第1巻第1部第30節 「往来にて 噂話 妨害? 服飾出費?」
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宵闇に浸された街は穏やかに安らい、一日を善しとして量り終えた人々が、いかにも解放された晴れやかな身振りでどこへ急ぐ風でもなくゆったりと歩んでいる。広大なボレナ・プレクシー河岸通りに沿い点々と並んでいる豪奢な黒塗りの車どもは、さながら大角甲虫の行列であり、その鈍重で意固地で融通の利かない様子には、その主ども ─ 実は夜の川遊びに繰り出した旧市街の富裕な商人達やその取り巻き連 ─ の意図とは逆に一向に華もなく、半ば覆いをかけられた尾灯の赤いカンデラは、しおらしく伏目勝ちに瞬いてはいるが、実は悪意に満ちて充血した下目使いの北叟笑みを隠し、劇場帰りのシャンチー型軽四輪馬車や軽やかなアシャンテ型二輪馬車、さては燕のようにすっ飛ばすラルシャンに対し羨望に耐えない流し目を送っている。川面には色とりどりの趣向を凝らした屋形船が浮かび、手遊びの弦の響き、雇われ楽師どものやくざな伴奏などが入り混じり切れ切れに聞こえてくる。何箇所もある船着場の近くではどぎつい趣向の屋台が立ち並び、ひどく黄色っぽい真昼もどきの明るさが夜のそちこちを切り取って輝いている。強い香辛料の香りと安酒の匂い、獣脂の焦げる臭いが不良少年どもを引き寄せ、さらに目付きの悪い不良少女どもを惹きつける。賃貸し遊覧船の切符売り場が彼女らの第一目標ではあるらしい。とはいえ少女たちの目論見の底の底を読むことなど誰にもできはしない。売り場の木の柵に凭れ掛かり、いかにも気のなさそうに煙草を吹かしたり、べたべた貼られているポスターを横目でちらちら見たりする。爽やかな夜の川風が剥き出しの肩や短すぎるスカートをそっと撫ぜて行く。分厚い脂粉と安香水の臭いが入り混じり、傍に擦り寄った若い男どもは、身内を走り抜ける戦慄を半ばぞっとしながら、恍惚として握り締める。
河岸通はバランクレー街との交差点にさしかかりひどい混雑となった※。
<※正確には東バランクレー街第三副路>
通を挟んだ向い側、川沿いに長々と伸びるプレクシー劇場の終夜公演は確かに今日が初日である。ボレナ橋の上と広場の真中には夜警騎馬隊が出ていた。バシュラ・フェズはカーテンを引き、御者台を杖で叩いて合図する。
「 どうかしたか? 」
「 やっぱりひどく混んできただろ、さっき打ち合わせたように次の裏道へ入ってポランバート公園の方へ抜けよう。」
「 それがよさそうだ。」
しかし、方向転換といえどもそう簡単にできそうではなかった。急に風が無くなり蒸し暑くなった。
「 ガイの奴、全くなりきってるのが実におかしいな。前々から達者だとは思ってたけど実によく似合ってる。」
「 チュリスから借りた御者のマントーのこと? 」
「 頭巾とマスクもですよ、それにあの鞭捌きときたらまったくもって堂に入ったもんだ。」
「 そんなに上手なの? 」
「 明日から辻馬車の御者をして食っていけますね。」
「 お願いだからバシュラ、ガイに変なことを吹き込まないでね。」
「 一体何のことです? 」
一層薄暗くなったキャビンの後座席の真ん中ではなく、窮屈そうに窓側に寄ってカーテンの影に隠れるようにしていた姉娘の横顔を外の松明が時々ぱっと照らし出す。高く結い上げられた髪は複雑な水の流れを写したリオナルド型の変形だったが、かかった時間を考えると素晴らしい手際だと言えた。この髪型はリューニス自身の創案であって一時ひどく持て囃されたものなのである。しかしリューニス自身は街や社交界での流行などには全く無関心であった。恐らく自分の勝手気ままな着こなしや髪型、装身具の趣味選択などがごく一部とはいえ何の付き合いもない見ず知らずの人々にまで影響を与えているなどと知ったらひどく吃驚するに違いないのである。
「 怒らないで聞いてね、私、今、あなたのことをとっても真剣に疑っているの。」
「 なんだか穏やかではありませんね。」
「 この頃嫌な噂ばかり聞こえてくるの、ガイは全然家に戻らないし、たまに顔を出したと思ったら私のところへは少しも寄ってくれないでアドラムを困らせてばかり。」
「 ガイが忙しいらしいのは僕でも知ってますよ、今では陛下の第一のお気に入りで確かロッグ・ラムの塔に控えの住居を貰っているはずだ。いつお声がかかるかわからないのだし大目に見てあげる必要があるのでは? 」
「 でも、一体あなたも何も知らないの? 何時も一緒にお仕えしているはずではなかった?」
「 悪い噂といえば、ふむ、そうですね、ドリーズ卿夫人とニアスロス夫人のお二人を手玉に取りひどく泣かせたらしいというのは聞いていますね。」
「 まあ、それは間違いだわ、手玉にとられたのはガイの方で、玩具にしたつもりが玩具にされ、笑いものになったというのがほんとのところでしょ。」
「 僕はあのお二方をよくは知らないんです・・・ 」
バシュラは曖昧に口ごもったがまだ若い寡婦であるニアスロス夫人のとても小さな、卵型の、非常に美しい顔を思い浮かべた。常に憂いを含んだ青緑色の小さな眸が女王の謁見室の控えの間の片隅で密かに涙を流しているのを見たことがあった。バシュラが不意に黙り込んでしまったのでリューニスは不安げに身じろぎしたがその時突然馬車が大きく傾ぎ娘は小さく叫び声を上げて腕を伸ばした。バシュラはその手をさっと取り、支え、自身は義手の力を使って安定を保った。激しい鞭の音に警笛が鳴り渡りブレーキの悲鳴と御者どもの怒号、馬の嘶きと舗石を打つ蹄鉄の響きが激しく入り乱れた。
「 ねえ、リューニス、ちょっと聞きたいんですけど、」
若い武官はほんの少し眉を顰めただけで何事も無かったように話を続けた。というよりもこれ幸いと話題を転じた。
「 いつもあんなところで着替えたりしてるんですか? 」
「 あんなところって? 」
「 ほら、さっき暫らく篭っておられた乾門の門亭ですよ、」
「 ああ、あれは・・・ 」
娘は少し顔を赧らめ、それから今始めて気付いたように慌ててバシュラの手を放した。そして両の手の平でドレスの膝の辺りを何度も擦り始めた。
「 そのドレスには見覚えがありますね。確か去年の春、レクトン山の巻狩りの時 乗馬用のドレスにしておられた。」
「 そうね、もう一年も経つのね、これはとってもいい生地だから訪問着に仕立て直したんだけどちょっと恥ずかしいかしら。」
「 何も問題はないでしょう、要するに着こなしですから・・・ あなたは完璧です。」
バシュラの口調は全く平静で、太陽と月は等しく丸いといった口振りであったからリューニス・グロムハインはほんの少しぞくりとした。
「 全部チュリスの企みなの、」
外の騒音は殆んど耐えがたいほどだったので娘は覚えずかなり上ずった声を出した。
「 何です? 」
「 門亭のことよ。」
「 ちょっと無用心ではないですか? 」
「 悪いのは私なの、何時もふらふらして落着かないので他の女の子たちが困ってしまってチュリスに泣付いたらしいの。それにしてもなんで女だけ出かける度に着替えなきゃならないのかしら。」
「 着たきり雀の僕なんかは例外として、」
バシュラは笑いながら反論する。
「 男だって同じことですよ、お父上を御覧なさい、最近はガイだってなかなか大したものだ、」
「 この間珍しくアドラムがこぼしてたんだけど、家の支出の半分以上は二人の衣装代だって。」
「 信じられませんね。」
「 私だってそうよ、でもソムド人やアムドラーシュの隊商が輸入してくる布地ときたら黄金隕石※と等比交換できるくらい貴重だって、この前チュリスに教えてもらったから・・・ なんだか馬鹿みたいな話じゃないかしら。」
<※所謂純金の二倍の比重を持つ、地球外起源の希少金属。極東の砂漠地帯より稀に産出される>
「 まあ、世の中には色々な道楽がありますからねぇ・・・ 」
「 私の一番好きな布地はバジームの絹なんだけど、それだってお小遣いを少し遣り繰りすればなんとか買える値段なんだし、第一あんなに重々しい生地では肩が凝ってしまうんじゃないかしら? それにそんな馬鹿馬鹿しい値段を考えたらちょっと裁断しようにも鋏を持つ手が震えてしまって、ああ、ここを切り損ねたら立派な荘園一つ分のお金※が消えてしまうも同じこと・・・なんてねえ、」
<※これは、大仰な、かつ、不正確な言及で、正しくは、四半期分の収入(貢納物)とほぼ等しい、の意味ととるべきである>
「 なんだか無茶苦茶な話ですね、無茶といえばガイの奴、かなり羽目を外した走りっぷりだけども、おや? 」
先程から馬車は揺れに揺れていたけれども二人はもう慣れっこになっていて、特にリューニスの方は何かお転婆娘のようにはしゃいでいた。全く蒸し暑いのと街路の臭気の堪え難いひどさを除けばほとんど快適といってもよかったのである。急制動がかかってつんのめる度にバシュラに支えてもらいまるで子供のように喜んでいた。但しバシュラ・フェズの方は周囲の状況が完全に把握できているだけにあまり無邪気な付き合い方もできず、かといってしかつめらしくしゃっちょこばるのもリューニスを前にしてはできないのでどうにも奇妙な表情を取り繕っていた。また、車台と索具が悲鳴をあげ今度はすぐ間近で警笛が鳴った。ちょっと覗いてみるとガイは夜警騎馬隊の警士二人と何やら口論の最中である。




