第1巻第1部第33節の続きその4 「散機の鈴 狼嵐 不純暴力 阻止行程 魚汁」
旅僧の左の手の平が宙空を泳ぐ魚のようにゆらゆらと招いた。小娘は浅黒い頬にさっと血の気をのぼせながら勝ち誇った目付きで亭主の方を見返しゆっくりと旅の修道僧に近付く。鈴は、ウェスタのいささか気取った歩調に合わせてか細い、しかし驚くほど高い音色で鳴った。と、同時に食堂の外壁が軋み、低い轟くような音を立てた。狼嵐の先駆け、色の無い、透明の踵で大地を蹴る破城槌の第一撃である。
「 やっぱり急に来たな、いつもこの調子だ、お坊さん、運がよかったね、もう少し着くのが遅れていたらロバごと吹き飛ばされてたぞ。」
第二撃が到着し建物全体が揺らいだ。 正面戸口の強力な二重閂が微かに軋む。ウェスタはしかし相変わらずひどく高慢ちきな表情のままさっと身を屈めアンクレットを外しにかかった。すると目の前には、馬鹿でかい日月箱の、古風な彫刻の施された祭壇式扉が見える。小娘は卓の陰であたかも盲人の手探りのように震える右手を伸ばしたがその凹凸に触れることはできなかった。なぜなら丁度その時するりと娘の背後に回りこんでいた父親が強烈な足蹴りをくれたからである。
ウェスタはいささか妙な具合に身をよじりながら日月箱共々三スパンほども吹っ飛ばされた。骨と木材が打ち合う鈍い嫌な音の後、半毛皮仲買人式悪態が沸騰しかけたがすぐに止んだ。亭主の第二撃が娘の脇腹に深々と食い込みその息の根を止めたからである。床の土を噛み藁屑にまみれた小娘は激しく咳き込みながらさきほどつまみ食いに成功したお供え菓子をみな吐いてしまった。
「 この馬鹿娘が! あーあ、みんな吐いちまいやがった、おい、いつまでも転がってないでさっさと起きな、早く掃除しろ、大殿様のお着きの前に全くなんてこった! 」
亭主は汚物まみれの己が娘には目もくれず日月箱の方を引き起こしにかかっていた。幸い傷はなかったが藁屑と香草がこびり付いている。
「 まったく、お客様の荷物に手をかけようなんざいったいどういう料簡なんだ、手癖が悪いにもほどがあるぞ。」
ウェスタ・サラザンは酷く汚れてしまった自分の胸元と鳩尾の下を庇いながら素早く跳ね起きた。怒りに満ちさらなる口ごたえの為に息を吸い込んだ。亭主は無言のまま腰を捻り目にもとまらぬ素早さで腰の鉄杓子を引き抜くと娘の側頭部に恐ろしい打撃を加えようとしたがその異状に長い逞しい右腕は中空であっさりと引き止められてしまう。旅の修道僧カーノイはこの数瞬前すでにゆるゆると動作を始めていてその動きは丁度計ったように惨劇の阻止に間に合いその細長い魚のような手の平は鉄の杓子の丸い底をすっぽりとやわらかく包み込んでいた。ほとんど何の音もしなかったのである。エイブ・サラザンはすぐに腕を下ろした。旅僧はその動きを妨げなかったが亭主にはその白い手の平がそのまま重く吸い付きつづけているかのような妙な感触が残った。
「 旦那、よくぞ止めてくだすった。」
亭主は臍の下に溜まった息を半分だけ吐き出し、いけしゃあしゃあと呟いた。但し顔色は今ひとつ冴えず、藪睨みの金壺眼の底には微かに動揺の痕が見える。〔後ほど、ギドンに警告の要ありと・・・〕
「 けどまあ、荷物が無事でよかった。傷ひとつ付いちゃあいませんからご安心を。ただ中身の方が無事かどうか点検されることをお奨めしますがね、完全にひっくりかえっちまいましたからね。」
「 しかし、ご亭主、あんたがあんな手荒なことをなさらんかったら何事も起こらんかったような気もするがの。」
「 そうだ、あたしはただとっても綺麗な浮彫りが見えたんでちょっと触ってみただけなんだ。」
「 黙れ!この馬鹿娘が! さっさと着替えて御供を見てこい、ここはもういい、」
「 ちょっとお嬢ちゃん、こいつの浮彫りに触れたのかね? 」
「 ええ? ああ、いんにゃ、もうちょっとだったけどその前に!」
ウェスタは鳩尾を押さえて吐き戻す身振りをした。
「 早く行け、馬鹿め! 」
小娘は上には登らず、手早く辺りを清めてから恐ろしく不機嫌な表情のまま奥の戸口に消えた。小鈴の音がさきほどよりは余程単調に響き消えてゆく。亭主は右手の鉄杓子をほんの一瞬だが訝しげに見つめすぐに左腰のホルスターに戻す。そしてあまり綺麗とはいえないナフキンを隠しから引っ張り出し広げ畳みなおして日月箱を拭い始めた。しかし、すぐに感嘆したように喋り始めた。
「 ほう、これは大した年代もんだな、色々見てきたがこれほど古風な造りの箱には滅多にお目にかかれない、無論そうだ、これほどの箱を馬部屋にほおっておくなんてできるもんじゃない。」
さっきの小活劇にも全く無関心で眠そうにしていたグエンドーとドロスコの二人は急に起き直りとっくに空になっている銅杯で卓子をガンガンやり始める。
「 返杯だ、返杯! おい、エイブ、サービスがなっとらんぞ。こちらの大僧正様をなんとこころえておる、食事の用意はどうした、あのシチュー鍋は飾りか? 」
「 旦那方、ちょっとお静かに! 物事には順番ってもんがございますので、えーと、カーノイ様? お食事をご希望とのことでございましたが・・・ 」
「 お!いやにお上品だぞ?! 」
「 確かに、うむ、腹は減っておるが、食事を頼んだ覚えはまだ・・ 」
「 なにせ時間が時間なもんでごぜいますからね、簡単なお夜食程度ならお出しできるんですが 」
「 お夜食ときたぜ! 」
「 それにちぃーとばかり呂律もあやしいな、」
底深い大地の轟きとともに建物全体がまたしても揺れる。亭主の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「 なにせ時期が丁度わろうございまして碌なもんがございませんのです、ただ幸いうちの裏の水槽にみごとな黒鯰が残っておりましてこいつはあっさり焼き上げますと極上の味わいを保証できますもんでございますので特にお薦めする次第で・・・ 」
「 それは素晴らしいが魚料理ならわしはローストやソテーよりシチューの方が好みなんじゃがね、」
「 おお、それならば、」
亭主の顔がぱっと明るくなった。
「 最適の、それも極上のシチューが丁度特別に用意してあるのでございます、これと一緒に煮込みますと全く素晴らしい魚汁になるはずでごさいます、但しこれはある特別のお客様専用に用意したものでございまして特別料金になってしまうのが如何とも為しがたいところでございまして・・・ 」
「 う、うむ、」
「 普通のお夜食としてなら一シルでございますが、ヴィナーハですと三シルになってしまいますのですがよろしゅございますか? 」
「 む、ま、かまわんじゃろな、先程からのあのとろけそうな香り、まぁ、抵抗するだけ無駄じゃったちゅうことじゃな、で、前払いかの? 」
「 お立ちになるときで結構でございますよ、」
亭主は実際恐ろしく上機嫌な顔付きとなりいそいそと料理の支度を始めた。ストーブの奥と裏の台所は直結しているので皿の触れ合う音やナイフとフォークの擦れ遭う些か耳障りな音もよく聞こえるのである。修道僧はしかしさすがに疲れが出たのかすぐに舟を漕ぎ始めた。但し、両手を隠しに突っ込み棒のように背筋を伸ばし頗る堅苦しい姿勢のままである。




