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第1巻第1部第27節 「セリナとバシュラ 退出 リューニスと夕空」

ボレナの水面みなも黄金色きんいろに溶けて輝き始めていた。穏かな西風は、火照った身体と、まろやかな大気との境界を無意味にするかのように、やさしくそよぐのだった。バシュラ・フェズは、一人賑やかな御前から離れ、すぐ足下の水中を見つめている。この春生まれたばかりの小魚の群れが、岸壁に近い木杭の傍に群がっている。斜めに差し込む光の屈折が二つの世界の異相を際立たせ、直立二足獣と魚族、このお互い相容れぬ命の実相の不思議さを、透明な哀しみの遠近法のもとに、ある不可思議な凝視を強いているかのようなのである。

さてしかし、乳兄弟でもあるガイ・グロムハインが、セリナ・スヌーンを伴って近付いてくることはわかっていたが、バシュラは愛想よくする気にはなれないのであった。彼はセリナが苦手だったのである。しかし向うはそんなことにお構いする連中ではないのであった。バシュラは溜息を一つついた。

「 またこんなところで一人考え込んでるな、悪い癖だぞ。」

ガイ・グロムハインは、父親ほどではないにしろ若い侍従たちの中では一番派手な出立ちで、全く飾り気の無いバシュラ・フェズとは好対照だった。しかしセリナは相変らず北方山岳民族風(おくにぶりそのまま)のほとんど醜いといってもよいほど簡素な喪服を意固地に身につけていて、活火山顔負けの激しい性格とはあまり釣合いがとれていず、そういった点についてもバシュラには気が重かった。そうしてその上・・・

「 溜息なんてついてる暇があるならちょっとは反省したらどうなの!」

バシュラは訳もわからずまごつくばかりだった。ガイはニヤニヤ笑っている。セリナは頭に血が上ったようだった。耳の付け根が真っ赤に染まっている。おりからの西日が形のよい小さな耳朶の血管を美しく透かしてみせる。バシュラは目をそむけた。

「 よりによって王妃様にあんなものを献上するなんて、全く情け知らずの、恥知らずの、ほんとにもう、あなたみたいな鈍感な野蛮な人は生まれて初めてだわ!」

「 まあまあ、セリナ殿、悪気はなかったんだと思いますよ、それにあれは、実はここの親父殿が悪いんで・・・」

「 悪気があってたまるもんですか!」

小柄な侍女は跳び上がって足を踏み鳴らした。

「 それに今からムザラ様にも抗議に行くつもりよ、その前にこの鈍感な人に一言言っておきたかっただけなの!」

しかしセリナは、男の弁解に耳を貸す気など端っからなかったと見え、思いつく限りの悪態を吐き出してしまうと、これまた実に小気味のよい仕草で喪服の裾を翻し、さっさと次の目的地へ向い行ってしまうのである。

バシュラ・フェズは、物問いたげな視線を投げ返したが、さして気のある風ではなかった。ガイは、まるで他人事のように肩を竦めて見せた。

「 いや、例の仔狼のことさ、ムザラ殿の献上品という訳なのだ、つまり、それを思い付いたのはウチの親父殿なんだが・・・ 」

「 そいつは又ヒドイ話だな 」

「 なんにせよ、ご機嫌伺いに参上した方がよさそうだとは思わないか?」

「 ラゼナ様はお許しくださるだろうか?」

「 とにかく、セリナ殿を通していたんじゃ埒があかんからね、ここは一番、姉上に相談してみるのが上策というもんだろう。」

バシュラ・フェズは気乗り薄を装いながらもほっと一息つき、その提案に乗った。話は決まったので二人揃って退出することにする。しかしそれには侍従長のボーレン伯か、総理大臣をつかまえねばならない。となると再びセリナにも捕まる可能性があるのでここは慎重に事を運ぶ必要がある。いずれにせよ、バシュラには気の重い状況ではあった。幸い気の利く小姓が一人つかまったので直接伝言を持たせ、序でに御前の様子も伺わせる。格別問題もないようなので、そろりと退出する事ができたのである。

城を出た二人が騎馬のままグロムハイン邸門前に着いた時には、丁度太陽は西の大門 ― 即ちガルデンジーブス門塞の真上に落ちかかっていた。紫色の暮靄ぼあいが一面に広がり、いいようもなく美しい晩春の暮れつ方である。西の湖水地方(ガルデンジーブス)の平安が、鐘の音※と塒へと急ぐ鳥どもの鳴き交わす声と、遅くまで遊び呆けている子供たちの澄んだ呼び声によって永遠の広がりとなりバシュラ・フェズの心へも染み入るように響き渡る。


<※日没を挟む前後二時間の間に、三十分おきに鳴らされる閉門を合図する鐘>


若い武官にはそのまま何時までも立ち尽し、ここに心を傾け尽くすことが今最も望ましいことだったのかもしれないが既に遥かに散文的に自身を鍛え始めていた乳兄弟たるガイ・グロムハインには単なる時間の経過の象徴、行動を促すきっかけにすぎないと思われたのであった。早くも夕闇が迫りつつあった。二人は案内も乞わず直接奥の書院、即ち姉君リューニス・グロムハインの居室へと通るつもりで広大な中庭を横切って行った。相変らず人気少なく、途中やっと出会った侍女の一人は二人を見て真っ赤になり慌てて奥へと隠れてしまう。

しかし肝心のリューニスの姿はどこにも見えず二人が困惑している時、大回廊のはずれを回り、ぱたぱたとせわしない、小さな足音が聞こえてきた。現われたのは大きすぎる御者の制服をさも面倒臭そうに着込んだまだ幼い少年である。

「 チュリス!」

二人は同時に叫んだがガイの声には些か非難の響きがあった。

「 姉上は一体どこにおられるんだい?」

少年は不服げに頬を膨らませた。そしていかにも分別臭そうに溜息をつきながら肩を竦めて見せた。

「 ああ、若様、やっとご帰還あそばした、やれやれ、どうにか間に合いそうだぞ。」

「 こらこら、一体なんの話だい、なんでもいいから早く姉上の居場所を教えておくれ。」

「 それにこれは又お珍しい、バシュラ様、やっとおいでくだすった、やれやれ、何度お手紙をお届けした事やら、わたくしはちゃんと憶えておりますからね、それにお返事をくださったのは精々十回に一度、それもたったの一行か二行、しかもお断りの下手糞な言い訳ばかり、これではリューニス様があんまりおかわいそうですよ。」

「 なあ、チュリス、お小言なら直接姉上から頂くからね、おまえにまで嫌味を言われるんじゃこっちはたまったもんじゃない、いい加減に、おいこら、どこへ行 」

少年は茫然と突っ立っている二人の間をすり抜け大回廊をさっさと戻り始めた。しかしすぐに振り向きざま軒下に連なる無数の吊り燈篭へと手を振った。

「 もう、こいつらに命を与えてやる時間ですからね、火を取ってきます。こう見えてもわたくしはとっても忙しいんです。リューニス様は西の築山の送月亭におられます。お車の用意が出来ていますとお伝えください。」

「 お車って、あのなぁ、今頃から一体・・・」

「 乾門の車寄せですからね、それじゃ頼みましたよ。」

簡潔に言い残すと少年は素早く姿を消してしまった。二人は顔を見合わせた。

「 しょうがないな、とにかく行ってみよう。姉上から何か聞きだせるだろう・・・ 」

二人は再び庭園へ降り、果樹園を抜け、近道になっている養魚池にかかる小さな木橋を渡った。低い木立の間の小道を登ってゆくとそちこちの木蔭に夕闇の濃い溜りが広がり、純白のぽってりとした五弁の花が浮き出すように開き始めている。辺りには懐かしい芳香が満ちていた。早咲きの茉莉花ジャスミンだった。無数の夜蛾※の羽音が、酔い痴れた黄金虫※どもの結婚飛行の羽搏きが、痺れるような通奏低音となって春の夜の空間を満たしている。


<※烏蛾の一種、ゴウネムクロカラスガ。明るい昼間に飛ぶ種類もある>

<※コフキコガネの近縁種。巨大な扇形の触角を持つ。>


暮れ残った空は深い藍色のヴェールを降ろしかけていたけれども豪奢な夕焼けの名残がまだお互いの顔を照らし出し、その表情を読む事は出来た。幼いころのともに遊んだ記憶が、緩やかな丘の起伏や小道のカーヴのすべてに、草叢の中に半ば隠れた石像ども ―異教の蕃神もあれば土地の聖霊を証しする石人達の姿もある― の一々についても、甘い水の流れのように纏わり付き途切れる事がない。ガイすらも日頃の饒舌を忘れ無口だった。疾うに花の終った桃の木立を抜けて行くとまだ明るいテラスに出た。その小高い崖っぷちにいささか危なっかしく華奢な造りの東屋が建ち目指す人は手摺に頬杖をついたまま一心に空を眺めている。二人はほとんど足音も立てなかったのでリューニス・グロムハインは全く無防備なままだった。但しその自然な、全然他人の目を意識しない姿態には宮廷の社交界では絶対に存在し得ない、なんとも不可思議な魅力があった。そもそもリューニス自身がそのことにまるで気付いていなかったから、それは要するに、父親である風流大臣に言わせると全く無意味な価値なのである。けれどもこの暢気な姉娘は一向に平気で、宮廷社会からそのように見なされることはむしろ願ったりかなったりなのであった。勿論、名門の子女の常として宮仕えの仕来りから逃れる事はできず、いやいやながら一度は出仕したのである。しかし結果は、本人にとっては散々なもので一年にも満たぬうちにすっかり弱ってしまい、グロムハイン伯は大骨を折って娘を退出させねばならなかったのであった。後に残ったものといえば、すこうし、頭の方が弱いのではないかしらんという些か見当外れな評判と疑惑(かげぐちのさざめき)、二三人ばかしの、これまた宮廷内では変り種と見なされている選り抜き!の貴婦人たちとの奇妙な友情の残香である。そして無論リューニスにとっては、その後者の方がずっと大切なのだった。

二人同時に声をかけたので振り返った姉娘の目には一瞬虚を突かれたような驚きが浮かんだけれども直ぐに大層嬉しそうに立ち上がり挨拶を返した。ほとんど飾り気のない地味な紺色のドレスと共色のケープという出で立ち、黒のチョーカーにとまった銀の蜜蜂が唯一の装身具であるがそのすらりとした立姿はさすがに美しい。三人はそのまま露台の欄干に寄り、揃って深い藍色の空に見入る形となった。暫くは誰も口を開かず特にバシュラ・フェズは半ば茫然と讃嘆の念に浸されていたので、ガイが遂に痺れを切らせて沈黙を破った時には殆んどこの訪問の要件を忘れかけていたほどだった。リューニスは非常に注意深く弟の話を聞いた。ガイの説明は何故かわざとらしくこんがらがっているようにバシュラには思われたがやはり口出しは控えた。聞き終った姉娘はほっと溜息をついたけれども、その視線は終始深い紺碧の空の彼方へと彷徨い勝ちであったし、春のそよ風の息吹にも似た嘆息以外返事も無く、およそこれほど手応えの無い相談相手もあるまいと思われた。ガイは、弟の苦境にこれほど冷淡なのは姉の性格に何か欠陥があるからとしか思えない、宮廷人の噂話や評判記に万が一の真実を探る事はあながち間違いとも思われないなどと、些か公平を欠く当て擦りを始めた。それがガイ一流の戦術的虚言であることがわかってはいてもバシュラはなぜか無闇に腹が立ってきた。弟の暴言にも抗弁する気配すらなく、ほんの少し悲しげに微笑するだけのリューニス・グロムハインが殆んど痛ましくさえ感じられた。この浮世離れした娘を、あのセリナ・スヌーンと対比するなど、それこそありうべからざる冒涜行為であると思われるのである。しかしリューニスはバシュラの目の光にはっとしたようだった。慌てたように弟の言葉を遮った。

「 でも私にできることなんてあるのかしら? 」

「 ですから、何度も言いましたよ姉上、姉上はどういう訳かマイラ殿とは気が合われていたでしょう、さすがのセリナ殿も母君の言葉には耳を貸すでしょうし、とにかく僕達に釈明の機会を作って下さればよろしいのです。」

「 でもね、ガイ、マイラ様はこの間も娘と大喧嘩して絶交中だとかおっしゃってたし、それにほら、今は丁度大祭期でここにはおられないのよ。」

「 またですか、で、今回はどこのお寺に籠もられてるんです? 」

「 確かエルマー大廟とかおっしゃってた。」

「 なんだ、すぐ近くじゃないですか。今から伺いませんか、丁度車の、あっ! 忘れてました、チュリスから伝言があったんです、車の用意ができてるってことですが、そうだ、姉上、 一体今頃からどこへお出かけの御積もりだったんですか? 」

「 大変!すっかり忘れてたわ。」

しかし、その言葉とは裏腹に姉娘の仕草には微塵も慌てた風などなく、それどころか相変らず目線の方はきらめき始めた夕星やその背後の無限の深淵、天文薄明との定かならぬ境界へと吸い寄せられているらしい。

「 一体何なんです? 」

「 ほら、二人とも見て! この頃変なのよ、あの夕空の向う、何かしら?何かあるように見えない? 」

二人とも素直に目を凝らしてみた。けれども何の変哲もない夕空である。但しこれは毎日同じ空を注意深く眺めている人間にしかわからぬことであるが、この日、太陽の最後の燐光が消え去りつつある極僅かな時間帯、西の天末線から天頂を蔽った青い光の壁は言語に絶する澄明さを帯び、言葉の本来の意味におけるエーテル ― かの神性のアイテルのみが保持する霊気を放射していた。その青は急速に薄れてはいったのだがその一瞬の頂点において、そこに、全き同じ一瞬間、震える心を繋ぎとめえた者にのみ、ある極度の哀しみ、或は ― この感情を描写し得る言葉は存在し得ない ― 心臓を直接引き裂き絞り尽くすような切ない歓喜の精髄を贈ったのである。〔この極度に捕捉困難な、矛盾に満ちた感情の実在こそが、この世界と他界とを結ぶ唯一の鍵であるとも言えるのである〕

茫然と立ち尽くすリューニスを見守る二人の少年は、しかしお互い全然別のことを考えていたらしい。もう相手の表情を窺うことはできないほど暗くなってはいたけれどもお互いの気配を読み違えるはずもなかったのである。少なくともバシュラ・フェズは、乳兄弟たるガイ・グロムハインに対して二重の複雑な感情を抱かざるを得なかった。

「 さあ、姉上、もう行きましょう。後は暗くなるばかりですよ、チュリスがそろそろ痺れを切らせている頃です。」

「 私にも何も見えませんね、ただとても綺麗な空だとは思いますけど・・・ 」

「 ほんとに不思議な感じなんだけど、ああ、なんだかとてもつらい・・・・・・ 」

三人とも黙り込んでしまい、そのまま丘の北斜面を廻り松の疎林を抜けて西の馬場へと下って行った。途中何度も躓きかけては、脱げかけたサンダルを直していた姉娘を弟は無視してどんどん先へ行ってしまう。バシュラは何度かリューニスに手を貸し、しまいには古い藜の茎で杖を作り進呈する。〔ガルデンジーブスハソノ切口ガ気ニナル トネリコの古枝?〕

「 私何だかおばあさんになったような変な気分だわ、どうしたのかしら? 膝の力が抜けてしまったみたい・・・」

バシュラは応えず、乾いた砂地を踏む二人の足音を聞きながらこんな時何も気の利いた科白を吐けない自分は(グロムハイン流に言えば)宮廷人失格なのだろうか、と考えた。

―わが一族の役目、否、一族というのは正確ではない、この力は血に依存しているわけではないからな、わが力と端的に言うべきだろう、これは、神学の言葉を借るとすると〝絶対の探求〟とでも称すべきか・・・王国とその真髄たる王家を守護し、あまつさえ厄介極まる五星公の中核、扇の要としてその力の中心点、否、消尽点として機能する、限りなくネガティーフ、限りなく透明、そして限りなく・・・ 無・・・ わが力がその真の姿を現すことは決してない・・・ ― 父ムザラの言葉はいつも謎だったが、今この時、リューニス・グロムハインの果敢なき肉体の傍らで、バシュラ・フェズの心は微かに乱れるのだった。

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