第1巻第1部第5節 「庭師の作業小屋 シャリー・ビョルバムとイヨルカ」
*
庭男が残していった小さな黄色いランプがぼやけた光の暈を作り、丁度その外側に立った灰色驢馬は半身だけを薄闇に紛らせて仄かな紫色を帯びている。何時も潤んでいるような大きな眸にランプの火屋が映っているがそこに時々微かな青光がちらつくのは誰のせいでもない、秋のセレン虫が凡そ自死の観念なく歓喜に満ちて炎の中へと飛び込んでゆくからである。そのコバルト色の金属片に似た微小な甲虫が一瞬に燃え尽きる幽かな音は、小さなランプの芯が油を吸い上げ、昇華させ、熱と光に分散させる永遠の和音にほんの僅かなブレーキをかけ、或いは神秘的なノックを加えて響かせるようだ。
コオロギどもの全力合奏はこの時、よくあることだが、不意に一斉に中断していて、辺りは静寂に満ちていた。イヨルカの巨大な耳はじっと動かず、何かを待ち受けている。しかしそれはすぐにやって来て微かな引っ掻き音とともにさっと空中を横切り、驢馬の頭の陰になった一本の柱に取り付いた。小さい塩コオロギが、黒光りのする丸い頭を下にしてとまっている。体長の倍はある長い触角をゆるゆると振り動かしているのはしかし、別に何かを警戒している訳ではないのであった。驢馬はゆっくり頭を動かした。その長耳をぴんと立てたまま実にゆったりと動かした。影がすべって行き、黄色いランプの光が完全に黒いコオロギを照らし出す。コオロギは右の触角一本だけを垂直に立て直し、賛意を表明する。
─ 実に怪しからんな、シャリー・ビョルバム! こそ泥! 盗み聞き!しかも命知らずにも程がある。テュスラを甘く見てたら酷い目に会うぞ。あんなにゼノワの玉座に近付いてとっつかまってもワシには庇ってやれんからな。─
コオロギは触角を二本ともぴんと立てた。それから強力な跳躍用後脚をすいと伸ばし再びゆっくりとひき付けた。どうやら、来るなら来いというジェスチュアらしい。イヨルカは呆れた風に首を横に振り小さく鼻を鳴らす。
─ 妙な晩だな、みんな落着かない、ロデロン中が何か沸き返っているような、それともみんな尻に火がついているのかな。いや、違うな、今はほら、みな妙に黙りこくっている。騒いだりふさいだり、忙しいな。─〔驢馬やシャリー・ビョルバムが何故ともに興奮しなかったのか・・・〕
─ 我が友よ、 ─
シャリー・ビョルバムは荘重に始めた。
─ おまえさんがあのとほうも無い外法道士に仕えてもう何年になるかな? ─
─ もう忘れたな。─
─ わしはよく知ってるぞ、だが思い出したくないことは無理に思い出さずともよいし、又、その一部分だけを思い出すということもよくある話ではある。だが聞いてくれ、今夜、これから起こることは、いな、もう起こってしまったことでもあるが、おまえさんの運命を大分狂わす事になるだろう。─
─ ワシの運命なんぞ! ─
灰色驢馬は、妙な目付きで辺りを見回し口全体をひん曲げて笑った。
─ そう大して問題ではない。問題なのは常に全体なのだ。超越者たるあんたにはよく解っているはずだろ、─
─ わしはおまえさんのことが心配でたまらんのさ。部分が全体を超越することだってあるはずだからな。─
珍妙な会話は果てしなく続くようだったが突然途切れてしまう。聞き違えようのない足音が微かに、遠くから響いてきたのを二人は同時に感じることができたのだった。
─ 来たぞ、あの二人だ。─
─ わしも感じるぞ、二人だな、テュスラの方は妙に弾んでいるな、何時も何時もおかしな奴だが・・・ ─
─ 我が師の方はどうだい、ワシが知りたいのは今夜の我が師が一体何を考え何を計画されているのかってことさ、テュスラなんぞが何に浮かれてようと知ったこっちゃないぞ。─
─ 何か途方もないことだな、それにいつもより足取りが重い、妙だな、ひどく重い、しかも・・・いや、やめとこう、わしの六つの足先がびりびりする・・・ こんな振動は・・・ いやはや、さっぱり訳がわからんぞ・・・ ─
黒い塩コオロギは突然、弾かれた弦のように細かく震え出した。屈強な三対の足のアーチがその振動を生み出し保持するらしいが自分では止めることも制御することもできないようだ。
─ 大気も動く ─
塩コオロギは、右の方が少し短い2本の触角をゆっくりと、だが次第に激しく振り回し始める。奇妙なネジレまでも加わり、あたかも正負順逆の全領域を走査する光円錐の如き図形を空間に描き出す。
─ とにかく わしはちょいと失敬する、いつものところに隠れさせてもらうぞ、─
─ 我が師はともかくテュスラにも挨拶無しでいいのか? ─
─ 一向にかまわんさ、さあ、ほい、どっこいしょっと、だな、話の続きはゆっくり聞かせてもらうつもりだ、但し、うっかり口出しせんように気をつけんとな、全く! 厄介なものさ! ─
コオロギはひとっ跳びでロバの鬣の中に潜り込んだ。
─ おい、シャリー、そこは駄目だ、何時も言ってるだろ、耳の後ろはこそばゆいんだ、おとなしくしててくれよ。─
─ 何も問題はない、おとなしくしてるさ。─
灰色ロバは暫らくの間巨大な頭を右に振り左に振りしていたがやがてすっかり落ち着いてしまいじっとランプを凝視め始めた。この時突然ロデロン中のコオロギどもが再び全力合奏を始め、今やこの大地に潜む全ての地虫ども・・・バッタ族、ケラ族、ミミズ族、ムカデ族、などなど、伝統的な古楽器を持つ正統派は愚か、如何なる発声器も、耳すらも持たない連中の全てまでもが何らかの形でこの大合奏に加わっていた。その異様な音と気配の複合体は丁度大釜の底のようなロデロン自体から真っ直ぐ立ち昇る一本の巨大な狼煙のように秋の夜の澄明な大気の中へ拡散してゆくのだった。そしてそこに、さらに異質なエレメント、この大地の完璧な反照、夜毎の密そやかな訪問者が加わった。
─ 月が出た。─
─ しっ! ─
「 庭男が近くに居る筈ですわ、呼んできましょうか、ええ? あら、まあ、イヨルカ、なんてしょぼくれて、一体どうしたっていうの? 」
小屋の扉が開き、ランプが揺れ、影が揺れ、テュスラがするりと飛び込んでくるのとほとんど沸騰点に達した会話らしきものが小屋の中を満たすのとは全く同時だった。
「 それで、シャリー・ビョルバムはどこ? いるんでしょ、出てきなさいよ、あーぁ、まぁーったくやかましいわね、これの指揮をしてるのもやっぱりあいつなんでしょ、」
「 巫山戯た奴さ、全く。」
「 それで! あんたもこんなところで温和しくしているなんてどういう風の吹き回しなの、こんな月夜の晩に! おかしいじゃないの!」
「 ワシだってこんな狭苦しいところは御免なんだ、今日に限って庭男の奴がここで待ってろって言うんだな、一体何をって言うんだが、相も変わらず墓石のような奴さ! 」
扉が軋みヨナルクと当の庭男が連れ立って入ってきた。男は自分の下げてきた全反射式小型ランプを作業台の上に吊るし、戸板に掛かっていた方を外して小屋の奥、厩舎側の出入り口の上に掛けなおした。そうやって部屋内の影を追放してしまうと閉めきりになっていた窓を全部開け放し外気と月光とそれ以上に満を持していたらしい有象無象の虫どもを中へと導いた。無数の虫どもの無数の足が小屋の壁の上を引っ掻き、擦り、のたくって、或いは粘りついたがその密やかなかそけき音の全体は何故かある、秩序ある集合体と化し通常の耳には聞こえない奇怪な通奏低音となってコオロギどもの全合奏に対し何やらいっぱしのアンチテーゼを提示するのだった。こんなものを感知できる人間はいないはずであり、庭男には如何なる意図もなかったはずであるが結果的にはここに、奇っ怪至極な舞台が立ち上がったのである。そしてこれは私にだけ言えることであるが、刻々と角度を変える月光の波動と星光の波動、又それ以外のものの波動全てが複雑に絡み合い今ここみすぼらしい作業小屋の傷だらけの作業台の上にそっと置かれた、小さな木箱─日月箱の中心へと集中したのだった。