第1巻第2部第1節の続きその7 「手術終り 続きその1 手と目 麻酔 蜂が蜂を追跡中」
「おおっと、」
今や薔薇色に甦った爪先が軽く、鋭く、
鈍い青灰色の顎髭の尖端を、薙ぐように進む。
男はしかしやや緩慢な動作で余裕をもって仰け反りそれをかわす、
切り返しよろしく飛び返ってきた踵が男の頬をかすめようとするが頂点での失速を逃さず難なくその足首を捕まえる。目の前にきた皺だらけの足裏を一瞬で検分した男はこびりついている苔の欠片をちょいちょいとこそげてやる。
「こそばいっ!!」
小娘は声を荒げた。
「お目覚めかな、お姫さん?」
「離して!」
「そっちこそ、もちっと温和しくしてくれんとな、」
「痛い、痛い、骨が折れる!」
「折れはせん、ふん、絶対に無理じゃ、そんなことより、ほれ、またパンツが丸見えじゃ、」
小娘はさらにおかまいなく左足をも蹴り上げる。が、結果は同じで結局両足首を拘束され
(ひっつかまれ)たまま逆さ吊りの干し魚よろしく宙ぶらりんとなる。男は、骨としての、座高とて(今さらだが)異様に丈高いのである。
傘のお化けよろしく見事に裏返ったスカートはしかし丁寧に補修されており新しく施された荒々しい刺繍の跡が不思議で残酷なギザギザ図形を描き出しつつ所々にくっきりとわかるのがおもしろい。
「く、苦し、」
ほとんど顔の隠れた娘は腰を捩りイヤイヤをする芋虫のように暴れるが空中ではどう・しよう・も・ない。両手が大地を掴もうと旋回する。が、疎らな青草の尖端にすら届かない。
「な、なに、これ、手が、左の、」
「そういうことじゃ、」
男はそのまま娘を横たえた。娘は裏返しのスカートの乱れた裾から喘ぐ魚のように顔をのたくり出す。まず目に入るのは綺麗に整った10枚の爪先だが、ギザギザも割れ目も既に無く、足指はほっそりと優雅に長く、ネモーウィンカワカマスの稚魚の、
儚くもろい白銀色で、ぴっちりすっきり整列し、
心地よい、ある(淫らな)波形をその薄桃色の爪板で奏でつつ
ほぼお行儀もよく、お並びしているようでもある。
(ちょっと見惚れてしまった娘は気を取り直し・・・)
両膝を引き付ける。
左膝に狼の小さな歯形。しかしそれは、安全証明の刻印※のようで少しも痛みがない。
<※このバスポラの刻印についてのみ、考証を究めようとした本すら存在する>
肉の落ちた痩せた太腿にも傷一つ見えず痣もシミ痕もまるで無い。
娘は慌ててスカートを引き下ろす。そして左右の手が同じ場所にまで届いていることを知る。
「手がある・・・」
「そう、それでいい、」
「魔法なの?」
「いや、ただのシジュツじゃ、」
「シ? シジュ?」
「手術、すまん、マチゴウタ、シュ、ジュ、ツ、手術というものじゃ、」
「だ、代償は?」
小娘の眉間に酷い縦皺が刻まれる。
「いや、特に要らん、」
「ただなの?」
「そう、ただじゃ、一文も要らん、」
「タダ・・・ 」
小娘は呟く。
「タダとは・・・ アレだ・・・
もちろん・・・ 完っっ璧に胡散臭い(アブナイヤツダ)!」
「さっき言ったじゃろ、わしは商売人ではない、作るのが専門じゃ、」
「タダほどコワイモンはないって格言を知らないの?」
「そんな格言誰が作ったんじゃ、」
小娘は少し呆れたような、いやほんの少し憐れみの混じったような微妙な目付きで男を見上げた。蒼白だった頬に微かな赤味が差す。
「そんなこと、誰でも知ってるわ、みんな言ってるもの、」
「ほうう、」
男は眉を上げ肩をそびやかした。
「みんなって誰じゃ?」
「ギドン、エイブ、それに姉様も、」
「まあ、間違いではないな、」
「怪しすぎるわ・・・」
「それよりアトゥーラ、」
「うん、うう、あ、い、」
「どうした?」
「い、痛い、」
「どこがじゃ、」
娘は苔の褥の上にきっちりと座り直す。スカートを丁寧に叩き直し、膝裏に折り敷き、皺だらけの足の裏を重ねて小さな尻の下に敷く。右手が荒々しく燃える赤髪を掻き上げる。武骨なほど、隆々と盛り上がった額が、ブナの若芽越しの柔らかな光に照り映える。ついさっき、ダヌンの本体に(なかば焼糞で)擦り付けてきた、捨て鉢気分な傷跡は綺麗に跡形も無い。
「手と、目、」
「ほう、ちょっと早いな、いや、だいぶんと早い、」
男は、丁度顔の横にフラフラと飛んできた黄色い蜜蜂を捕まえると注射器よろしく器用に持ちかえる。(その指先の動きは、あの妖しい(イヤラシイ)アラクネードたちの、欺瞞に満ちた、偽りの器用さ、いつのまにやら哀れな獲物をガンジガラメの手籠めにする、目も眩むような素早さと完全な無音で展開し収束する、あの魔術的な動きに似る)
そしてなにやら呟きつつその鋭い針先をアトゥーラの左のこめかみにツイと当てる。手首を奇妙に閃かすと、蜜蜂の針は、奇っ怪にも何の抵抗も無くするりと抜け出てしまう。
蜂は顔を真っ赤にし、
「まあ、失礼な! なんてハシタナイ! 酷すぎるわ! 酷すぎるわ!」
声高に抗議の声を上げつつ急激に速度を上げ飛んでいってしまう。
「女王様に報告・・・ 訴訟問題よ、これは・・・ エ、エロウゥゥゥ・・・ ゥゥゥ・・・ ゥゥ ・・・ 」
捨てぜりふが風に乗り切れ切れに聞こえるがすぐに見えなくなった。
「目が、目の奥が痛い、いた、あれ、もう痛くない、」
「手の方はどうじゃ、」
「痛くない、痛くないけど、なんか骨の中がグジャグジャウニャウニャしてて気持ち悪い、」
「ふむ、だいぶ相性がいいようじゃの、三日もすれば歌い出す、それまでの辛抱じゃ、」
「痛いのはイヤ!」
「じゃあ、もう一本打っとこう、」
全く同じ軌道で、まるでさきほどの蜜蜂を追ってきたという風情で、いささか洗い洒落た(洗い晒す、という意味の、これは方言らしい)感じに粋な鎧の着こなしで、一匹の大雀蜂が、やはり幾分フラフラと通りかかる。男は、ペン皿の上のペンを、何の気なしにつまみ上げる仕草で蜂の膨らんだお腹を握りこんでしまう。
「クソっ! あの女、今度という今度は、ええい、お、おおっ?!」
「ちょっと借りるぞ、男勝りの門番殿、」
今度の針は返しが無いので特に複雑な動きは要らず一瞬で済んでしまう。アトゥーラは手首の下に出来た小さな赤い斑点をシケシケと眺めている。
「どうじゃ、」
「チクって痛かったけどもうなんともない、でもこの赤いポッチリは何となくイヤ、」
「おい、いい加減放せ、まったく!なんてこった!見失っちまった、まったく、なんて、」
「さっきの女の子を追いかけてるの?」
「な、なんだ、キサン、あ! あああああ、ああ、例の、アレか、いや、そんなことより、クソっ! あの女!」
男は既に手を離し解放していたのだが大雀蜂は同位飛行のまま沈思黙考の態である。
「イヤ、そんなはずはない、アレが素直に、俺の言うことに、ああ、なんてこった!」
しかし蜂の呟きはアトゥーラには聞き取れなかった。それほどその強力な羽音は辺りを圧して響き渡っていたのである。
「なあ、おい、そこな姉さんよ、」
ドナドナはまた、ひどく馴れ馴れしく話しかける。
「ム、オオ、まだなんか用か、」
「さっきの別嬪の嬢ちゃんを追っかけてるんだろ、」
「ふん、ほっといてくれ!」
「もう一発つけてくれるんならさっきの子の行き先を教えてやってもいいぞ、」
「聞き捨てならんな、」
蜂は滑らかに旋回し男の鼻先に向き直る。黄金と黒鉄の装甲板が擦れ合い、沈んだ、燻んだ色合いの響きを立てる。アトゥーラの目線は重なり合った鎧の縁の、なまめかしくも微妙な動きに釘付けだったから凶悪な羽音のヴェールの向うでもその幽かなさやぎ(差動音)を完璧に聞き分けることができる。
「あんたらの痴話喧嘩に興味はないが、」
男の青い帽子がクルリと旋回するように傾く。
「まさか、あの子を刺し殺すつもりじゃあないだろ、」
「ふぅ、刺し殺されてるのはこっちの方だと言う・・・ が、 (アレがXXを欲しがるのは・・・ そも・・・ )」
巨大な雀蜂は大顎をカチリと鳴らす。耳障りな羽音が幾分しょぼたれた感じに弱くなり、また強くなる。
「情報があるなら聞こう、ただし、ガセだったら」
沈みこんだ調子はそのままに脅迫めいた蠕動がなまめかしい腹の尖端にまで震えて走る。覗き出た針の先に煌めく致命の一滴。
〔この種族の特徴として、おのが感情の高低深浅、真偽の如何にかかわらず常に滑らかに、何の滞りもなく高度な戦闘態勢へと即座に移行することができる〕
「いますぐ、ここで、この子を刺し殺す、」
「なんと! 物騒な話じゃの!」(いやに軽い調子)
「いいわよ、早く!刺して!殺して!」(とても真剣)
「こらこら、」
「今、なんと!?」
「早く、刺して!」
「ちょっと待て、ガセかどうか確かめてからと言っとろーが、」
「そんな待てない、今すぐやって! 早く!」
「なにをいっとるんだ、コイツ、ワケわからんぞ、そんなことより、はやく言え、聞けばすぐわかる話だ、だいたい、あたりはつけてあるんだ、ここらのミツバチどものヤサは全部頭に入っとるんだ、デタラメを抜かせばすぐわかるぞ。」
「わかっとる、わかっとる、焦るでない、さっきの嬢ちゃん、アレでなかなかの有名人じゃ、現女王ユーサリパンの側近中の側近、女官長補佐の凄腕じゃの、まだ若いのに大したもんじゃ、」
煌めく毒液が一滴、音も無く落ちる。
「続けろ、」
「メノンの谷筋の冥王楠の南から3本目、」
「ぐ、うぅむ、」
「その北側の大岩の下に、」
「その下・・・ 」
「そこにグレオファーンが住んどる、」
「グ、グレオファーン、そ、そいつは、その名は、」
「聞き覚えがあるのかな、ここらでは、そう、思索派の連中の中ではかなりの有名人じゃ、」
「ぬぅーむ、」
アトゥーラには、平静を装う雀蜂が、いや、その兵装の一部の隙も無く、かつ完璧な無表情のいかにも手慣れた貼り付けにもかかわらず、なぜか酷く興奮し、赤面しているようにも感じられる。凶悪に威嚇的な羽音がそのままに、半ば凍りついてでもいるかのような、奇妙に居心地の悪い、宙吊りの感覚・・・
「たいていは、満月の晩、その前後、3日くらいの幅はあるがの、あの子はグレオファーンに会いに行くんじゃ、そして、一晩中話し込む、」
「一晩中・・・ 」
「そして明け方、まだ暗闇の中を帰って行く、」
「帰って行く・・・ 」
「間違いのない話じゃ、」
「一晩中・・・ まだ暗い・・・ 」
「あなた、信じないの? 信じない? なら早くやって! あたしを完全に殺して! それともその針はカザ」
「八釜しいぞ! お望みならすぐにくれてやる!」
ドナドナの咄嗟に打ち叩く両の手を掻い潜り蜂はアトゥーラの首筋に取りついた。そしてその長い生涯のうちに何万回となく繰り返しただの一度たりとも失敗の無い中枢神経叢への一撃を完璧な手順で遂行する。が、驚くべし、練達の針は跳ね返され、さらに信じ難いことに尖端中央部に断裂が生じてしまう。これではもう使い物にならない。しかし、兵士としてのジーナ・フォゾミナの動きにいささかも遅滞はなく予定調和のように滑らかな針の格納と大顎による連続攻撃の開始はほぼ同時だった。盆の窪の中央やや下よりに、その巨大な頭部を真下に向け、強固な鋼鉄のかすがいのように取りついたこの
雌蜂は、強力な咀嚼器による擬似回転運動、目も眩むような連撃を、恰かも永遠の相の下にあるが如く、しかし、なぜか幽霊めく朧気な気配をさえも纏いつつ、完璧に、無心めく、無窮の趣きで作動させ続ける。
微かなうぶ毛のそれもごく一部のみが花のように舞い散るようだ。
けれども薄皮1枚傷つけることはできない。
「ひゃうぅ! なんかこそばい!」
小娘の右手が首筋をピシャリとやる。蜂はヒラリとかわし瞬時に回り込んで眉間真正面に肉薄する。針が開き毒液が飛ぶ。
「あともう少しでアプ予定でございます」などと、どの口がほざきやがったのでございましょうか? ・・・ あれは、たしか、5月18日・・・
「予定は未定」これ、ワタクシの好きなことばでございます。
が、どいったことでも、度が過ぎますと、イヤミとなり、顰蹙を買い、
とどのつまりが、最愛の肉親にまで尻を蹴飛ばされる仕儀と相成りますです、はい、
で、結局、今ははや、6月21日、つまり夏至であります。いえ、もう、正確には、
22日でございます。一年の頂点は過ぎ去ってしまったのであります。あとはコロコロー、ごろごろー、と下降あるのみというテイタラク・・・
ワタクシ、学生時代(遠い目)、お昼ご飯のおべんとタイムが終わるとテンションだだ下がりで、あとは半日死んでたも同じという・・・ ああ、いえ、すみません、
しかも、実のところ、今日までかかってやっと予定の三分の一足らずを訳し終えたというのが本当のところ、誠にお恥ずかしく、情けない限りでございます。
そんなことより、内容だ!なんだ、これ、全然話が進んどらんではないか、と横で例の最愛(サイキョウ?)のアネが吠えております。
イヤ、それはネ、あたしにではなくネ、シャリーさんに言ったんさい、と申しましたら、
また、尻ったぷを蹴飛ばされました。お察しください。
どうかどうかお見捨てなきよう、よろしくお願い申し上げます。




