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第1巻第1部第26節 「ベオリグ・バスマンのひととなり ゼノワとヨナルク 王宮桟橋にて」

辺りは闇に沈んでいた。男もロバも、もはや何んの光も発してはいなかった。ただ二人の鼻息だけが微かに白い水蒸気となってはかなく消え去るのみだった。すると突然、黙り込んでいたロバが口を開いた。

「 さっきからずっと不思議に思ってたんですけど・・・ 」

ロバは、すこし頭を上げ、耳をぱたりと動かした。

「 バスマン様は今頃どこで何をなさってるんでしょう。もちろん、御主人様が元の姿と力を取り戻されたことは、とっくに、つまり、即時的に、察知されてはいるのでしょうけど・・・ 」

― なかなか痛いところを突いてくる奴だ、話題を替えましょうというわけだな ―

しかし、これは一笑に付してしまえる簡単な問題ではなかった。それでもヨナルクは、このちょっとした問題のすり替えを歓迎したい気分だった。イヨルカの真意をちらりと疑いはしたが、その口調は無邪気そのもので、無私の心配に溢れたものであることは確かだった。

「 そのことを考えなかった日は一日もない。そして、バスマンがいまだ健在で、僕の行動をそれとなく見守っているということも大いにあり得る話だ。」

「 もう一度あなたの力を封じに、それどころか今度は完全に抹殺するためにやって来るんじゃないでしょうか。 」

「 どうもそういったことは考えにくいね、イヨルカ! 殺しに来るのならもっと早い時期に、僕が、ゼノワに見出されて両手を血に染め出した頃にでも、さっさとやって来たはずだ、それにもう、今となっては・・・ 」

ヨナルクの口元には不敵な、凶々しい笑みが浮かんだように見えた。

「 いかにバスマンとても、今の僕とまともにやりあっては、(あの時のように)一方的な勝ち目があるわけでもないだろうしね。」

「 そうかしら? でも大した自信だわ! 」

「 いやにつっかかるね、イヨルカ、何が言いたいんだい? 」

「 でも、バスマン様があなたのことをちゃんと見張ってるってことは大いにありそうなことだのに(なにしろ、あなたの悪名は全世界に轟いてますしね)、あなたは、バスマン様の存在の痕跡さえ知ることができないじゃないですか。」

「 勿論その通りだ、けれどもこのことは逆に、バスマンが完全にこの世に興味を無くし、一切の現世的関わりから身を引いて、どこか人跡未踏の山奥で静かに星でも眺めて暮らしているんじゃないだろうかとも思わせるわけだ。我が師には昔からそういう傾向が強かった。バスマンは、王侯や武人と渡り合うよりも星を見たり小鳥と話したりしている方がよほど楽しいらしかったからね。そうしてそういった浮世離れした隠遁生活を送っている限り、さすがの僕にもその居所を察知する事はまず無理だ。大昔、自分の純粋な楽しみの為だけに、月の軌道を捻じ曲げたとんでもない魔法使いがいたらしいけど、もしそんな馬鹿げた気紛れを起こしでもしてくれたら、たとえ無限の深淵を隔てていようとも、すぐにその存在を感知する事ができるんだがなあ。」

ヨナルクの胸には再び奇妙な感傷が溢れ、積年の怨念までをも遂には洗い流しかねない勢いだった。その回想の中で、ベオリグ・バスマンの姿は飽く迄も優しく、その生活においては、緑乏しい裏庭の小鳥を愛し、溝板の下のコオロギたちと哲学的会話を交わして倦む事を知らず、ゼノワ・ワルトランディスやグラーム・ドルカニのような強大な王侯貴族とその絢爛たる一族には洟もひっかけなかったのである。ベオリグ・バスマンの瘠せた頬に浮かぶ消えることのない微笑は、確かに当時、若いヨナルクを際限なく苛立たせたのだった。

けれども、その姿は、荒れた海沿いの崖に立つ、一本の喬木※と正確に一致するのであった。


<※このイメジは注目に値するし、ヨナルクの内面を無意識に規定している可能性さえある、事実後年、バスマン探索に出発したヨナルクが、まず目指したのは、荒涼たる南部海岸地方だった>


それは、ほっそりと、たおやかに立ち、海側から、あるいは山の方から、どのような嵐が押し寄せてきても、常にその中心にあって美しい枝を震わせていた。それ故嵐は、この孤独な一本の木からこそ生み出され渦巻いているようにも見えた。その気高い枝組みの下では、多くの小鳥たちが身を寄せ合って眠り、緑の葉の一枚一枚には、宝石のように輝く甲虫どもが我が家を主張して不安に慄くことがなかった。<この木は実在する01>

ヨナルクに出会う遥か以前から、ベオリグ・バスマンは既にして完結した小宇宙、いや、この森羅万象すべてを映し出す完全な鏡であり、もし神があるとするならば、そのアナロジーとしては最も完璧な、ひとつの円球だった。但し、どこにも中心がなく、又周辺さえも存在しない、あの古代ギリシア人たちが純粋思考の中でのみ構築した完全なスパイロス※だった。


<※アグリゲントのエムペドクレスによると、周辺の孤独と、ただ、風を喜ぶスパイロス、― 球・・・ である>


そしてそれは、その本質上必然的に孤独を好むのであり、バスマンが、十五年の長きにわたってヨナルクを養育し続けたという事実は、表面的には非常に驚くべき事だった。そうして〔お次には〕これも又ギリシア的な神々の属性だとでもいうのであろうか、突然その絆を断ち切り、自らの半身ともいうべき存在を無慈悲にも、完全な武装解除の状態で混沌の中へと置き去りにしたのだった。★そこには何らかの深い意図が存在したはずだという点については、ゼノワもヨナルクも同意見だったが、いかにこの二人をもってしてもその深淵を測り切ることはできなかったのである。

「 いくらここで議論をしてみたところで・・・ 」

と、ゼノワはいまだ若々しい美しい頬に苦笑いを浮かべながら言うのだった。

「 全くの暇潰しになる他はないし、お互いそう時間に余裕のある立場でもありませんからね。こうなったらバスマン自身を探し出し、直接問い質してみるのが次善の策だということになりそうね。」

「 それが可能なら、今頃こんなところでのんびりとはしておりませんよ。」

ヨナルクは苦々しげに答え、ゼノワの足元のクッションから立ち上がった。

「 そんなに難しいことかしらね。」

テラスの縁石に寄りかかり、苛立たしげに蔦の葉の一枚を毟り取ろうとしていたヨナルクにじっと視線を注ぎながら、ゼノワは再び微笑んだ。その表情は公的な場や、恐らくは実の息子であるバルダモの前でさえも決して見せたことのない、少女のように初々しく、且つ又老練な乳母のように叡知に富んだ、なんとも優しげなものだった。

「 あなたはベオリグ・バスマンという人を御存知無い。」

ヨナルクはますますぶっきらぼうに、ほとんど喧嘩腰といってもいい口調で答える。

「 何しろ、嘗て、あの男を自分の玉座の下に呼びつけ跪かせうると考えたほど無知なのだから。いやはや、知らないということは最高の強さにもつながるわけだ。」

「 ヨナルク! あなたの言葉は正確ではないわね、それにわたしは、バスマンを呼びつけたこともなければ、臣下の一人に加えることが出来るなどと考えたことも一度だってないわよ。」

「 それは言葉の綾というものでしょう。僕にはわかっていましたよ。あなたは右側の玉座を薦めたけれども、そこに座ったが最後、たちまちおどろおどろしい手枷足枷がとび出し、おまけに背中には毒針までもが押し当てられるだろうってね。」

「 わたしがそんなつまらない人間に見えてたの? 」

「 もちろん、僕は若くて未経験だったし、宮廷世界というものをひどく誇張して考えてた。それは認めます。」

「 なんだかひどく曖昧なのね。」

「 バスマンはもっと哲学的に判断していたらしい・・・ 」

ヨナルクはすこし赤くなり、ゼノワから顔を背けて下界を見下ろした。眼下ではボレナの河面に昼下がりの物憂い陽光が煌めき、旧市街の古ぼけた褐色の家並の上にはぼんやりと昼餉の霞みがかかっている。赤の城の直下、エルブ河との合流点では、一気に広がった広大な河面に大小様々の漁船がのどかに浮かび、巨大な交易船は慎重に水路を選びつつ錯綜した航跡を描いて行く。 パスト・ウィート配下の水先案内人たちの怒号が、風に乗りきれぎれに、こんな高所にまで届くのはしかしさほど珍しい事ではない。

「 ヨナルク、あなたは自分で考えてるほどバスマンに似ていないわけではないようよ。」

「 そうかな。」

「 少なくとも今のあなたは十分に哲学的だわ。」

「 又、僕をからかって楽しんでいるんだな、ひどい人だ、けれども長い間こういった世界に住みつき、ただ言葉を操るのみで人の生死を左右してきた人間というものは必然的にこういった傾向に陥るのである。しかしそれは、常に上位者の顔色を窺わねばならぬ廷臣たちが喜んで罹っている病気の一種であり、あなたのような至上者がこういった空虚な言辞を弄する事は一層空虚であり、且つ又愚かしい事だ、ゆえに、」

「 もういいわよ、わかったわ。」

ゼノワ・ワルトランディスは笑った。恐ろしく質素で、頑丈な、一見してワッティスの木こりたちの手仕事とわかる不思議な形の肘掛け椅子の中で、さもおかしげに身を捩った。しかしすぐに真顔になり、時とあれば数十に及ぶ大諸侯を震え上がらせもする、絶対の支配者としての威厳を、その強烈な意志力を秘めた口元に浮かべた。

「 何が望みなの?」

「 暫しお暇をいただきたいのです。」

「 バスマンを探し出すつもりなの?」

「 まあ、そういったところですね。」

ゼノワの額にかすかな悲しみの影が差した。けれども途方もない意志の力がすぐにそれを打ち消したようだった。

「 どれくらいかかるの?」

「 一年か、恐らくは二年ばかり・・・」

「 長すぎるわ。」

ゼノワは身を起こすと、まるでうら若い小娘のように、不服げに頬を膨らませた。ヨナルクは苦笑いで誤魔化そうとしたが女はそれを許さなかった。

「 とにかく、今は時期が悪すぎるわ。」

「 帝国の現状をお考えならそれは杞憂というものです。それに僕がお仕えする以前でも、あなたのドレスの衣擦れの音だけで大諸侯どもは震え上がっていた。あなたが右手を上げ、その鋼鉄のステッキ※を一振りすると六つの大公国が血の気を失い慌てふためいて新しい人質を送り届けてきた。


<※正確には、クロド鋼の鍛造品であり世に数本しか存在しない代物である>


あなたの政策は完璧で、ガルガン=ギディアとメチゾホライモン、両都市連合は共食いをして共倒れ、バイバルシュ・タイレモン・リンドソムニア三国は同盟の意欲を失った。貿易は十倍の規模となり、税収は国庫に溢れかえり、帝室騎士団の精強さは史上最高、」

「 そして正面切って歯向かう事は誰もしなくなったかわりに陰謀が幅を利かせ、毒殺や謀殺が横行し、陰険で薄汚いヤカラばかりが貴族面をしてふんぞりかえっているわ、でもすべてはわたしの招き寄せた果実で文句をつける筋合いではないけど、けれども私は不安だった、どんな強固な意志も、時として挫かれることがある、敵の中にも恐ろしく扱いにくい、手強い者がある・・・」

「 けれどもあなたは、そのすべてをたった一人で乗り切ってきた、僕の手助けなど全然必要なかった、これまでもそうだし、これからもずっとそうでしょう・・・」

「 国政に関してはあなたの言う通りかもしれない、でも未来のことは誰にもわからない、少なくとも一義的に決定されているわけではない、そうあなたは言ったわね、そうしてそこから先の、あなたの言う幻影的な領域では、この私は無力な一人の女でしかない、そこではあなたの力こそが唯一絶対のものだわ。」

「 やっぱりあなたは誤解しているな。」

ヨナルクは苛立たしげに首を振り、肘掛け椅子の女帝に面と向かった。

「 いいえ、私は間違ってはいないわ、あなたは私の切り札であり、又、それ以上のものよ、とにかく今あなたを失うわけにはゆかない。」

「 一寸の間留守をするだけです。」

「 一年もあなたなしではやってゆけない。」

「 二、三年かかると思ってください。」

「 まあ、なんて恥知らずな嘘つき! さっきは二年って言ったのに・・」

「 ほとんど全世界を、氷山の頂きから噴火口の底、人跡未踏の大森林と場末の貧民窟、砂漠と湿地帯、貿易船の最下層船倉と隊商宿の馬小屋、その飼葉桶の陰、ありとあらゆる場所を覗き尽し極め尽さねばならない※。三年でも短すぎるくらいだ。」


<※この滑稽な羅列には何か不可思議なものが潜んでいる。恐らくバスマンその人と同時にその魔方陣の探索をも念頭においていたのだろう。また、厄介極まる五星公の力の本質とその起源の追求という意味合いも・・・>


「 それでは出発をもう少しだけ延ばして頂戴。せめてこの秋のラゼナの出産を見極めてから・・・ バルダモはあの通り相変らずだし、たとえ今度は両足の無い子どもが生まれて来たって世継ぎにすると言ってきかないでしょう。」

男は、ゼノワの年齢を感じさせない若々しくうっすらと上気した顔を見返した。なるほどそこには幾本もの深い皺、様々な形をした老年性の染み、それに微かな傷跡※さえ見出すことができたが、そのどれもが至高の女帝としての品位を貶めるどころか、比類の無い高貴な輝きを付け加える複雑極まりない生ける紋章の構成体として厳密に配置され或は発現しているとも言い得るのである。その底深い表情には、内面の力によって老いを超越しえたものにのみ可能な一種不可思議な生命力が、仄かな光を帯びて滲み出ているようでもあった。


<※この傷の来歴については、ゼノワとヨナルクの出会いのあった一夜「鉛の夜」が語られるべきだろう>



男の視線には、限りない冷徹さと同時に深い讃嘆の感情がこもっていたから、ゼノワはその無遠慮な長い沈黙を許した。しかし、トゥレマルクの高楼に巣食う数家族の雀がすぐ足元の屋根の上で大騒ぎを始め、その賑やかな囀りは時間の観念を呼び戻したのだった。女は再び不安に駆られた。

「 さあ、ヨナルク、約束して頂戴、少なくとも第一継承権者が確定するまでは決してこのルシャルクを離れない、と。」

「 僕は、いつでも、好きな時に、ここを出て行きます。」

ヨナルクは、まるで第七学科の公理を暗唱する学生のように、さらりと、そして幾分意固地な調子で言ってのけた。ゼノワは顔色ひとつ変えず、無言のまま立ち上がった。ゆっくりと、大またに、テラスの端に歩み寄り、午後の暖かい光を受けて大きく胸を広げ深呼吸をした。それは何か巨大な桎梏から解放されたものが、その自由を確かめる為に無意識の裡に行う動作のようだった。無論、帝国広しと言えども、ゼノワ・ワルトランディスに面と向い、自分の意地を押し通す啖呵を切ることができる人間など他に存在するはずもないのだった。無知と蛮勇だけが、恐らくは同じ事を試みるだろうが、処刑台への最短通路が大口を開けて待っているだけの事だろう。ゼノワは、自分を軽んずる者を決して容赦しなかった。そうしてこういった行為と決断の長い連鎖は、邪悪の見本市ともいうべきとんでもなく庶民的な、見方によっては滑稽な渾名の数々を必然的に引き寄せもしたのだが、それもあながち的外れとばかりは言えなかったのである。しかしとにかく、ヨナルクだけは唯一の例外なのであった。そしてこのきっぱりとした拒否の言葉は、なんともいえない清涼の空気をゼノワの胸に送りこむのだった。この世で唯一、自分の意のままにならぬ存在、それは時として、どんな不老長寿の薬にも勝る若返りの特効薬となることがある。

しかし、この時のゼノワの不安は、いつになく根深いものだった。偉大な女帝は、極度に抑制された意志的な動作で、ごくゆっくり二度、三度とテラスの上を往復した。ヨナルクは、その衣擦れの音に聞き入りながら、目は、眼下のボレナ河へと落としていた。四度目、ゼノワはヨナルクの側らで立ち止まり、同じように欄干に凭れ掛かった。

「 何かおもしろいものでも見えて? 」

軽い非難のこもった質問には答えず、ヨナルクは首を振った。但し目は、ボレナ河を溯る一隻の大型艦を追っていた。それは帝室直衛隊の新造戦艦だった。

「 バルダモが帰ってきたようね、全く、あの子の戦闘気違い、狩猟気違いにも困ったものだわ。」

美々しく飾りたてられたお召し艦は、やがて赤の城の足元を洗う二つの大河の合流点、巨大な岩盤が剥き出しになり、その一部を水平に削り取って船着場とした王宮専用桟橋に横付けとなった。

「 私も遠目が利くようになったわ、こんなに遠くからでもあの馬鹿な連中が(忌々しいけど)よく見える。剣闘気違いのフェズ伯は当然として、あら、今日は珍しいのがくっついているわね。」

ヨナルクも目を凝らした。巨大な戦艦の鈍重に膨らんだ横っ腹から広大な桟橋へと次から次に多量の戦隊が吐き出されていた。恐らくかなり大規模な追い込み猟の為に駆り出された、直衛旅団の非番の連中だろうと思われた。色取り取りの狩衣や旗指物が、漸く傾きかけた太陽に向い、誇らしげに輝き翻っている。中でも一際目立っていたのは、赤と緑と黄色という甚だ突飛な配色のマントを翻し、小脇には黄金の筒型冑を抱えた男で、これは色好みで有名なグロムハイン伯の姿だった。

「 今日までどこをほっつき回って来たのやら、それにあまり大した獲物もなさそうね。」

「 ヴィヨンの森の近くまで行き、狼狩りをやってきたらしい。」

「 やっぱりあなたはちゃんと知ってたわけね、私には一言も報告が無くてよ。」

「 いや、前もって言い置いて行かれたとしても、その通りに行動された事は滅多に無いお方だから。」

ヨナルクは忌々しげに呟き、目を逸らした。ゼノワはすぐに地名の意味に気付いた。

「 あの子を置いてきたのはその森だったわね。」

「 美しい、豊かな土地だった。」

「 私の命令を憾んでいるのね、無慈悲な女だと軽蔑してるんでしょ。」

「 そうかもしれない。」

頑なに顔を背けたまま、ヨナルクは短く応えた。

「 あなたの予言・・・ じゃなくて、予見心像は、明晰判明だったはずだわ。」

「 しかし、決定を下したのはあなただ。」

「 でもあなたもその方がいいって言った。」

「 ばかなことを! 僕には責任なんてない、又、いかなる義務とてもない。」

「 予見者なんて気楽なものね、酷い話だわ全く、悪評を蒙るのはいつも私一人! 」

「 俗世間の評判は大切にした方がいい。」

「 吸血鬼よ! この前の、あの大道芸人の口上をあなたも聞いたでしょ、吸血鬼ババアとかなんとか!」

「 申し分なく立派なものさ! 」

「 からかっていたのね、なんて酷い男! 腐れ魔道師! 」

二人は今更のように顔を見合わし、お互いの瞳の奥に全く相等しい微笑が浮かんでいるのを見た。二人は堪らず噴き出し、大いに笑った。

「 あなたはやはり黒衣の聖母だな。」

「 あなたこそ、大した聖者だわ。」

やがてどちらからともなく距離を取り、生真面目な表情を取繕った。この高所では、誰にも見られる心配などなかったのだが・・・ 暫しの沈黙の後、ヨナルクが口を切った。

「 ゼノワ・ワルトランディス! 貴方の真の姿、いや、それも又ある一面だけなのだろう、それを知るのが僕一人だけだというのは喜ぶべき事なのか、悲しむべき事なのか、大いに判断に迷うところだ、けれどもこれだけは言える、例えば大列侯会議の席上でもいい、貴方が突然立ち上がり、場末の料理女めく早口でマイソート公のあのとんでもない髪型を見苦しいと決め付ける、その鬘を取れ!と命令する、するとどうなるか?」

「 ちょいとおもしろいことになりそうね。」 ゼノワは心底楽しそうに笑った。

「 大臣どもの阿呆面が手に取るように見える、たちまち乱心したと見なされ、息子である八世陛下は喜んで私を幽閉しようとするでしょうね。」

「 最初はこわごわ、いかにもおっかなびっくりという風にね。」

ヨナルクはある仕草をして見せたが、それはバルダモ・ワルトランディス八世の、この偉大な母后に対するいかにも屈折した心情をよく表していた。ゼノワはいつまでも笑い続けていたが、やがて目に涙を溜めたままヨナルクの手を取った。

「 でも、それは・・・・・・ 不可能だわ。」

「 まさにその通り、けれども僕は、はっきりと言おう、あなたは本当のところ女王陛下なんぞという代物には全く向いてはいないお人だ、そうして、あなたは・・・母親としても、失格だ。」

ゼノワは、これら奇怪極まる、見方によっては無礼千万な物言いが、一体如何なる洞察を通過して出てきたものなのか、すぐには理解できなかった。けれどもこの強力な予見者、全く想像を越えた超絶的な力を持つ男が、いかなる幸運な偶然から自分の足下に身を寄せる事になったのか、その原因を、自己に有利な局面でのみ、勝手に想像して満足するほど愚かではなく、又、自動反応として表面に浮かび出る感情の類には一切信を置かないという、ほとんど女性*には稀有なる賢明さをも兼備えていたので、暫しの沈黙を守る事によって心の平衡を保ったのだった。事実上顔色一つ変えなかったといってよい。ヨナルクは、相変らず数学上の定理を証明する口振りで、けれども深い讃嘆の念を込めて続けた。


<*この限定には疑義があるし、恐らくゼノワならずとも眉をひそめざるをえない馬鹿げた評言の類いであると見なさざるを得ない、しかし、原記者がコオロギであることを考慮する必要もありそうではある>


「ゼノワ、貴方の心は、この地上に存在する如何なる関係と縛られるにしても(それは不可避のことだけども)あまりに大きすぎる、なるほど貴方は一人の女性で、かなり年も取り、肉体は衰滅の兆しを隠そうともしていない・・・ 


[この間あるひとつのイデーアが抜けている

補完には時間がかかりそうだ]


貴方は、僕が時々用いているような、ある意味では自然の理法を無視したような法外な力を持ち合わせてはいない、そのことを羨んだりしているけども、それは大きな間違いだ。僕がこれまで、直接貴方の未来を予見する事を拒み続けてきた理由の一つはそこにある・・・・・ 」

沈黙が落ち、二人は寄り添ったまま彼方の桟橋に再び注意を向けた。城内からは出迎えの人員がさらに繰り出し、一層混雑を極めていた。総理大臣と武器庫長の二人が中心になり、獲物の仕分けと公評が行われているらしい。いかにもマイソート公らしいせっかちなやり方だったが、晩春の陽光を浴び、そよ風に吹かれながらのその作業はなるほど、薄暗く黴臭い大広間に似つかわしいものではない事も確かだった。

相変らず、奥付きの女官たちの姿、それに肝心の王妃の姿は見当たらない。

但しグロムハインの紋章を掲げた天幕の周りではひときわ艶やかな貴婦人たちの

一団がさんざめいているのはいつものことである。一方、例の風流大臣の姿は、どういう訳か消え失せてしまっていて、これはいささか奇妙な事なのであった。

ゼノワ・ワルトランディスは、息子を中心にして繰り広げられている、およそ馬鹿ばかしい乱痴気騒ぎを幾分冷

やかに見下ろしていたが、その厳しい口元にはやがてひとつの微笑が浮かび始めた。偉大な女性の知力とはかかる働きをするものであり、凡俗のヤカラのよく測りうるところではないが、ヨナルクとてその心の動きには往々にして驚きを隠さなかったほどなのである。しかし、この男の理解力は正確だった。

「 あなたの言うことはいつも謎なのね、それともただの言い訳かしら? 」

男は、空間を降下しつつ猛烈に渦巻く巨大な太陽の放射にちらと目を走らせた。

「 言い訳と取って下さっても結構ですよ。」

「 あなたが出し惜しみをしたりするような、そんな人間ではないことはわかっているつもりだけど・・・」

「 論理的に行える推測と予見とは、まったくもって似て非なるものです。」

「 あなたはあの子の未来を見た、と言ったし、どんな危険も無いともはっきり言ったわね、けれども私の未来に関しては一切黙して語ろうとしない・・・」

「 あの子は特別だった。」

暫しの沈黙の後、ヨナルクは深い嘆息と共に答えた。

「 予見心像の混乱と変動は、対象に内在する、或は連関する力に応じてまさに千変万化、およそ確定するということはありえない、しかし、あの子は・・・ いや、あの子の未来には、ほんのすこしの影さえも見えなかった。」

「 ひじょうに特殊なケースでしかないというわけね。」

「 そうらしい、確かに、他ならぬ貴方の孫であり、バルダモ様の娘であるのだから、尋常一様の運命であるはずがない、にもかかわらず、にもかかわらず・・・」

「 あまりにも単純、そして安定しすぎていたと言う訳?」

「 そう、まさに、そして、この予見の中には、第一継承権者としてのベクトルは全く存在していなかった。あの子は、全く裸の存在だった、そして、すべては、全てのベクトルは、ある一つのヴィジョンに収斂して行くのがわかった。」

再び、足下の屋根瓦の上で雀どもが騒ぎ始めた。まだまだ足元のひょろつく、口ばかりでっかい小雀たちがちょろちょろの羽を震わせ、さかんに餌をねだっている。

親雀たちは目の回る忙しさだ。親同士激しい喧嘩までもちあがる。

「 解釈の余地はひとつしかなかった。この子を王室に留めれば、これら全てが失われる事は明白だった。そして愛の対極にあるものが憎しみであること、平和が失われるところには破壊しかないことは明々白々な事実だ。」

「 あの時、あなたが徹頭徹尾、非政治的局外者として忠告してくれた事はわかっていた。不思議な事に、棄てられるあの子が幸せになるだろうことは、この私にさえ素直に納得できた。そして、あの片足の不具が、王家の慣習法に照らして全くうってつけの口実となることなどまるで付け足しのことのように思えた。」

「 それに関しては両様に解釈できる。しかし、どちらにしても同じことなのだ、あの萎えた足が運命そのものであるとすれば、それはそうなのだし、足がどうであろうと、あの子はあの子であったかもしれない、しかし、事実の方を尊重すべきだろう。」

ゼノワはくつくつと笑った。

「 あなたの口振りを聞いていると・・・ とても即物的で冷たいけど、でも王家の娘の父親としてはバルダモよりはよほどふさわしいように思えるわ。」

「 王としてはともかく、父親としては当然の反応だったと考えておあげなさい。」

「 あれ以来ますますひどくなっている。狩りと武技、この二つの事しかあれの頭には無い。武技に関してはもはや気狂いじみた領域にまで踏み込んでいるとしか思えない。」

「 強くなって悪い事は無い、王者としては喜ばしいことだ。」

「 限度ってものがあるはず、あのフェズ伯とまともに撃ち合えるなんて正気の沙汰じゃないわ。」

「 まさか、そこまでとは思えないが・・・ いや、将軍とて手加減はしているはず・・・ 」

「 どうだか、あれはとっくに狂気の領域に入っていますからね、自分の息子の左手を切り落としたというのは真実なのですよ、そして恐ろしいことにその息子は、父親を超え、さらに強くなっているらしい、ムザラは近々、五星公の位をバシュラに譲るつもりらしいわ、前代未聞の若さですよ、正式に譲るからには息子が五星会闘式を切り抜けるはずだと見切っているのでしょ! 」

「 それが事実だとすれば、大変な力の持主だということになる、バシュラ・フェズは確かまだ十三歳位の少年のはずだ。」

「 ほら、あそこにいるわ、あの左手の青い長手套、誰もあの下にあるものの実体を知らないけど、尋常一様の義手ではないことだけは確かなようね。いつだったか、わたしが儀典上の礼式にかこつけて命令してみても絶対に取ろうとはしなかった。相変らずグロムハインの息子とつるんでいる、おや、セリナが出てきた。ふん、妙に大人しい格好じゃないか。」

確かに、老境に入りかけたゼノワは、また一段と目が鋭くなったようだった。酷くごった返している桟橋の上で、色とりどりの男女の衣装が乱れ動く中に、しっかりとした顔立ちの、小柄で地味な服装の少女が一人、人ごみを掻き分けながらバルダモのテントに近付こうとしていた。その勢いにはどうやら当るべからざるものがあるらしく、人々は驚き慌てながら道を空けているのである。

途中挿入されている★印につきまして若干の補足、即ち、

→★=本来ならば、ここには、「*   *   *」の時空跳躍記号=段落分け記号が

入るべきはずでありますが、原文ではパラフラフは途切れなく続いており

意図的な連続性を表しているものと判断いたします。このように地の文の中(会話文の中でさえ起こりうる)などで無段階変化的に滑らかに物語の位相、時系列の遷移が起こることは、この作品の中では屡々起こりますのでご注意いただけましたら幸いです。とにもかくにも、ここからまた、長い長い脱線となり、アトゥーラ(ヒロインです!)誕生以前の過去噺が延々と続くようです。時系列的には、誕生年の晩春、物語の主系列であるロバ騎行の始まりより数ヵ月手前のある一日を拡大し再構成しているようなのです。しかし、シャリー・ビョルバム曰く、

「我がヒロイン、誕生以前!ではあるが、存在以前ではないことに注意すべきである、なんとなれば、我が主は、この時既にラゼナの母胎内にあり、この世・現世・全宇宙の波動を全身に浴びている状態である、と、確実に見なしうるからである、

さてまた、ここに登場する人々、その他、妖怪妖物人外古器物の類いは、姫の『赤の城』入城以後、ごく頻繁に姫と絡み合い、また、いがみ合い、或いは睦み合う、最重要の存在ばかりなのであるからして、細心の注意をもって、事前に追跡・展開しておくことは、さして!無意味であるとは思われない・・・」

などなどと、いかにも堅苦しい贅言を垂れております。

訳者も気づき次第、そのような箇所には、この★マークを挿入したいとは思っておりますが、うっかり見過ごしてしまう可能性も無きにしもあらず・・・

どうか御寛恕いただけましたら幸いです。

【補記】

エムペドクレスの引用は、ディールス=クランツ(岩波版第2分冊)からだと思いますが、姉が卒倒中のため正確な場所がわかりません。本の在処も不明なため再確認できず、字句も不正確かもしれません。

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