第1巻第2部第1節の続きその5 「ドナドナとアトゥーラ」
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青い帽子の男が木の枝に襤褸切れのように引っ掛かった小娘を見つけた時、大地の光の角度からすると丁度正午ころであった。様々な気配が四辺に、押し包むように満ちていたが何ということはできなかった。それらは姿を見せず、声も出さず、
ただ注目している風であった。ただし、幾分か、ある遠慮のような風情が、また、それよりも遥かに強力で絶対的な畏れが、あらゆる行動を、とくに抜け駆けなどという重罪を規制しているようだった。
男は林の中に開けた小さな空地に小娘の身体を運び横たえた。日の光が真直ぐに射し込み血と泥にまみれた額を照らしている。自然に掻き揚げられた赤髪はもう何も隠す気がないのか、虚ろな眼窩の痛ましい惨状を男の目の下に晒した。男は訝しげな溜息を吐いた。
「 この真昼の光と、あらゆる獣どもの沈黙が、
永遠であるように・・・ いや・・・ だが、しかし・・・ 」
男は目を細めた。大地の底深い轟きと真昼の月の共振が微かに感じられる。青い帽子の男は、無意識の動作で己が懐をまさぐっている。
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それは蝙蝠ブナの若い林で、まだそれほどしっかりと大地に根付いているわけではない、ある種の不安を湛えながら、ただ一心に大気と水の流れに耳を澄ましている、そんな風情であったけれども、ここダヌン大絶壁の直下では暴風雨に対する気紛れな間接的庇護下にありながらその成長は不可思議な抑制下にあった。(あまりに大地が痩せているせいもある・・・)
その割れ目、偶然のように穿たれた小さな穴は天空を見つめ返す大地のもう一つの眸といってもよかった。その底にアトゥーラは横たわっていた。
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ほのかな饐えた匂いが、かすかな、黒い、鉄の香りがする。頭を動かすと何かが脆く砕ける音。〔脆く、脆く、朽えた、錆泥岩の板の堆積〕
見るからに柔らかい旨そうな短い草が、名もわからず、そんなことを気にもせず、ひそやかに大気のそよぎを探っている。それは、大地そのものの尖兵なのだが誰もそのことに気付かないのである。アトゥーラはその草の名を呼び〔新しい名であろう〕そして微笑んだ。すると、全身の痛みが再び身体を打った。神経が燃え上がり、関節が悲鳴を上げる。
もう、わたしは死んだはずなのに、なぜだろう、この大地はほんもののように感じるのはなぜだろう、日が限る? 暗い影が差してくる? そして声が聞こえた。
「 やあ、お目覚めかな、お姫さん、・・・ 」
薄黒い影が薄青い空の半分を隠すように蔽い、見下ろしている。明るい声だが、すがれた冬草のただ擦れ合う音のようでもある、なぜか間遠い声のようだ、身体は一セカントも動かない、
「 これこれ、無理に動くでない、」
声はすこしも命令口調ではなくやさしかったけれども、微かな、しかし犯しがたい威厳を伴っている。アトゥーラはしかし、無理やり起き上がろうとする。
「 これこれ、無茶はいかん、」
「 あなたは誰? 」
「 散歩をしておったら、お前が降ってきた、 」
「 散歩って何? 」
「 気晴らしにぶらぶら歩くことじゃ、 」
「 気晴らしって何? 」
「 目的がなく、頭をカラッポにして、ふらふらしておることじゃ、楽しいじゃろ、 」
アトゥーラは、しかし、不機嫌そうに眉根を寄せた。
「 ちょっと、そこをどいてほし、いえ、ど、どいてくださいまあせんか? 」
「 なぜじゃ、」
「 影が重いの、お日様はどこ? 空は? 」
男は半身を開いた。青緑色のマントーがゆるやかにひるがえり、青い帽子の広いつばがさっと輝いた。小娘は少しだけ頤を振り向けまだ陰になっている男の顔を見定めようとする。
「 まだお昼前じゃ、 ちょっと酒と肴を買いにでたつもりが、 ほれ、」
「 あたし、死ななかった、なぜ、あそこから落ちたのに、なぜ? 」
「 物事には、時というもんがあるからじゃ、 」
「 ときってなに? 」
「 運命のことじゃ、 」
「 あなたがあたしを助けたの? 」
「 いや、わしではない、運命、いな、強いて言えば、風どもかな、 」
「 あたしは死んだほうがよかったのに、風ども? 風どもってなに? 」
「 あのまま、素直に落ちておれば絶壁の中途にぶち当たって粉々になってたろうがの、」
(ま、それもアヤシイことじゃが・・・)
男は首を回しダヌンの頂を見上げた。その地獄のような、垂直の喉仏は、遥かな高みに、まだ影の中にありすこしも恐ろしげには見えない。
「 ひどいことを・・・ 」
小娘は不服そうな言葉を吐いたがその矛先は風の神にか青い帽子の男にか、どちらにもかかっているようにもみえた。
「 まだ、お昼前・・・ 」
「 そうじゃ、」
「 でも、あたしは、あたしは帰れない、どこへも、」
「 なぜじゃ、お前さん、この近くじゃろ、ここらで人家といえばサラザンところしかないがあそこの一人娘は片目ではなかったの、 」
「 あなたはだれ? 」
アトゥーラの声は微かに震えている。
「 お前さん、質問ばかりじゃな、まあええわ、こっちもちょっと訊こう、 」
男は尻に隠れていた合切袋から敷革(一体何の毛皮だろう)を取り出しアトゥーラの左側に敷いた。そうしてひょろ長い足をゆっくりと畳むようにして腰を下ろした。
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「 その前に、まず、ちゃんと直しとかんとの、ほれ、そっちの手を見せてみぃ、 」
アトゥーラは素直に手を出したが、眉間には酷い皺をよせている。震えが止まらないのはしかし痛みのせいばかりではない。
「 なるほどの、 」
男は隠しから青い手巾を引き出し血と泥に汚れた娘の手指を丁寧に拭ってゆく。擦傷だらけの額と顎、か細い首筋〔フニーンガラスが止まる小枝のように、このオオガラスが不意と脚を組みかえただけでポキリと折れそうな〕、左の肩先と左肘〔ひどい切り傷がある〕、うつ伏せにされ背中を点検する、男は背骨の真ん中あたりから食い込んでいたらしい小さな三角形の小石をつまみ出し一瞬指先で転がした後そっと懐にしまいこむ、アトゥーラはひどく柔らかな皮とも布地ともつかぬ青い手巾が生き物のように動くたびに痛みが霧のように消え清涼の気が、薄い皮膚と薄い脂肪の層を透過し骨の髄にまで達して小さな鈴のような鐘を爽やかに振り鳴らすのを聞く、痛みと熱が消えてゆくと今度は身体の芯の方から全く別の熱が・・・、
この大地の温もりと森そのものの暖かみが転位し浮かび上がってきたようなものなのだ、しかしすこしも寒くはない、ふと気がつくと身体の下には分厚いブナシダレ苔の塊が敷かれていた、ほどよく乾き、しなやかで、香ばしい匂いが全身を包む、娘は男が何やら微かに口の中で歌っているようなのに気付く、ブナの若芽の薄い薄い緑が空とぼけた半ばあきれたような戯れ歌を歌っているようにも聞こえる、その幽けさには、一種の艶かしささえ連れ添っているようだ、左右等しく傷だらけであった両膝もきれいに拭われ古磁器のような輝きを取り戻す、さっき臍石にぶつけたどす黒い痣も消えている、最後に鬼娘のようにささくれ割れ痛んでしまった足指の爪先がきれいに拭き清められる、はずであったが娘はひどくこそばゆいのが気に入らず激しく脚を蹴り上げて抵抗する、しかし男は難なくその両足首を捉えて押さえつけさっと一仕事を終える。
「 やれやれ、元気はよくなったが、足癖は悪いな、 」
男はずり落ちかけた青い帽子をかむり直す。黄金の鎖が歪んでいるのもちゃんと直す。
「 いや、悪すぎるな、ちょおっと手が足らんかもしれん、 」
アトゥーラの頬に微かに血色が戻っている、身を捩って暴れたのがきいたのか本当に上気しているようだ、と、全身がひと跳ね激しく跳ね上がる、〔ひどく年老いた魚が深更(深い夜のさなか)、狭い池の真央で月に向かって無闇に跳ね上がることがある〕男は手巾を畳みながらいささか眉を顰めた。
「 いま南中した、のかな、 」
小娘はようやく上半身を起こし初めて普通の角度で男を見た。というよりは少し見上げた。胡坐をかいていても男の顔の高さは小娘の倍以上の位置にあった。
「 せっかく助けてもらったんだけどあたしいかなくちゃ、 」
男は左の眉を吊り上げた。
「 どこへかな、 」
「 わからない、でも、いかなくちゃ、 」
「 サラザンのところへ帰るのかな、 」
アトゥーラはまだ恨みがましい目つきでダヌンの絶壁を仰ぎ見た。日が当りオレンジ色に輝いた喉仏が地獄の門のように虚空に向かって鳴り響いている。その上空では相変わらず風が渦巻いているのにここは春の微風の休憩所のような有様なのである。
「 まさか、このまま帰ったら殺されて・・・ ああ、それでもいいのかしらん・・・、 」
小娘は首を振りそれでも半ば無意識の動作で立ち上がろうとしたけれども先ほど酷使された両膝は上からの指令を拒否し思い思いの方向にばらけてしまう。しかし、そのまま腰は落ちはせず男の長い右腕に抱きとめられていた。
「 放して、 」
「 無茶をしてはいかんな、アトゥーラ、 」
小娘は身を捩り、男は腕の力をかすかに強めた。
「 痛い、痛いから放して、 」
「 サラザンの飛び猿術の腕よりはずっとやさしいはずだが、 」
「 そおかしら、そおだけど、やっぱり痛いの、痛いのはいや、 」
「 もう、そお痛くはないはずじゃがな、 」
アトゥーラは男の目に見入った。底無しの碧い淵が、同じく底無しの、青い淵を映す。互いに似通う光が互いを飲もうとする、
「 あなたの目の青い色はとてもきれい、こんなに青い色は初めてかも、 」
「 アトゥーラ、お前の目の碧も、わしとて初めて見た気がする、随分長く色んな目の光を見てきたつもりだが・・・ 」
男はさらに顔を近づけた。
「 はて、いったい、どこへつながっておるのやら・・・ 」
小娘も瞬きすら忘れたように見入っている、が、一瞬、断崖の王の(茶碗のような)巨大な眸に等しく、警戒と威嚇の色を綯い交ぜて大きく見開き次の瞬間には深く眠るように、まるで内側に反転するかのように暗くなる※、
<※草原大鷲ミミズクの生態からの類推であると思われる>
「 もういいの、ほっといて、 」
「 どうもそうはいかんがな、 」
男は小娘を再び苔の褥の上に座らせた。手を伸ばし火と燃える荒い赤髪を掻き混ぜる、小娘は頭がぐらぐらする、
「 ほらな、やはり釣合がとれとらんのじゃ、 」
「 ああ、やめて、目が回る、でも、殺すなら殺して、 」
「 殺すの殺さんのと物騒じゃの、」
「 死んだ方がよかったの、」
「 なぜじゃ、」
「 片輪の役立たずだから!」
「 ほう、」
「 片目だけ!片手だけ!」
「 ほう、ほう!」
「 ふざけないで!」
「 ほうほうほう!」
「 あ、あなたは一体なに?」
「 わしか?」
「もしかして、神様?」
「ほう、ほほう!」
「ふくろうのカミサマ?」
「ほ、ほう!」
「あたし! もう行く!!」
小娘はその場で跳び上がりかけるが男は難なく押さえてしまう。
「短気じゃの、誰に似たんじゃ、」
「あ、あなた、あなた、」
「なんじゃ」
「そ、その、青い帽子・・・」
「これの青が見える(わかる)のか?」
「よくわからない、空の青がそのまま落ちてきたみたい、どこまでツバなのか、どこから空なのか、わからない・・・」
男はひどく楽しげに、わざとらしく、頭を傾げて見せる。
「ほれ、どうじゃ、」
「その金の鎖もよく見せて、」
小娘がおずおずと手を伸ばす。青い三角錐の根本に三重に巻かれた黄金の鎖は、フラメンカ・レースの精緻極まる紋様を描き出してはいるが、少しも重たげでない。
「これが黄金だとどうしてわかる?」
「さわってもいい?」
「ダメじゃ、さわるとヤケドじゃすまん、」
「なぜ?」
「太陽の、黄金の林檎じゃからの、」
小娘はさらに手を伸ばす。男は、身を引き遠ざける。
娘は立ち上がり、手を伸ばす。
男の身体も天空へと伸びる。
娘の、たったひとつの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
男の長大な指がそれを掬い取る。
「なぜ泣く?」
「泣いてない」
「そうだ、もう、涙とは、縁を切ったはずだ、」
「あなたは誰?」
「わしの名は、ドナドナじゃ。」
「あなたは・・・、 なに?」
「わしか、わしは一介の人形師じゃ、」
「人形師?」
「傀儡舞わし、とも言うな、」
「人形を売るの?」
「いや、売りはせん、作るのが専門じゃ、」
「作る・・・」
「そう、わしはあらゆるものをつくる、」
「どんなものでも?」
「そうじゃ、」
娘の眉間に深い皺が刻まれる。
「お願いがあるの、」
「なんじゃ、言ってみろ、」
「あたしを、」
「ん、」
「完全に殺してほしいの、」
「それはできるが、なぜじゃ、」
「それはさっき言った、」
「ふむ、そうじゃった、」
「風が邪魔するなら、風を殺して!」
「それは難しいな、」
「嘘つき!」
「嘘なぞついとらん、」
「さっきなんでもできるってゆった、」
「そんなことはゆっとらん、」
「じゃ、殺して!」
「どっちをじゃ?」
「両方!」
「無茶苦茶じゃな、そんなことより、おまえさん、」
「なに?」
「もっといいものをやろう、」
小娘は首を振る。
「別に欲しいものなんて無い、」
「いやいや、きっと役に立つ、」
「だから何?」
「おまえの左目と左手じゃ、」
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