第1巻第2部第1節の続きその2 「春の野道 箱車」
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アトゥーラは春の喜びに満ち満ちた野の小道をゆっくりと進んでいた。空の箱車はまだ軽いので木の車輪の音も軽やかに楽しげに歌っているようだった。引き綱はそれでも肩と右の手首に食い込んでくるのだが不思議と痛みも感じない。出発した時からずっとついて来る小鳥の鳴声が道の左右の低い藪の中を行ったり来たりする。アトゥーラの目は行く手の道の上に時折ちらちらと現れる宝石のような甲虫に釘付けになっている。その背中は最も複雑で高価な七宝細工を遥かに凌駕する精妙さで春日の軟らかな光を反射し変幻自在の魔術的効果を生んでいる。
甲虫は、ともすると遅れがちなアトゥーラの足取りにまるで合わせるかのように不意に立ち止まり小首をかしげてちらりと少女を仰ぎ見る。その度に尻の角度を変え背中に背負う光の魔方陣の模様を変え、ふらつきがちな少女の足取りに正しい方角を教えようとするかのようだった。
ー 待って、待って、あたしの手の中でちょっと休んでみて、その模様をちゃんと見せてほしいんだけど、じっとして、ああ、目が眩みそう、ー
ー 御免だね、標本になるのは真っ平だ、俺たちは石ころじゃない、
生きて動いているものはどうしたって捕まえようもないものなのさ、
そんなことができると思い込んでいるのはどうしようもない愚か者だけだね、ー
ー 待って、待って、そんなに向きを変えなくたってこの道は一本道なのよ、迷うはずがないじゃないの、それよりもあたしの手の平の上で休んでみてよ、
ここは安全なのよ、そんなに忙しくしてちゃ疲れちまうじゃない、ー
ー いいや、アトゥーラ、ここがワカレミチなんだ、ー
地面にとび出した小さな燧石〔隕石らしいのである〕のカケラが奇妙な頑固さで少女の右足の爪先にぶっつかってきた。酷い痛みとともに片目の少女は倒れ、痛みはその感覚に全く別次元の存在平面を開く。〔それは帰還平面なのだが・・・〕 冬枯れのまま残っていた焦げ茶色の草と今萌えでたばかりの純粋な緑の草葉の香りが入り混じり湿った土の匂いがひどく懐かしく、しかし鋭く鼻を突く。
アトゥーラは喘いでいた。道は小高い峠の頂点にかかっていた、行く手は二つに分かれ、右側を行けば暫くこの丘の尾根伝いに進んだ後、急激な登りとなってダヌンの大絶壁へと導かれる。左を取れば緩やかな下りとなり仄暗い樹海へと入ってゆく。その森を抜けなければ泥炭沼へは辿り着けない。そしてその森―静かの森ニュヒテルムドウローン―こそ今アトゥーラが最も恐れている場所だった。何故ならば森の中は、幽霊と幻獣に満ち溢れていたからである。明るく暖かい真昼の春日の下で、少女の首筋にはぞっとするほど冷たい氷の手が巻きついていた。峠道にへたり込んだままアトゥーラは眼下の暗い森を見下ろしていた。
ー あたしは、幽霊を見る、ー
生まれつき片目を失い、ほどなく左手をも失った少女は、自分が不幸だということすら全く知らなかった。己が境遇と比較すべき対象など端から存在せず、サラザン父娘がことさらに残虐非道な扱いをした訳でもなかったはずである。僻遠の裏街道を通過する人種といえば、毛皮猟師とその仲買人、密輸商人とその護衛団、領主と自称する(その正当性は大いに疑問だが)ギドン・オルケン辺境伯もその実体は盗賊騎士団の首領でしかない、まともな働きもできない片輪の身体ではその存在価値はゼロ以下、厄介もの以下でしかなかったのである。そして少女の半ば破壊された肉体は、必然的に〔と、今ここでは呼ぶしかないが〕非在の領域と重なり合い、別の次元の存在、即ち、幽霊を呼び寄せた。〔しかし、そんなことがあり得るだろうか〕
ー 幽霊が、あたしを食べに来る ー
又、あの森を通るくらいなら、いっそ、死んだ方がましかもしれない、震えながらアトゥーラは考えたが、心の奥底に何かが引っ掛かっていた。輝く甲虫が目の前を走り過ぎる。
ー ウェスタ姉様はとてもきれいだ、そして強い、ー
アトゥーラはさっきぶっつけた膝頭が黄緑色に青黒く変色していることに気付いた。
ー あたしの身体はどこもかしこも腐ってる、姉様が嫌がってすぐに叩くのも無理ないし、いや、このごろは鉄の杓子で叩くのさえ気味悪がって・・・ ー
暖かだった春日が少し翳ってきた。見上げると長い帯のような雲が一筋、ゆっくりと太陽にかかりかけている。
ー 姉様はあたしを嫌いなんだ、死ねばいいと思ってる・・・ いつかそのうち、あたしは姉様に殺されてしまうのかもしれない、そうなったって仕方がない・・・ あたしは何の役にも立たないし、醜い・・・ そして幽霊が見える・・・ 姉様には見えない、 誰にも見えないものが見える、ー
すぐ左手の崖下の茂みの中でテンニンウグイスが囀りを始める。一枚の見事な布を織るようにその声が谷間に拡がって行く。
ー 姉様が亡くなったお母様の宝石を付けてたのを見たのはいつだっけ、あれはとってもきれいなのだった、さっきの虫みたいに、きらきらしてた、あたしが触ろうとしたら、火掻き棒で頭を・・・、
丸一日気絶してたって・・・ ー
峠の東側からそよりと風が吹き始めた。ぞくりとしたアトゥーラは全身で縮み上がり思わす右手に巻きつけた引き綱を引っ張ってしまう。箱車がゆっくりと向きを変え転がり落ち始めたのをぎょっとした少女は引き止めようとするが間に合わない。綱は意志を持つ蛇のようにするりと解け落ち、車はほとんど音も立てず静かに崖下の藪の中へ消えてゆく。最後に木材の砕け散る甲高い音。
アトゥーラはよろめきながら立ち上がり呆然と崖下を見つめる。全身の血がザッと音を立て重く重く引いて落ちる。(血が 重い砂のように一気に引き落ちるのがわかるのだ)
ー 殺される、今度こそ姉様に殺される、ー
眩暈がした。倒れそうになるが踏ん張りきる。
中天高くかかる太陽に、長い帯のような雲が二筋、十字型に交差して忍び寄っている。
日の光が薄く白くなり風がひどく冷たい。
輝く甲虫は姿を消し、鳥の声も消えた。
アトゥーラは振り返り自分の歩いてきた道を確かめようとする。
すると、そこは、相変らず暖かい春の陽光に満ちた明るい世界だった。
道の両側からゴーウェイ、トランス、マイイの円丘たちが交互に頭を突き合わせ、光に酔い、柔らかな霞の衣を纏い、その全身全霊を挙げて寿ぎの歌を歌っていた。
但しその響きはここまでは届かない、まるで一枚の厚いガラス板の向うに
神の創造した巨獣たちの憩う神秘の牧場を覗き見ているかのようだった。
遥か彼方ゲレンギンの円丘の真上高く一羽の鷲が、恐ろしく強力で優美な大鷲が、全くの無音で旋回しているのは、神の指先が描き出す連続螺旋模様※、決して解きえない謎々の印(或いは、谺)でしかない。
四方から激しく冷たい風が吹き上がり襤褸襤褸のスカートを翻す。
アトゥーラの剥き出しになった膝は酷く震えているようだ。
傷だらけのか細い両足は痛々しく蒼白く、永く土中にあって腐朽し、崩壊寸前となった貴重な磁器の欠片のような鈍い光沢を湛えている。
アトゥーラは右手の拳を握りしめ彼の無音の劇を凡そ十分間も眺め続けた。
自分では何も考えていないつもりだったが残された右目にも失われた左目にも、等しく涙が涌いて出てくるのが不思議といえば不思議だった。
〔これは最後の涙だ、と、誓う、いな、悟るのか〕
拳の甲を使い、ぐじぐじと顔を拭う。そして眼下の暗い樹海(本来の行く先)にはほんの一瞬視線を投げただけでゆっくりと右手の小道を登り始める。
<※より厳密には、数種の所謂トコロイド曲線が、ある不可知の定式でもって組み合わさり、より複雑な三次元機動を加えて優美悠然たる舞いを為す、と言うべきか>
意味不明の注釈、と言うべきか・・・