第1巻第2部第1節の続きその1 「サラザン父娘 バッタの顔」
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裏の納屋から木の箱車を引っぱり出したアトゥーラが幾分左肩を下げよろめきながら出発して行く様子をウェスタはじっと見送っていたが、その姿がマイイの円丘の陰に隠れて見えなくなってしまうとくるりと踵を返し、臍石に座って嗅ぎ煙草をやっているエイブの傍に戻って来た。そうして腹の底に溜まった得体の知れない重い気体をいかにも気乗りのしない様子で、無音の口笛を吹くように細く長く吐き出した。エイブ・サラザンは娘の弱気な仕草が余程珍しかったのか藪睨みの片目を余計に細め幾分皺と弛みの見え始めた口元を引き歪めて奇妙な忍び笑いを洩らした。
「 何よ、」
低く、くぐもった、不機嫌極まりない声で娘は反論する。
「 何か言いたいことがあるの?! 」
「 いや、特にないが・・・、 ただ・・・、」
「 ただ何よ、」
「 泥炭の蓄えはまだ十分だったはずだ、」
「 いーえ、足りないわ、全然、どうしようもなく、完全に足りない、エイブ、あたしが嘘を吐いてるっていうの、」
ウェスタは足を踏み鳴らし唾を吐いた。
「 いや、そんなことは言っとらん、ただ、」
「 ただ何よ! 」
娘の藪睨みは以前より随分酷く、しかも一層気難しげになっている。
「 ただ、あんな箱車一杯では何の足しにもならんしな、
ダットボギーを使えば半年分いっぺんに運べるってのに馬鹿馬鹿しい!」
「この間の嵐でレーグの道は使えないんだから仕方ないじゃない!」
エイブ・サラザンは軽く肩をそびやかす。
「フフン、それにだ、今日は巡回日の初日で、ひょっとしたら、
大殿様もみえるかもしれんしな、厄介ごとは御免だってことさ、」
「 丁度いいわ、」
レェェスギャンドールーの看板娘は不敵な笑みを浮かべた。
「 それっておとつい先駆けに来たドロスコの情報よね、」
「 まあ、大殿のことだからあまり当てにはならんがな、」
「 大殿様は今どこの城に? 」
「 今週までは南ズゥールー城だったが、そろそろチャウド城か、でなきゃサガン城へ移りなさる頃合だな、ダリドー伯らの追撃隊も結構しつっこいらしいしな、」
「 ふん、ますます好都合だわ、」
ウェスタは腕組みをし、顔を顰めたがまた唾を吐き今度はゆっくりと振り返って再びお化けカラシナを見た。黄蝶が一匹蜜を吸いに来ているが他に動くものは見えない。
「 エイブ、あんたにあれが見えなかったのは残念だわ、それとも、他に何か理由があるのかしらん? 」
「 何の話だ、」
「 あたしには見えたのよ、」
「 だからなんだ、」
「 化物みたいにでっかいバッタの頭よ、でも、」
「 バッタ? 」
「 バッタはバッタよ、でも、それは序の口、」
「 意味がわからん、」
振り返ったウェスタは父親を睨みつけた。
「 もっと奇妙だったのは、」
再び腕組みをし細いしなやかな腰を優雅に捻って見せた。
「 あの子の周りの空気がまるで陽炎みたいにゆらゆら揺れていたってことよ、バッタの顔はそこに映って 浮かんでたの、なんか、いやらしい感じでニヤニヤ笑いを浮かべていたわ、」
・・・ ・・・
「 バッタが笑うなんて聞いたこともないし、想像もつかんな、」
「 そりゃあ誰だって、バッタの笑い顔なんて見たことも聞いたこともないわよ、」
ウェスタは腹立たしげに手を振った。
「 あたしが言いたいのは、もうずっと長いことこういうことが続いてきたし、近頃ますます酷くなってきてるってことなの、」
父親の頭の構造を熟知しているらしい娘は己が血の沸騰を巧妙に押さえながら、ゆるゆると搦め手に回り込み始める。
「 ははぁ、また例の幽霊どもの話か、」
「 違うわよ、馬鹿馬鹿しい、」
ウェスタは落ち着き払った重々しい足取りでゆっくりと歩み先程のカラシナに近付いた。蜜の甘い香りが漂い、羽虫や虻、小蝿どもが楽しげに飛び回り、食事をし、日光浴に耽っている有様を暫く見つめ続けた。右手がピクリと動きかけたがなぜか押しとどまった。足下から不意に小さなバッタが(酷く醜いイボツチバッタだったが)飛び立った。
「 ねぇ、」
娘は大人びた仕草で振り返った。
「 エイブ、ほんとのところ商売の方はどうなの、あたしが見てるだけでも年々ひどくなってきているようだし、アムドラーシュなんてここ何年も一度もこっちを通ってないじゃない、」
「 ソムドの業突く張りどもなんざ糞喰らえってんだ、」
「 何言ってんのよ、いの一番の金蔓じゃないの、」
「 ブリンクラーだってそうじゃねぇか、」
娘は大袈裟な仕草で天を仰いだ。長い帯のような雲がゆっくりと太陽にかかり始める。
「 この冬猟の猟師の何人がこっちへ回ってきてくれたか、あたしにだってそれくらいわかるわよ、お話にも何もなってないじゃない、」
「 お山のご機嫌が悪いんじゃ仕方ねぇんだよ、」
眇めの亭主は幾分腹立たしげに、しかしどこか後暗い弱気をちらつかせて呟いた。
「 あたしはそうは思わないわ、」
娘はきっぱりと言い切った。
「 何がだ、」
「 これには全部ちゃんとした訳があるはずだってことよ、」
エイブ・サラザンは立ち上がり手を擦り合わせながら中天の太陽を見上げた。柔らかな雲の帯が東から一本、南からも一本交差するようにゆっくりとかかりまだお昼前の太陽はいささか気後れしたように白っぽく弱々しく輝いた。〔二つの風の神が・・・〕
「 おおっと、そろそろ昼飯の用意に、」
「 エイブ! 母さんの名にかけてっ! 」
ウェスタは吼えた。
「 これ以上あの子の面倒は見きれない、死んでもらうしかないわ、」
「 それはできんぞ! 」
父親は吼えた。
「 なんでよ、」
「 おまえも知ってるはずだ、あれは預かり物なんだ、大殿様からのな、」
「 いくら大殿様だって疫病神を押し付ける権利なんてないわ、」




