。
「 おまえたちの決意のほどはなるほどよくわかる、リュフォビアの結界を突破し、ここにいるテュスラをも恐れない、ああ、それにしても月の光が怪しいな、ひどく青い、だが、おまえたちの期待に応えることができるとは思えんな。」
今や四本になった緑の薔薇の手が優しく日月箱の上でそよいでいる。もはや愛撫を諦め、しかしいかにも立ち去り難い風情ではある。四つの掌が、その大きさも形も恐らくは個々の固有の能力さえも明らかに相違しているはずなのであるが、まるで仲のよい四匹の兄弟姉妹の魚のように旋回し翻りお互いの後につき合い、時々じゃれあっては銀色の鱗を閃かす、それは愉しい見物ではあったがヨナルクはすぐにその意図に気付いたらしかった。その行動は早すぎもせず遅すぎもしなかった。シド・レクが密やかに押さえていた宝剣をするりと抜き放つと台上の空間数スパンにほんの一瞬銀青色の閃光が煌めいた。次の瞬間、踊り狂っていた魚たちの影は消え、緑の手も消え失せた。百足の王は三つに切断され床下へと転がり落ちていった。
「 大分手が込んで来たな、アズレインの時とはひどく違うようだ 」
テュスラは例によって既に箒を手にしていたが台下を覗き込んでいささか吃驚したようだった。
「 おや、まあ、影も形もないのね。」
この時イヨルカは振り返り厩舎の裏戸を幽かに、ひどく遠慮がちに引っ掻くような物音に気を取られていた。虫どもの合奏は突然通奏低音にまで低まり鳥は歌いやめていた。微かな風がゆっくりと小屋全体を巻いて通った。
「 誰か来た!? 」
今度は確実にノックの音だった。
「 どうぞ、お入んなさい、」
黒衣の侍女が間髪を入れず、ひどく甲高い声で応えたが返事もなく再び微かな、しかし何とはなしいささか強情そうな響きのノックの音がもう一度続く。
「 いいから、お入んなさい!」
業を煮やした侍女が箒を手にしたまま空っぽの厩舎を横切り戸口の前に立つとそっと扉が開かれる。