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第1巻第2部第1節 「銀猫亭前のアトゥーラ」

前節、馬部屋の続きが気になるのですが、微妙にややこしいのでちょっとお休みし、不肖の姉のソソノカシに敢えて乗っかる形で第2部冒頭部をあげてしまいます。

遂に、我がヒロインの登場です。どうかどうかなま暖かく、また、末永く見まもってあげてくださいませ。この子の運命がどうなるのか、まだ誰にも、

実は、シャリー・ビョルバムにさえも全然わからないのだそうです。

私も姉も命の続く限り頑張るつもりです。

リアルの状況は最悪×最悪で、更新の間遠となりますことをどうか御許しくださいませ。

街道に面した黒い戸口の脇、薔薇色花崗岩の座り石〔厄除け石、臍石、世界石、要石などとも称される〕に凭れかかって少女が一人見張りの役についていた。暖かな春日がゆっくりと動き、燃えるような赤髪を照らしている。目は真剣に彼方の森と緩やかに盛り上がる花崗岩の丘の方へと、恐らくは南からの旅人の気配を探っているのだがいかんせん片目しかないので当然二倍の力で見なければならない。ふざけた形にぐしゃぐしゃにされた髪の一房が落ちかかり失われた左眼を隠しているが後に残された右目となるとこれが奇妙な緑色、しかもナイィの深淵の碧緑とも見紛う不思議な精気を時々ちらつかせておりウェスタといえどもこの目をじっと覗き込むことにはかなりの抵抗がある。ただし、今は微かに眠たげであって予告なく不意に襲ってくる左手首の痛みさえなければ本当に眠り込んでしまいかねない、まだお昼までにはかなり間のある、のどかな一時であった。遥かな高空で、突然、高原喉赤雲雀が囀りを始めた。しかし、アトゥーラの頭は動かない。再び襲ってきた激痛が食い縛ったか細い顎と痩せた肩を微かに震わせる。あの日、無残に切断された左手首は、以来絶え間なく血を流しつづけどんな止血方法も効果がなく、無様に巻きつけられた分厚い包帯だけが唯一の手当てらしい手当てなのであった。ただし、血は、包帯の表面にうっすらと滲み出るだけで自然に蒸発するように消えてしまい滴り落ちるなどということは全くない。それどころかある時以来、汚れ物の洗濯や通り一遍の手当てなども全く放棄してしまったウェスタ・サラザンにとってあまりに無気味なことが続いたので(要するに、無限の包帯が、無限の手当てが、出現したということで)この左手首は際限のない憎悪の対象になったほどなのである。

アトゥーラは不意に立ち上がり怯えたように辺りを見回した。痛みが去ると同時にいつも以上に鋭敏な注意力が戻るのである。ただし、意識の冴えと身体の制御は別であって、危なっかしく半身を捻る拍子にたちまちバランスを崩してしまいよろけた膝頭をしたたか臍石の角にぶっつけてしまう。こちらの方はたちまち鮮血が流れ出しアトゥーラは慌てて傷口を舐めて証拠を隠そうとする。そんなみっともない格好の最中に後ろのドアが音もなく開き一層藪睨みのひどくなったウェスタが顔を出した。いつものことだがすぐに頭に血が上るのである。

「 またさぼってる、何してんだ一体!」

するりと抜け出たウェスタは出来損ないの妹分の真後ろに立ち微かに震えているか細い身体を厭わしげに見下ろした。明らかにエイブのお古であり大きすぎて腰からずり落ちかけている革のベルトから鉄の杓子を引き抜くと問答無用でアトゥーラの肩先に打ち下ろす。

「 口答えをするな!」

「 まだ、何も言ってない! 口答えなんかしてない! ああ、痛い・・・ 」

「 痛いのはこっちだ、あ、糞っ! 手が痺れる、」

思わず杓子を取り落としそうになったウェスタは悪態を()いた。鉄の柄が少し曲がりかけているのをそのままホルスターに戻し、右肩をさすろうとしてかえって痛みのぶりかえした左手首をお腹の前に抱え込んで歯を食い縛っているらしい馬鹿な妹の腰を蹴とばした。襤褸切れの小さな塊のようになってアトゥーラは転がった。そこはもう街道の路肩で小さな花壇が切れ切れに貧弱な帯のように延びていた。これを作ったのは他ならぬアトゥーラだったがどう頑張ってみてもまともな花などは咲かず、結局は裏の菜園から引っ張って来た全然背の伸びない襟子辛子菜と行儀の悪い赤棚えんどう豆、そして

柄の悪いパースニップだけが根づいたのである。

口の中に入った砂と小石が苦い音を立てた。血の味がし、前の晩、すこし降った雨が土の香りを強めていた。目の前には自分で折りひしゃげてしまった黄色い菜の花が春の微風に揺れているのである。

― なんだ、菜の花だってこうやって見ると結構立派な花じゃないか、なにも馬鹿にされることなんてない、甘い蜜もでてるし、そう、小さな虫も一杯集まってる、おや、天道虫が来た、黒光りしてるな、何か喰ってるし、それにしてもあちこち痛すぎるぞ、ウェスタ姉様、足蹴だけはやめてほしいな、特にお客様の前ではやめてほしい、今なら別にいいけど、あれ、あたし、なにしてんだろ、姉様の機嫌を直さないと、また何かイヤな用事が、―

ウェスタは臍石の上で行儀悪く胡座を組み頬杖をついたままやはり南の方を眺めていた。長年の勘でなにか近づくもののあることがわかるのである。ただ、視野の片隅では、泥まみれになり起き直ろうとして愚図愚図もがいている年の離れた妹の姿が、何かまるで人間離れのした異様な怪物のように見えていた。それは現世へ出現するための位相空間の選択を誤り慌てふためいて元の安全な次元へと戻ろうとしている憐れに無力な幽霊・・・の滑稽で悲惨な姿のようでもあった。ただし、一瞬と言えども目を離すと、全てが一変し、ある・・・不可視の恐怖が訪れる可能性がある。ウェスタはそれを知っていたから絶対に警戒を緩めなかったのである。ここ数年来急速に頻度の増してきた奇怪な現象の数々はウェスタほどのしっかり者の心をも極度の混乱に陥れていた。我慢の限界も近付いていたのである。

「 いい加減に起きろ、」

ウェスタは立ち上がった。すらりと背が伸び数年前のひねこびた小娘の面影はこれっぽっちもない。襤褸切れと見分けがつかなかった以前のスカートは当然アトゥーラに下げ渡され今ではすっきりと形のよい胴着と襞のたっぷりしたより女らしい装飾キルトのスカートが程よく似合っている。明らかに亡くなった母親の古い衣裳箱から何かの特例として、おもむろに、儀式ばって、満を持して引っ張り出されてきたものらしい。

アトゥーラはしかし、姉娘の怒気を孕んだ声にも気付かぬ風に今突然目の前に現れた妙な生物と睨みあっていた。


そこには一本だけ女王のように発育し巨大に生い茂った一株のエリコーカラシナがあった。背丈はさほどでもないが茎の太さと枝分かれの複雑さは異常なほどでまわりに乱れた隊列を組んでいる同族たちを圧倒したった一株でひとつの森を形作っているのである。最下層の一際巨大な葉っぱたちはどれもが霜にやられ虫に喰われ変色しそれどころか様々な痙攣的運動さえ起こしながら変形しつつ地表を被っていた。さながら一瞬の音楽の休止に凍りついた舞踏会場床面のスカートたちの群舞でありその妖艶な膨らみの蔭には実に様々な、恐らくは致命的ともいえる隠微な(いな、むしろ淫靡な)秘密が隠されてあるはずであった。事実、折り重なった分厚い葉の裏側やその間には無数の大小様々な虫どもが隠れていた。そのどれもが色彩と形態による無限の変化を尽くし己が存在を韜晦していたがアトゥーラの目にはその全ての術策が見てとれていた。その完璧な擬態、自然のリズムを徹底的に利用した完全な隠密形態と行動形式にもかかわらず全ての虫どもがその存在の全てを露出しさらけ出し捧げ尽くしているに等しかったのである。


ー あなたたち、一体何のつもりなの、またあたしのことを笑いに来たの? ー

ー とんでもない、ー

丁度アトゥーラの鼻ッ先、二段目の比較的無傷に美しい葉の上に、一匹のカワラバッタが四つの前足を精一杯突っ張り文字通り踏ん反り返っていた。こいつだけは全然身を隠す気もないらしいが後脚(例の強力な跳躍脚)がもぞもぞしているので警戒を忘れたわけでもないらしい。

ー それどころか、お祝いを、いや、大事なお知らせがあって、そう、というよりも、おおーい、そろそろ起きろよ、って、おお? 起きてるのか、いや、ちょうどいい風が吹いてるな・・・ では、ごきげんよう、ごきげんよう、おおーい、ほんとに、起きてるのかーーー、 あとは任せた、任せたぞ、 ー

この時、ウェスタは一歩踏み出しホルスターの鉄杓子に手を伸ばしかけ、ギョッとして凍りついていた。二三歩後ずさり、右足の踵がなんでもない小石を引っ掛け、らしくもなくよろめいて振り返るとすぐ傍にエイブ・サラザンが突っ立っていたのにぶつかったのである。

「 なんだ、芥子菜に頭を突っ込んで一体何やってんだ、アレは、」

「 親父、あれが見えないのか、あんなバケモンみたいなバッタの顔が! 」

「 何言ってんだ、おまえ、」

ウェスタは怒りの余り蒼白になり鉄杓子を握りなおすとさっと振り返った。しかし、さきほどの幻影はもう見えず、アトゥーラは既に立ち上がって怯えきったように二人を見つめていた。相変わらず左手首を押さえ少し震えている。

「 糞っ! 頭にきたぞ、」

銀猫亭〔レェェスギャンドールー〕の看板娘、藪睨みのウェスタは、しかし、頭に血が上るのも早かったがそれ以上に抜け目がなく、こと未来の災厄を回避するための策略に関しては全く抜かりがなかった。またもちろん、取るに足りない片輪の妹風情に対して弱みを見せることなど絶対にありえようはずもなかったのである。

「 ちょうどいい、」

肩の力を抜き首を回してわざとらしく南と北、ラストークとヴォイエッジ丘陵の方をぐるりと眺め渡した。

「 燻製用の泥炭が足りなくなってたのをすっかり忘れてたわ、ガッダ、とってきてくれる? 」

「 い、今から? 」

「 今行かずにいつ行くんだ、」

「 でも、お昼までにとても帰ってこれないし、あたしまだ朝御飯も食べてない、」

「 箱車一杯ちゃんと積んで来るんだぞ、よく乾いたのを選べよ、さあ、口答えはなし、なし、早く行け、」

ウェスタは鉄杓子を引き抜いて日にかざし、微妙に歪みの生じている取っ手の部分に注意を集中する振りをした。暖かな春の日差しが磨き上げられた鉄器に反射する。アトゥーラは泥だらけになっていたスカートをちょっと擦り、すぐに諦めて歩き出した。微かにびっこを引いているのは先ほど打った膝が痛むらしい。ただし、出血の痕は完全に消えているのである。

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