表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/78

第1巻第1部第3節 「産室にて  トゥレマルクへ帰還  ゼノワの執務室」

*       *       *


その時既に王妃ラゼナ・グネトニアスの涙が乾いていた。ほんの数時間前、産室ここに〔全く二年前と同じことだった〕残酷な宣告の下された時、この哀れな母親が示した半狂乱の振舞の余韻は、もはや跡形もなく消え去っているのである。別れを得心させる為、また、母親としての最初で最後の心尽くしの準備の為、しぶしぶながらゼノワが与えた僅かな時間の中で、この若い王妃の心の中に如何なる変化が起こったのか、これを推測することはヨナルクとても断念せざるをえなかったが、今やその蒼白の額には静かな諦めの色が、深い疲労感とともに漂っていた。但し、これは、ヨナルクにのみ判別できたに違いないが、微かに引き歪められた美しい口元には、極度に高められた誇りとでもいうべき残影が、一種異様な力強さで、一刷けさっと浮き上がり又消え去るのだった。

時が来た。小さな揺り籠は、最後にもう一度、ラゼナの側に引き寄せられた。捧げ持つのは最も若い侍女、セリナ・スヌーンである。セリナの、少女らしい義憤に燃えた瞳には、無限の同情と底無しの怒りとが分ち難く混じり合い恐ろしい光を放っていた。

夫バルダモ・ワルトランディスも王妃の傍らに立ち、何か慰めの言葉をかけようと時を窺っているらしかった。しかし、どんな言葉も無意味で、無理に口に出せば、全ての恨みが自分に向かってくるのではないかという疑念が男の心を捉えているようだった。結果的に、結局、男の口元は行き場のない苛立ちと理不尽な残酷さによって、ひどく曖昧な具合に捻じれ歪んでいた。バルダモは、無意識の仕草で、長剣の柄頭をひねくっているのである。〔王は絶対の不文律である「女」の慣習法をも無視し産室の中でさえ帯剣していた〕

王妃は半ば身を起こし、揺り籠を見下ろした。そして再び微かな微笑を浮かべると、赤ん坊の左の手首を自分の両手の中に包みこんだ。うつらうつらしていた赤ん坊は、はっきり目を覚ました。そのたったひとつの瞳は、秀でた広い額にさえ不釣合いなほど大きく、薄暗い産室の明りの下で色は殆ど紫色だった。無残に落ち窪んだ残りの眼窩には既に柔らかい詰め物がされ、小さな眼帯で隠されている。

ヨナルク一人は、寝台を取り囲む王家の人々からは十五、六歩も離れ、産室の内陣を形作っている分厚い帷の脇に殆ど隠れるようにして控えていた。その位置からは、ラゼナ・グネトニアスの横顔をはっきりと見ることができた。厳しい意志の力が全ての筋肉を凍りつかせ、血の気のない痛ましい表情を無理やり一枚の仮面に変えているようだった。瞬きひとつせず王妃は、無心に見上げる我が子を見つめていたが、突然その両の眼から大粒の涙が一対、ゆっくりと転がり落ちた。涙は赤ん坊の額の上に砕け散り、その柔らかな皮膚の下へと染み入るように消えて行く。赤ん坊とて何か異様な気配を感じたには違いなかった。訝しげな皺が額と鼻先に浮かんだが、泣き出すこともなく、そのままじっと母親を見上げつづけている。

「 もうおやめなさい、辛くなるばかりですよ。」

母后ゼノワ・ワルトランディスは遂に促し、揺り籠は部屋の外へと運び出されて行く。そして、昂然と頭を擡げたセリナ・スヌーンの恨みに燃えた眼差しは、ヨナルクのほとんど影となったこめかみへ激しく熱くそそがれる・・・〔アズレインとの離別においては・・・・・・〕


皇太后ゼノワ・ワルトランディスは、いつものようにひっそりとボレナ川を渡り、己が居城・トゥレマルク―夏の離宮―へと帰還した。今回も又、なかなかに気の重い、厄介な荷物が一緒であった。即ち、不具を理由に、無理やり母親から引き離された己が二人目の孫、まだ名付けられてもいない隻眼の女の子である。〔前回同様、結局命名式は行なわれなかった訳である〕

広大な城内は、〔無論、常軌を逸して超巨大な赤の城に較べれば遥かに小規模ではあるが、それでも、ここ数年来、大諸侯どもが競って建造に熱中していた王都内最大級の離宮様建築物群 ― 例の徹底的に非実用的で、極度に華美繊細な建造物である ― の十倍以上の大きさがある〕やはりひっそりとしていて、ほとんど人気がない。ゼノワは、碌に働きもせず、好奇心だけは旺盛な使用人どもの存在を嫌い、身の回りの世話を任せる侍女たちさえ、ごく限られた、選り抜きの最低限の人数しか置こうとしなかった。ヨナルクを得てからは、若干使用人の数が増え、城内の手入れは遥かに行き届くようになったが、その新たに雇い入れられたひどく理想的な使用人たちというのは、実は人間ではない、魔性の者らしいというのが専らの噂であった。古参の侍女たちとて、もちろん、そういった与太話に無神経でいられるわけではなかったが、ゼノワ・ワルトランディスの巨大な支配力への信頼が恐怖を遥かに上回っていた。そして又、怪談話を好むような連中の、粗雑な目に留まるような怪異など存在する余地はこの宮殿には全くなかったのである。むしろ、遥かに不気味な点があるとすれば、ここでは、如何なる怪異といえどもただ一瞬の存在さえ許されぬほど全てが完璧に整えられ、制圧されていて、その異様なまでに密やかな、単純極まる佇まいにこそ、最も恐るべき秘密が潜んでいると言うべきだった。しかし、真実を感知しうる人間は、いつの世にも稀少でしかない。


真夜中を少し過ぎ、静寂は愈々深かった。 数少ない召使い達は重苦しい予感を抱きながら、ほとんど無理やりに寝静まっていた。途方もなく長大な曲がりくねった回廊※では、壁に差し込まれた獣脂松明が、鈍い微かな響きをたてて目に見えぬ時を刻んでいる。


<※勿論、実際の構成は、3次元的には直線のみであり、曲線が必要な設計や工法は、殆ど採用されていないのではあるが・・・>


全ての階段、大広間、バルコニー、そして人目に立たない密やかな螺旋階段までも、どこもかしこも眩く照明されてはいるが、〔又それ故に、光の届かぬ物陰の闇は一層濃く深いのだが〕全く人気もなく、重い油のような沈黙がねっとりとたゆたっている有様は、ここが殆ど地上の、生ある者の居住する宮殿とも思えない物凄まじい風情である。

ゼノワが執務室として使っている第二謁見室では、しかし二つの人影が密やかな会話を交わしていた。その傍らでは、既に例の木箱に移された哀れな赤ん坊が眠っている。全く身じろぎもせず、呼吸の気配すらない。その頭近く、七つの枝を持った白銀製燭台には、四本だけ、半分ほど燃えさした大蝋燭が点っている。〔それにしても、私的な謁見にも使うことはあろうが、ゼノワの権力を考えると驚くほど小さく質素な部屋だ〕

ボレナ川に面したテラスの窓は大きく開け放たれ、晩秋の冷気が静かに流れ込みつつある。肌寒いほどだが暖炉に火は入っていない。蝋燭の炎が微かにゆらめく。ゼノワの額には、明らかに不快の色があり、ヨナルクに対して説明を求めているようだった。

「 一体、これは予見できないことだった? そもそもの発端に、あなたは警告してくれてもよかったのではなくて? 」〔この会話は突然始まったのではないが、内密で親密な呼吸はずっと続いていたのだという証言がある〕

「 あの場合、予見などさらに必要ではなかった。ゼノワ、確かにあなたはグネトニアの家系に不安を抱いていたし、それはそれで当然のことだった。バルダモ様がひどく意地を張られた事も、不可思議であり、又必然だった。僕の出る幕などどこにもなかった・・・」

「 そう、もちろん、あなたの責任なんかではない、そんなことはよくわかっているわ。けれどもわたしは口惜しいのよ。このわたしにさえ、こういった不吉な出来事への予感はあった、殆ど確信していたと言ってもいいわ、しかし、阻止できなかった。そのことがどうしても腹立たしいのよ。」

「 しかし、大諸侯の中から王妃を出すことなど論外だったことは確かだし、その点ではグネトニア公国には問題がなかった。これは特にあなたの気に入っていた点だ。」

「 確かに、幾分政略的戦略的に事を運びすぎた嫌いはあるわね。」

ゼノワは、しぶしぶ認めた。

「 けれどもだからと言ってこんなことが続いてもいいのかしら?! 長い間子ができず、いい加減待ちくたびれた・・・ そうして九年目、やっと生まれた第一王女は足萎えだった。あれを遺棄するためにどれほどの悪名を蒙らねばならなかったか、ラゼナの憎しみを一身に負ったあなたならわかる筈ね。」

「 僕の存在価値は、まさにそういった役割にあるわけだ。」

ヨナルクは、苦笑した。

「 さっきもセリナ・スヌーンが、物凄い目付きで睨みつけていた、前回以上に思い知っているわけさ、まだ、こめかみの辺りがひりひりするくらいだ。」

「 二度も続けて不具の子が生まれるなんて、何かおかしいとしか思えない・・・」

ゼノワは、あくまでもグネトニアの家系にこだわる風だった。苛立たしげな素振りで立ちあがり、赤ん坊の側近くへ歩み寄った。じっと見下ろす視線には、嘲笑の色が深い。

「 よくもこれだけ、ご大層な仕度が出来たものだわ。」

元の揺り籠が、床の上に無造作に打ち捨てられてあった。中には、つい先程まで赤ん坊がくるまれていた豪華な産着や、帽子、そして ワルトニアの紋章が縫いこまれた、あまりにも痛々しく、小さな眼帯などが、詰め込まれている。

「 スヌーン家のセリナだね、全く忠実極まる犬っころだ、そう言えば、あの小娘の父親もご大層な忠義犬だったらしいね。」

「 その話は僕も聞いている。公女の嫁入り行列の殿を勤め、エルダン中のーつまり全辺境の山賊どもの追撃をたった一人で阻止したということだ。フェズ伯が大袈裟に吹聴して持ち上げた話ですっかり有名になっている。まあ、あの将軍殿にはお誂え向きの美談なわけだな。」

「 ふん、馬鹿な話だわ。わざわざフェズ(あれ)を迎えに出してやったのに、国境まではあくまでもグネトニア軍だけで護衛するといってきかなかったのよ。そうして黒の森中の山賊を引き寄せたわけね、グネトニア人というのは全く度し難い馬鹿者揃いだわ。」

「 血統の古さだけが、彼等の唯一の自慢なのだ。」

「 命まで投げ出すほどのものかしら。」

ゼノワの口調は辛辣だった。

「 確かに古記録で見る限り、彼等の先祖は、最も古くからこの大陸で活動していたようだ。」

「 それがそもそも問題だわ、グネトニア人の祖先には、得体の知れない小人族※のおぞましい血が混じっているって言うとんでもない噂さえあるのよ。」


<※しかし、小人族と古代巨人族のパラレル、或いは同根説ほど古来秘密視されてきたものはない・・・>


「 それさえ、やつらにとっては、自らの血統の古さを証しする貴重な傍証として映るらしい、事実、グネトニア公の家系は代々、強力な魔術師を生んできた。それも、おかしなことに全て白魔術の系統だ、ラゼナ・グネトニアスも、本来ならラシュダ湖の神殿に仕える清浄な女司祭、神秘の処女剣闘姫として独身を通すべき身分だったのだ、恐らく、公家に伝わる白い秘法の一つや二つ、既に習得していても不思議ではない・・・」

ヨナルクはふと気付いて、あまり近付きたくもなかったのだが、再び赤ん坊の顔に見入った。自らかけた強力な呪縛によって、哀れな第二王女は死よりも深い眠りの淵に漂っている、それは確かなことだった。しかし、失われた片目の位置にぽっかりと口を開いている深淵は・・・ それは目蓋のない、恐ろしい負の瞳とでもいうべき竪穴で、しっかりと閉じられた右目よりも遥かに強力に何事か極めて奇怪な神秘を語っているように思われた。この旅行用の木箱に移し入れる際、ヨナルクは慎重に注意を払い、ラゼナや、セリナ・スヌーンが、ありとある工夫を重ねてこの哀れな嬰児に残しておこうとした二つの王家の印、ワルトニアと、グネトニアの、紋章や暗号の、どんな微かな痕跡をも絶対に見逃さず、徹底的に除去したのであった。あの短時間の間に、よくもこれだけの印を、様々に刻み付けておけたものと、半ば呆れ、半ば感心せざるを得ないような、全く涙ぐましい努力の跡だった。そして赤ん坊は、ヨナルク自らが用意した、安全この上ないが全く何の特徴もない簡素極まる産着とクッションに包まれて、今や眠りについていた。どこの誰が再び拾い上げたとしても、二つの王家との関りを示す何の痕跡も存在しないはずだった。

にもかかわらず、一抹の不安がヨナルクの心を去らなかった。それこそ、グネトニアという最も古く神秘な血統の齎す無形の力が、ただヨナルクにのみ触知可能な微妙極まる感触でもって、密かに、微かに、最弱領域の警戒信音を発しているかのようだった。

― 何かおかしい・・・腑に落ちない点がある・・・―

ヨナルクはひとりごちた。それはさきほど、ラゼナ・グネトニアスが見せた不敵ともいえる微かな口辺の微笑が、まざまざと思い出されたからでもあった。この疑念を追求する為には全力の集中が必要だったが、ここ、ゼノワの居室ではそれも不可能だった。ラゼナに対する反感を拭いきれない皇太后は、やがてドレスの裾を翻し自分の玉座へ戻った。聊か疲れを感じたらしく珍しくも呼鈴を引き、侍女の一人を呼んだ。

おかしなことに殆ど間をおかず〔いや、これは・・・全然おかしくはない〕、おそろしく背の高い、ひどく痩せこけた、黒衣の女が現れた。頬の肉が鋭く削げ落ち、目は落ち窪んで異様に輝いている。一目で老獪な女狐を思い起こさせる女だった。

「 ああ、テュスラかい! 喉が渇いたから何か持ってきておくれ。」

女は深々と一礼し、起き直りながら奇妙な具合に腰を捻ったので、偶然、振り向いていたヨナルクと目が合った。テュスラは無言のまま妙にこわばった目礼をし素早く退室した。一分と経たぬうちに侍女は戻って来たが、捧げ持つ黄金の盆の上にはマルファルファ酒の入ったクリスタルとグラス、そして一籠のエンリルソーン〔葡萄によく似た果物の一種である〕が載っている。

ゼノワは、注がれたグラスから一口だけを啜り、ほっと溜息を吐いた。テュスラは女主人に一礼すると籠を取り上げひどく無造作にヨナルクへ差し出した。その陰気極まる風采にもかかわらず、全ての動作に異常なほどの活力が漲っているようだった。目の光は先程よりもさらに快活で、口辺にはひどく場違いな、ほとんど陽気なといってもいい微笑が浮かんでいる。

「 僕にかい、いや、ありがとう。」

ヨナルクは〔おかしなことだが〕驚いた風に礼を言い、瑞々しい果物を二つ三つ手にとった。テュスラは再び深々と腰を折り、籠をテーブルの上に戻してから、素晴らしく優雅な身ごなしで退出して行った。ほとんど小躍りさえしかねない嬉しげな足取りだった。ヨナルクは、侍女が消えた控えの間のドアを二、三秒 いささか忌々しげに見つめていたが、すぐに赤ん坊に注意を戻した。皇太后は何時の間にか立ち上がり、窓辺に佇んでいる。ボレナ川を隔て、巨大な山塊にも紛う赤の城が黒々と聳えていた。城山の明りは殆ど見えず、全てが寝静まっているようだった。


「 ヨナルク、あなたにはとてもすまないと思っているわ。」

皇太后ゼノワ・ワルトランディスは、室内を顧みもせず、ただの独り言のように肩をすくめた。

「 無論、世間は又、様々に噂するでしょうね。大列侯会議の連中は、さあて、どうでるか・・・、さぞかし、おたがい、独り密かにほくそえんでいるでしょうよ、そう、もうそろそろ、第二王妃をなんぞと囁き出す輩もちらほら出てくるはずね。 私は愚かな権力欲に執り憑かれた醜い老女で、得体の知れない腹黒の魔道師にいいように操られ、あまつさえ、道に外れた淫楽に耽っているという事に、愈々なって来たらしいし・・・ 」

ヨナルクは無言のまま、黄色い蝋燭の炎を見つめている。ゼノワは続けた。

「 あなたの計画も、又延びてしまったわね。ところでラゼナが三度目を身篭る可能性はあるのかしら?」

「 もちろん、ある。」

「 そう・・・ 」

ゼノワは深い溜息を吐き、ゆっくりと首を振った。

「 でもバルダモも今度ばかりはまいったようね。アズレインのこと以来、今度こそ、片足だろうが片手だろうが、必ず命名式をやってやるって息巻いていたけど、さすがにこの子の不気味さには二の句が継げなかったようだもの。」

ゼノワの言葉には、わざとらしい軽薄さがちらついている。ヨナルクは微笑したが、いつものように調子を合わせる気分ではなかった。それどころか、滅多にないゼノワの弱っている有様が、いささか珍しくもあり、かえって皮肉な連想が次々と浮かぶらしかった。

「 しかし・・・ ラゼナ様には、また、一段と凄涼の美しさが加わったように見える・・・ 」

確かに、あの美しさは只事ではないとヨナルクには感じられていた。母親として、悲しみのどん底に突き落とされ、普通なら窶れ果ててもよい境涯なのではあった。しかも、ゼノワの、強大極まる精神力が、常にこの辺境出身のか細い公女を圧倒していたことは事実である。それは、極限まで撓められた柳の枝鞭だった。しかし、遂に折れることなく、全くもって健気に耐え続けていた。その苦しみに満ちた曲線には凄絶な美しさがあった。

「 確かに、あれは不吉な美しさだわ、あの内側に秘められているものが一体何なのか、透視でもできれば、さぞかしありがたいことになるのだろうけど・・・ 」

「 バルダモ様の執心も愈々深い。今回の産室での振舞のことも、バルダモ様らしいといえばそれまでなのだが・・・ お聞き及びでしょうが・・・ 」

「 私たちが赤の城に入る一時間前のことね、女官長も、内大臣もかなり困惑していたようだった。グロムハインだけが何やら嬉しげに詳しく話してくれた。」

「 あの奇妙な雷雲が赤の城の頂上を包んだ時、凄まじい雷撃が塔を揺るがしたというけども、こちらの桟橋にいた我々には全く何も聞こえなかった。閃光すら、見えなかった。陛下は、産室の中で剣を抜き、ラゼナ様とこの子の命を秤にかける異様な発言をなさったらしい。不吉といえば、これ以上不吉な言動は存在しない。特に、帝国を治める頂点に立つ人間としてひどく軽率だったとみなされてもいたしかたない・・・ 」

「 とにかく・・・あの女をワルトニアに迎え入れたのは完全な間違いだった。そのことははっきりしているわ。」

「 まだ、そうとは言い切れない。」

「 無論、事態を立て直す方策はあるし、多分、時間もある、でも大変な損失よ、ヨナルク、あなたはいつも居心地の良い局外者として振舞っているからつい甘く見る癖がついているのね。」

「 甘いと言われるならそれでもいい。」

「 とにかく、私の忍耐ももう限界が近付いているわ、もし、三度目も駄目なら、ラゼナには、舞台を下りて貰うしかない。」

「 僕としては、御免蒙りたいね。」

ゼノワは振り返り、とんでもない誤解だと言う風に肩をすくめて見せた。

「 あなたまで、私のことを地獄の女王だと? それともいまさら、女を殺すのだけは後味が悪いなんて、どこかの小悪党のような台詞を吐くのかしら? 」〔鉛の夜※への示唆?ともみなしうるが・・・〕


<※鉛の夜・・・ゼノワとヨナルク邂逅の夜を意味する内密の符丁、由来は不明、別段で詳しく語ることになるだろう>


ヨナルクは答えず、再び隻眼の赤ん坊に注意を戻していた。しかし、その胸の中にはいまだ、ラゼナ・グネトニアスの、不敵な微笑がこびりついて離れない。男は、意識を集中したかったのだがそれもできず、いくらか苛立たしげに首を振った。

「 あなたの悪い癖だ、ゼノワ・ワルトランディス! それにそう先走られても僕としては答えようがない。」

ヨナルクは半ば諦め、解きほぐし難い思考の鎖を追うことを止めた。そして、先回りをすることにかけては癪に触るほどと言っていいあのテュスラが、これみよがしに置いていったエンリルソーンを一掴み口にほうり込んだ。 なるほど、これの甘い、爽やかな果汁には、昂ぶった神経を鎮める力がたっぷり含まれているのではあるが・・・〔しかしこの知識は全くもって一般的なものではない〕

ゼノワは自らマルファルファのグラスを二つ、いささかわざとらしい乱雑な手付きで作り、一つをヨナルクに手渡した。北方産の蜜蝋蝋燭に特有な、何か堅い感じのする光が、精巧にカットされたクリスタルに美しく反射する。

「 私が考えていたのは・・・ 」

ゼノワは、手の内のグラスを揺すり、深い翡翠色の液体を静かに回転させた。遥かなヒースの原野に発する芳香がほとんど目に見えるほどの緑金色のヴェールとなり、簡素極まる四囲の壁面を、不可触の神秘の湖面に変えるようだ。しかし、細かく顫動する漣には一種不吉な波長が含まれてい、掲げられたクリスタルには、女の冷ややかな微笑が映っている。

「 ミコールパの別院か、フェラン島の女子修道院のことよ。もちろん、ラシュダ湖へ帰すわけにはゆかない。ミルザ・グネトニアスには、さぞかし恨みを買うでしょうね。」

「 あの若い公子は・・・ いろいろな意味で要注意だな。それに東方十二辺境伯領の要としてグネトニアの重要性は増している。あの男を敵に回すのは得策ではない。特にゼノワ、あなたのようなやり方で、ラゼナ様を迫害するとなるとなおさらだ。ミルザ公子の姉思いには、全く常軌を逸した一面があることはあなたもよくご存知だろうが・・・」

「 迫害とは穏かではないわね。」

「 問題になるのは単なる事実でもなければ、あなたの主観判定でもない。」


沈黙が落ち、蝋燭の黄色い光も何やら苦しげにゆらぐのだった。湿った夜風が再び吹き始めたらしい。ゼノワは侍女に命じて窓を閉ざし、暖炉にも火を入れさせた。すぐに薪の香りが渦を巻き、マルファルファの芳香と混じり合う。相変わらず微かに歪んだ微笑を浮かべたテュスラが音もなく退出すると静寂は一段と深まったようだった。

偉大な女帝は、じっと炎に見入っていた。光の反照が、もはや老いを隠せない額に複雑な影を作っている。ヨナルクには、この女主人の考えを読み取ることができた。胸元に組み合わされた指の、微妙でほぐし難い複雑な動きは、ある一つの回想への沈潜を語っている。それが、バルダモ・ワルトランディスと、ラゼナ・グネトニアスの結婚式に関する些か怒りを含んだ反省であることは確かだった。

突然ゼノワは目を上げ、首をかしげた。ヨナルクも見返す。

「 こおろぎの声が聞こえるわね。」

「 ああ、さっきからずっとしている、とても幽かだが、」

「 今初めて気付いたわ、窓を開けていてかえってわからなかったのね、建物の中のどこかで鳴いているのかしら? 」

「 ここのずっと下方、正面ホールの裏手らしい、もっとも、こんな奥にまで来て鳴いているのは珍しいことだ、それにこんな高いところにまで響いてくるというのも不思議だ、建物内にはなるべく虫どもをいれないようテュスラには命じてあるんだが・・・・・・ もっとも中庭から裏の庭園・・・ロデロンにかけては今でも大合唱の最中だとは思うけども・・・」

ヨナルクは苦笑いをし、肩をすくめた。ゼノワも微笑し、それ以上追究はしなかったが、聊か腑に落ちないものを感じたらしい、しばらくヨナルクの表情に目を留めていた。

「 あのミルザには、ほんとに驚かされたことだった。」

突然、中断していた回想へと戻り、ゼノワは溜息を漏らした。

〔結婚式とミルザ・グネトニアスの謁見について、回想が続くが、これは別段となる〕

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ