第1巻第1部第25節 「授乳終り 鉛の夜 予言 かがり火 カワカマス」
* * *
男は再び目を開いた。目蓋の内側に刺すような痛みがある。小さな焚火は相変らず炎の舌をちろちろと閃かし、乾いた大気を焼き焦がしている。その向う側では、非常識な性転換をやってのけたロバが、今や大仕事だった授乳も終わりひどく満足げに赤ん坊の寝顔に見入っている。この可哀そうな片目の女の子は自分の運命も知らぬげにすやすやと眠っている。
イヨルカといえば、もともとこのロバは、ゼノワ・ワルトランディスの離宮トゥレマルクの庭園で雑用に使われていただけの、何の変哲もない只の灰色ロバだった。けれどもある春の麗らかな一日、お昼少し前の、気だるく物憂い一時のこと、果樹園をぶらついていたヨナルクがふと目を上げると、そこには、花盛りの一本のりんごの木の下に繋がれた頭でっかちのロバがしょぼくれて立っていて、なぜか男はその表情に惹かれたのだった。それ以来、このロバの見聞きしたことは、突然強力な知性と人間的な感情を与えられたこの優しい動物にとっても、想像を絶する出来事の連続で、その仕上げが今この荒野の真中でなされようとしているわけだった。
それにしても、ロバの有様は刻一刻と非常識の領域を乗り越えて今や法外な支離滅裂に達しようとしていた。これは生命の根底からの全的な変容というべき現象なのである。しかもヨナルクにさえこれが例の次元間生命体、サイキスの親類たる夜の精霊たちの不可思議な力の流入によるものなのか、それともイヨルカ自身の力による内的な発動に起因するものなのか、はっきりと見定める事ができなかったのである。
「 この僕がバスマンと同じ轍を踏むとでも思うのか!御前たち如きに僕の邪魔をさせるとでも思うのか!」
男は膝を抱えて座り込んだまま歯を食い縛って反問した。何時の間にか虫の音は低く微かになり、夜の闇もその力をすこし増して、焚火の作り出す小さな光の輪を包み込んでいる。イヨルカももはや光の鼻息を吹かず、ただその大きな目玉が炎の反照によって穏かに煌めいているだけだった。
「 あそこに座ってこっちを見ているのはあたしのご主人様なの。」
ロバは低く微かに囁き始めた。赤ん坊はすやすや眠っている。
「 相変らず恐ろしい事を考えてなさるわ。あの方の考えてる事はあたしにはよくわかるのよ。」
どこかで聞いたような、やさしい、やわらかな声だった。ヨナルクは苦笑いを漏らした。
「 星ひとつ見えない夜だわ、厚い雲が空を閉ざしている。今、風はないけどあたしにはわかっている。大嵐が近付いているのよ。」
ロバは耳元に纏わりつく何物かを振り払うように、二、三度軽く頭を振った。
「 あの方の決意はとても堅い。あたしの四つの膝はもうこんなにがくがく震えてるわ。あたしにはあの方の心がよくわかる。ここでこの子に何をするつもりなのか、どうしてそんなことを考えなければならないのか、それはさっきあの人がすこし話して下さった。」
ロバは頭を下げ、赤ん坊の額に軽く触れた。その眠りはとても深い。しかしロバの静かな声は、あたりの全ての物体に、まるで沈み込むように消えて行く。
「 あの方も、生れ落ちるとすぐに捨てられたのはあなたと同じ。そして今とそっくり同じにその周りで夜の聖霊たちが踊ったり歌ったりしていた。あの軽やかなものたちはそうやって特別な子供たちを守ろうとするのだけど実際には何んの力もない。あのものたちは、この物質に満たされた重苦しい世界では長く生きられない。でもその舞踊は、特別な力を持つ人には、一本の直立する蚊柱のように、その不吉な動きですぐに何が起ころうとしているのか大声で知らせているのと同じ事だった。それは次第に大きくなり、天の竜となって大空にのたうったので、あの偉大な
人、あたしはじかには知らないけれど、太陽と月を合わせたほどに立派な人が、その下で何が起ころうとしているのかを確かめに来た。そこで見つけたのが捨てられていたあの方、ほんの一マイル先には餓えた狼の群れが、その熱い息が迫っていた。
ベオリグ・バスマンは赤ん坊だったあの方を抱き上げ、直ちにその運命の重さに驚いたわ。けれどもその子を育てよう、自分の後継ぎにしようとすぐ決心なさった。月日が流れてあの方は立派に成人なさった。けれども父であり先生でもある偉大なバスマンとは、段々考えが合わなくなってしまった。巨大な星が二つ並んで輝くことはなかなかできないことだから、遠く離れて空の星座のように孤独に光り続けるのがよいのだけれど、二つが接近しすぎるとどちらかが砕け散ってしまうしかない。でもバスマンは息子にも等しいあの方を粉々にしてしまう事などできなかった。だからその光を弱め、地上におろすことを考えた。封印された記憶と、吹き消された光・・・ 恐ろしいことだけれどその方が幸せだった。あたしにはそんな気がする。あたしもただのロバだったし、毎日辛い仕事をさせられていたけれど、けれども果樹園で、蜜蜂の飛ぶ花の間で、荷車を引っ張っていた時の方がどれだけ気持ちがよかったか、でもそれも今となっては思い出せない、決して思い出せない前世の記憶でしかない。あの方は、普通の人々に雑じって土と埃に塗れ、卑しい人間たちに蔑まれ、ルシャルクの下町を彷徨っていた。記憶を失い、ということは半ば人格さえも失って。そうしてベオリグ・バスマンの力はあの方の外観をも一変させるほど凄まじいものだった。かつて世にあった時、バスマンに付き従う恐怖の伴星として、ほとんどバスマン以上に恐れられていたその名前は、すぐに忘れ去られてしまった。〔そのようにバスマンが手を打ったのだ〕
でも あたしには、 その方がずっとよかったとしかおもえない。そのまま、ルシャルクの暗黒街で生き続けていたら、全ての力を失ったとはいっても、あの方は、やはり 他の人々とは全然違う存在だった。ほんの何気ない仕草が、ふとした表情が、いろいろな人々の注意を引いた。あの方は、利用され、憎まれ、恐れられさえした。いつも心に懸っているひとつの悩み、今の自分が本当の自分ではないのかもしれないという、漠然としているくせに胸を掻き毟るような悩み、それによる力の分散さえなければ、あの方は、すぐにも、暗黒街を支配するくらい簡単だった。けれども常に心がずたずたになった状態では、他の人間たちの悪意の総体とは、結局は太刀打ちできない。恐ろしい、そして惨めな地獄だった・・・ あの日、ゼノワ・ワルトランディスと出会う時までは・・・」
ロバは、その奇妙な語り口を中断して なんとも形容し難い表情を浮かべ、巨大な口元を引き歪めた。それは 見方によっては 酷く陰険な、質の悪い、毒々しい嘲笑ともみなしうる、全く非常識な肉体的変化だった。ヨナルクは、その変化の淵源を注意深く推し測りながら、しかし まるで 鏡の悪魔に見入るように、半ば茫然として ロバの痙攣する口元を凝視め続けた。ロバは、二三度、頭を振りたて、次に耳をぴたりと伏せた。その大きな目玉に青白い燐光が宿っている。
「ゼノワ!! ワルトランディス!! あの恐るべき女性! あのベオリグ・バスマンをすら跪かせようという恐れを知らぬ女丈夫! ワルトニアの長い血統が生んだ最後の!! 最も偉大な女帝! 一体どのような運命が、どんな未知の力が作用したのか、永久にわからない、けれども事実は認めなければならない。
ベオリグ・バスマンの強力な呪縛が、ほんの一瞬のうちに、(あの女と、あの方の存在が重なったその瞬間!)跡形もなくけしとび、封印されていた全ての記憶、全ての力が甦った。※
<※この現象の複雑さと真の意味を理解しなければならない、但し、イヨルカの言葉は不正確である>
ゼノワ・ワルトランディスは、生まれて初めて、そしておそらく、いーえ絶対にこれが最後でしょう、後にも先にもこの一回だけ、人前で尻餅を搗いた。無理もない、全く当然の反応だったわ。目の前に、いきなり、神が現れたのですもの。 圧倒的な変化は肉体にも起こっていて、あの方は、古い、ずたずたに擦り切れ、汚物と塵にまみれた肉体を脱ぎ捨て、あの神々しい姿ですらりと立っていた。 あの時、あの方の心に生じた全ての思いを想像することは、とてもできない。ベオリグ・バスマンへの憎悪と怒り、復讐の誓い、ゼノワへの驚きと感謝の気持ち、封印されていた間の屈辱の思い出・・・ でも最初は、ほとんど盲目的な、巨大な怒りが、その時、その場に居合わせた全ての命を、一瞬のうちに焼き尽くし、消し飛ばしてしまった・・・(そうすることによって全ての証人が消し去られた)けれども、やがて落ち着くにつれて、冷静な支配力が戻ってきた。そうして茫然と立ち尽くす神々にも等しいその肢体のそばで、ゼノワ・ワルトランディスの、全てを計算し尽くす冷徹な知力が、あの方の疑惑を解きほぐそうと助力した。一体、なぜ、ベオリグ・バスマンはあの方を、死にも等しい恐ろしい境界へ追いやったのか、あるいは、なぜ、一思いに命を奪わなかったのか、なぜあの時、一片の慈悲もなく、地獄の苦痛を与えている最中に、しかし、くっきりと明晰に、その力の最大の秘密、魔方陣とサイキス、そして建造者との連環方程式を明かしたのか? この宇宙方程式、黄金の格率は、今も頭蓋の内側にくっきりと焼きついている。地獄の炎をあげて燃えさかっているといってもいい。 この意味を解き、自身に固有の組み合わせを案出し、全く新たに、その力を引き出す為には、さらに十年の歳月が必要だった・・・」
いつの間にか、ロバの独白はヨナルク自身の意識と同調していたが、これは不思議なことではなかった。ロバが ぼそぼそ話したことはすべて、つい1時間ほど前、涸れ川の荒れた川床を歩きながら、ヨナルク自身が語り聞かせた打ち明け話の一節にすぎなかったのである。
「 完全な答えが出ているわけではない・・・」
ヨナルクは、苦笑しながら立ち上がり、マントーの塵を払った。
「 さあ、あのロバは、一体、いつまで寝惚けてるつもりかな?」
男は意を決したようにサクサクと砂を踏み、焚き火とロバに近付いた。イヨルカは、青白く輝く目玉を赤ん坊に吸い付けたまま、頭を横に振り、分別臭く呟く。
「 ヨナルク! 教えたはずだ、未来の予見は両刃の剣だ。予見自体が予見を裏切るということすらありうる。そして、それにかかわる人間の力が大きければ大きいほど不確定要素は幾何級数的に増大するのだ、例えばわしには、君の未来が・・・」
「 起きろ! 寝言はもうたくさんだ!」
「 ああ、ヨナルク様、お願いです! この子は助けてやってください。代わりにあたしを殺してください!」※
<※これも、「予言」となっている。これを偶然ではない、真正の能力の発現と認定するのならば、その力の起源、射程、限界等を厳密に規定する必要がある。ヨナルクの能力の転写、投影、転位あるいは、次元間発現等々様々な想定がなされているが確定されていない>
ロバは、跳び上がるようにして叫び立てた。方向感覚が狂ったのか、すこしひょろつき、まごまごしていたが、すぐに男の長剣と装具を隠すようにして踏ん張った。
「 安心しろ、悪いようにはしない、もう出発するぞ。」
男は、愚かしく踏ん張るロバを軽く押しのけて、剣を取り、マントーの内側に吊るした。〔剣の吊り方ひとつでわかること・・・〕すっかり血色の良くなった赤ん坊は、二人の奇妙な暗闘をよそに まだすやすやと眠っていたが、ヨナルクはそのまま再び縛呪をかけ、箱を封印してしまった。ロバは、ひどく人間臭い仕草でほっとため息をつくのだった。
*
ヨナルクは、再びロバの背に揺られながら思いにふけるのだった。けれども、これまでのように、ただ自分の内心に集中しているわけには行かないのであった。ロバは、幾分足取りも軽く、安心しきったような仕草も見せて、時折わざとらしく、お腹がへった、喉が渇いたなどと文句をたれる始末である。〔これは、この、歴戦のロバとしては、全く異例のことだろう〕その意図は明らかだったから、ヨナルクとしても一層用心しなければならなかった。不用意に感情の波を漏らせば、すぐに悟られてしまう恐れがあった。
おまけに、それまで一行を圧し包んでいた奇妙な気配も、きれいさっぱり消え失せて、おせっかいな精霊どもは、遥かな次元の彼方へ引っ込んでしまったことを示していた。それは、いやにさっぱりした引き上げっぷりで、かえって不気味なのである。あれほど圧倒的だった虫どもの合唱も、今や、晩秋の侘しさを奏でるヨレヨレの、半ば擦り切れた、弦楽四重奏団程度にまで落ち込んでいる。〔しかし、完全に消えたわけではなく、つかず、はなれず、ソットついて来ている風情であるのが、より怪しいのである〕
「 ご主人様、ヨナルク様・・・」
突然、イヨルカは、がなりたてた。
「 遠くで人の気配がします、馬もいるようです、村があるんでしょうか?」
男は、少し前から気付いていたのだった。ロバの言う通り、明らかに人家の気配だった。かすかに、犬の吠える声も聞こえてくる。
「 やはりな、さっきのサイコロ岩もそうだった・・・ どこか支街道のひとつに出たのかもしらん。」
いつの間にか道幅も広がり、さほど新しいものではないが、轍の跡さえ認められた。
「 ふん、どうやら久しぶりに寝床にありつけそうだな、イヨルカ、おまえにも、もうすこしましなものを喰わしてやれそうだ。」
「 ありがたいわ、ここいらの草はほんとにまずくって。小川という小川は干上がりかけてるし、ほんとにひどい土地だわ。」
ロバの声は、完全に女性的に変化していて、その調子の優しさは、なぜかヨナルクの心にも沁み入ってくるのだった。あのロデロンのイヨルカ、無骨な、頑固じじいの灰色ロバが、年も五十ほど若返り、すっかり美人の、柔らかな和毛の牝ロバに変成してしまったらしかった。
「 とてもいい考えが、浮かんだんです、ご主人様。」
再びロバは 呼びかけるのだった。ヨナルクは、その声調にひどく心を惹かれる自分が、なんとも不可解だったから、うむ、と生返事をするばかりである。
「 この子の未来についてなんです。この子のお姉さんは、一昨年、旅芸人の一行に託されました。あれは、今から思うと、ちょいとまずかった。〔時折、本来のイヨルカの語法が、かすかに混じるようだ〕熊使いやナイフ使い、怪力男の間なんかで育ってしまったら、とっても下品になってしまうんじゃないかしら?」
「 ふん、それもそうだ、しかし今更どうしようもないな。」
「 でも、この子は、やさしい、女らしい子供に育ってほしいんです、ご主人様。」
「 そのご主人様ってのは やめてほしいね、イヨルカ。」
男は、半ば 馬鹿馬鹿しくなって、嘲るように答えた。
「 あら、そんなことってあるかしら? ご主人様は、ご主人様です。 他にどう呼べばいいんです?」
「 ヨナルクで十分だ。」
「 とんでもない!」
「 いいから、御前のその、いい考えってのをきかせてくれ。」
「 はい、ご主人様。」
ヨナルクは、苦笑して黙り込んだ。イヨルカの声は、これがこの毛むくじゃらの、不細工なロバの唇から出たものとは 到底信じられない、艶やかな、張りのある、若々しい声だった。
「 あたしは、運命ってものを信じているんです。トゥレマルクの庭園で、あなたに出会ったこともそうでした。」
男は、自分の膝の下で、ロバの身体が細かく震えていることに気付いた。
「 これから行く村で、最初に出会った女の人に、この子を預けてください。そうすれば、この子はきっと幸せになります。お願いですから・・・」
「 何だ?」
「 どうか一生のお願いですから、この子を、男の人に、特に、荒々しい武人には、決して託されませんように・・・」
「 ははは、どうも奇妙な・・・ それは一種の予言だね。」
「 あたしにそんな力がないことは、ご存知のくせに。」
「 まぁ、いいさ、御前が そう望むなら・・・」
「 あぁ、ヨナルク!」
「 何だ?」
「 裏切られるっていうのは、とってもつらいことなんでしょうね。」
「 御前がそれを、僕に聞くのかい?」
「 あぁ、ひどいことを!」
イヨルカは沈黙し、歩き続けた。ヨナルクも再び自身の思いの中に沈みこんだ。不思議なことに今は、この哀れなロバを騙し通さねばならぬ自分の計画が、ひどく苦痛なのだった。このロバが、なにやら固く決意したらしいことは明白で、それは男の意志がどちらにあろうとももはや動ずることのない、そういった類の決心であることは確かなようだった。 ただ、このロバの心情の中には、男にも見通せない何やら不可解な部分があって、それは、途方もなく堅い殻を纏ってはいるが、但しその中に、優に一つの世界を包含するほどの不可思議極まる果実なのかもしれず、その内実を味わうことは、今この時のヨナルクには、いや、それどころかヨナルクがヨナルクである限り永久に不可能なのではないかとさえ信じうる節がある。その正体を本気で追求していたならば、あるいは、この男にも、全く違った未来が開けるはずだったのかもしれない。けれども今は、自身の計画の成否にのみ注意を集中していたから、この貴重な機会を永遠に失ってしまったのである。〔いや、この断定はおかしいのか?〕
*
行く手の暗闇の彼方に、ぽっかりとひとつの明かりが見える。それはありふれた人家から漏れ出る貧弱な光などではなく、信じられないことだが、巨大なかがり火のようだった。
イヨルカは、不安気に耳を動かし、すこぶる胡散臭げに鼻息をたてて立止まった。ヨナルクが脇腹を蹴っても、動こうとしない。
「 一体、あれは何でしょう、ご主人様、なにか、いやーな予感がしますわ。」
「 御前の言うごくお淑やかな女人が見付かる前兆かもしれんぞ。」
「 まぁ・・・」
「 しかし、どうも腑に落ちんね、いや、まてよ。」
ヨナルクは、腰袋をまさぐり、七つ道具のひとつ、星位表と計算尺を取り出した。そして、ほとんど真っ暗闇の手探り状態なのに、〔頼りになる明かりといえば、空を蓋った分厚い雨雲の、不気味な底光りだけだった〕 複雑に入り組んだ星位表を捻くりまわし、その上さらに質悪く、曲りくねってくしゃくしゃになった計算尺を、すいすいと、二度三度、かき回してみるのだった。
「 なるほど、今夜は十三夜の月待ちで、おまけに降星節の晩でもあるわけだ、つまりは二重の火祭りというわけか。」
「 こんなクソ田舎でですか? 信じられないわ。」
ヨナルクは取り合わず、のっぺらぼうの雲底を一渡り、注意深く探り見た。中空を覆い尽くす膨大な水の集積の彼方には、しかし、人の心に隠微極まる波動を送る真球の天体、夜毎、その狂おしい仮初のヴェールをずらし、輝く肌の色合いまでも変化させる無情の女神が、いかにも見通し難い底意を秘めつつ、精確な軌道を描いていた。
「 月は・・・、」
ヨナルクは、一点を指差した。
「 今、あの辺りだ。しかし、生憎の夜ではあるな。」
二人は沈黙し、再び、夜闇の彼方にぼうぼうとゆらめくかがり火を凝視めた。
― 奇妙だな、あの火影を凝視めていると、あの時、屋根裏部屋で、暖炉を掻き回していたベオリグの後姿が、自然に目に浮かぶ・・・ ―
男は、いまや恐ろしく敏感にこちらを窺っている娘ロバに用心しながらも、なぜか今、急に、ひどく甘やかな感傷に浸りたくなった。それは、自分でも不思議なほど自然な、懐かしさに満ちた感覚だった。
― あの時、ベオリグの背中は、とても広く、しかも悲しげだった。力に溢れていたが、その充実を楽しんではいないようだった。あの時・・・・・・ 師は既に、サイキスを、直接呼び出すしか方法がないことを、知り抜いていたのだ。
ベオリグは・・・ 我が唯一無二の師の有様は、普段と全く変わらず、穏やかで、暖かく、やはりすこし皮肉っぽく、すべての未来を見通して(そうなのだ、そう信じうる節がある)、なおかつ平静そのものだったのだ・・・
師は、僕の存在が、世界を脅かすといった・・・ それ故、僕の力を封じ、塵を喰らうただの人間として生きよと命じた・・・ 僕にとって死にも等しいその宣告を下し、刑の執行を準備しながら、師は、我が師は、あれほど平静で、暖かだった・・・ あれは、真冬の、ひどく冷え込んだ夕暮れ時だった・・・・・・ ―
この胸苦しさは、耐え難かった。これは、説明のできない感情だった。いや、そうではなく、それを言葉にしてしまえば、否応なく、その論理的、否、非論理的帰結に従わねばならず、それは現在の自分をすべて否定し去ることだった。だが、この感情のほのかな甘さ、微妙かつ愚劣極まる懐かしさは、この鋼鉄の心を持った男をさえも、全ての冷徹な論理、無限の苦痛に満ちた果てしない真理演算を、思いもかけぬ角度から、遥かに、遥かに出し抜いて、ある重大な疑問、その答えは簡単に見つかるのだが、絶対に認めたくはない・・・ そんな、やっかいな問いへと導いた。
― 結局、ここで僕がやろうとしていることは、あの時(あの日・・・)のバスマンと同じなのだ・・・ ―
男は、尻の下の娘ロバが、いささか不安げに耳を捻るのを見下ろした。
― この赤子は、世界と、そしてこの僕自身に、途方もない災厄をもたらす・・・ これは確かなことだ、この子の、あまりにも強烈な存在感、否、非在感ともいうべきか、鏡の反転のように奇妙に交替するこの感覚、今はまだ不安定だが、まさにそれゆえに途方もない眩暈を生み出す底ひもなき息苦しさ・・・ ―
男は両肩にかかる重みを確かめでもするようにちょっと揺り上げてみた。
― 既にして、産み落とされた直後から、夜の女王や闇の聖霊たちをあれほどにも引きつけ、引き寄せて止むことがない・・・ 恐ろしい未知の力がこの小さな体の中で激しい渦を巻いている・・・ あの片目は、すでにして失われた方は、間違いなく母の胎内以前に魔神どもに捧げられてしまったのだろう※、
<※この推定にも疑義がある、後にヨナルクは、この失われた片目の行方を追及せざるを得なくなる>
そして残るひとつは、世に数多の災厄を齎す一つ目にほかならない・・・ それも無理はない・・・ この子は、あのゼノワ・ワルトランディスの孫なのだ、そしてこの子の母は、ラゼナ・グネトニアス・・・ あの最古の一族の聖なる華だった。処女のまま、永遠にラシュダ湖の神殿に捧げらるべきだったものを、なんという皮肉の回り合せか、こともあろうにゼノワの息子が見初めるとは・・・
いかにもこの子はゼノワの孫だった! ゼノワ・ワルトランディス! 我が第二の母が、絶対に認めようとしなかった薄幸の娘なのだ。なんと似ていることだろう、まるでそっくり同じことではなかろうか? 我が師ベオリグ・バスマンは、血はつながらずともこの僕を息子以上の存在として育て、鍛え上げてくれた・・・ 今の僕の全ては、ベオリグの慈悲と愛によって立っているも同じこと・・・ そしてこの子は、ゼノワの孫は、我が娘も同じことではなかろうか?
僕は、我が娘を、この手で消し去ろうとしているのか?! ―
遥か彼方の例のかがり火は、地上に堕ちた不吉な赤い星、まるでベルデギラスかアルタンスルででもあるかのように、心細く、微かに瞬くのだったが、むろんそれは、男の気後れを嘲笑するかのような隠微極まる動きだった。
男の姿は再び青白い燐光に包まれてその輪郭を失った。ロバは、何か口に出しかけたのだが、なぜか舌を強張らせてしまい、慄きながら、グゥッと息を殺した。男は頭を上げ、天の一隅を睨みつけた。背中の木箱の中で、赤ん坊が身じろぎをし、自分の心の動きに聞き耳を立てている・・・ そう感ずることは、これが初めてではなかったのだが、男は、今、不意に湧き出てきた己が怒りを、素早く押し殺してしまった。けれども一度握り締められた拳は、一つの波動となって背中へも伝わり古い日月箱をも震わせた。〔これは相当な年代物で、丁寧に補修されてはいたが、さすがに傷みを隠すことは出来ない〕イヨルカは、弾けるように首を振り、長い耳をぴんと伸ばした。
― 同じではないな・・・ ―
ヨナルクは、雲に隠された月の位置を無意識に探りながら、自らに言い聞かせた。
― そしてお前にどんな力があるにせよ、お前の運命は、この荒野で尽きるのだ、おお、運命の娘よ、ガッダ・アトゥーラよ、お前の悪しき運命は、ここで断ち切られる。僕は、我が師バスマンのように、尻尾を残したりはしない! ―
男は、はっとしてイヨルカを見下ろした。しかしロバは、静かに俯いたまま、視線を暗い地面に落とし、身じろぎひとつしようとしない。男は己が胃の底に沈んでいる黒い冷たい塊に気付いて、いまさらながら自身の心の弱さ〔卑怯極まる、というべきか〕に驚くのだった。
― そう、確かに、全く同じではないな ―
ヨナルクは、自嘲し、独りごちた。
― あの時、バスマンの心が晴朗そのもので、一点の曇りもなく、いや、むしろ何か、底抜けたような、静穏な明るさ・・・、どこかへ突き抜けてしまったような喜びさえ漂わせていたことは、そう、なんとしても確かだった・・・ あの静謐、あの澄明なる心の淵の、なんという神秘・・・ あの無音不動の激闘の最中、もがき狂った僕の視線は、不意と釘付けになったのだ、サイキスどもの荒れ狂う炎の向こう側、厚さのない壁の、そのすぐ裏側だった・・・ そこに、手に取れるほどの生々しさで、一つの、比類を絶した心の形があった・・・
暗黒の宇宙の中心へと聳え立つ巨大な山脈・・・ その最高峰の頂きに宇宙の全てを映し出す一枚の鏡がある、絶対零度の寒冷に凍える星屑の瞬き、非在の空間を引き裂き穿ち行く箒星の、白い孤独の軌跡、自身の重みに堪え切れず内側へと崩壊して行く赤い星々、
それら全てを如法に映し出し、しかも自らは漣一つたてはしない、人跡未踏の山上湖・・・否、湖と言うにはあまりにも慎ましい、大地の頂点に穿たれた底なしの井戸であり、その暗く冷たい澄み切った水は一本の棒のように動かない・・・
僕は不意とその井戸を覗き込んでしまったのだった、これがバスマンの秘術の最奥部、その表側なのか裏側なのか、さもなくばあらゆる技術を超越した偶然のなせる技なのか、それは永遠にわからないだろう、僕はこの瞬間、全ての抵抗への意志を忘れ去り、その冷暗の水中へと沈み下って行った・・・
水は痺れるように冷たかったがサイキスどもに焼き尽くされた神経にはなぜか心地よく、僕は遥か上方の水面から届く微かな星明かりを常に背中に感じながら深く静かに沈んで行く・・・ 四周は漆黒の闇であり、もしも周壁か湖底があるとするならば、それは黒曜石かそれに類する鉱石でできているに違いあるまいと思われた。上方より降り落ちる光はますます減少し、その微粒子の一粒一粒が我が背中や手足にぶつかり、また弾け跳んでさらに深みへと転がり落ちて行くのがなぜかくっきりと眼に映る・・・ やがてそれさえも間遠となり、ついには完全な暗黒が全てを鎖してしまうのだろうと思われた時、僕は行く手の水底になにかぼんやりと輝いているものを見た。それは初めのうちはただの光の染みのようにしか見えなかった。大きさは、丁度天頂にかかるころのプレイアデイス星団に等しかった。さらに無限の時間、沈降し続けた、光は一定の強度を保ったまま次第にその大きさだけを増し、ようやく葉巻ほどの長さとなった、さらに成長し、やがてカワカマス―クリークの澱みに好んで潜んでいる―ほどの大きさとなった、それでもまだ、その遥かな下方まで、眩暈の起きそうな距離が、積み重なっていると思われた。
さらに無限の時間が、ゆっくりと堆積し、僕は、自分が沈んでいるのか、それとも浮き上がっているのか、それさえもわからなくなった。但し、あちらの方にも、痺れを切らしたような風は全然なかった。その形は、依然、カワカマスの姿のまま、一向に動ずる気配もなく、7枚の優美な鰭をことさらにそよがせるでもない。
しかし遂に、話しかけるにもさほど無作法でなく、じっくり観察するにはそれなりの慎みが必要でもある、ごく適当に微妙な距離がやってきた。向うもそれに気付いたようだった。巨大な胸鰭が優雅に、なよやかに揺らぎ、鰓蓋の縁が微かに捲れ上がる・・・ 金属質の硬い鱗の下に隠された、艶めかしい、軟らかな組織の仄紅さ・・・それは、見てはならぬものだったが、僕は目を逸らすことができなかった。そして、相手もそれを望んでいるような、そんな気がした。堅固な物質と果敢無き肉体の境目、その隠微な秘密の全てが、この小さな赤い裂け目に集中しており、僕は、その難解な神聖文字を次々と読み解いて行った。巨大な下顎は、ゆっくりと閉じ、又開き、鰓蓋の縁どりは透明なレースのようにゆるゆると波打った。
遂に僕は赤面し、無作法を詫びた。相手は既に回頭を終え、二人は正面から向き合っていたのである。
― どお? すっかり見えたこと? ―
やはり僕はこの女を知っているような気がした。
― 気に入ってもらえたんなら、いいんだけど・・・・・・ ―
全然問題はないことを、僕は保証した。女は安心したようにちょっと下顎を突き出した。鋭い糸切り歯が、いささか乱杭ではあるが、ずらりと見える。もっともこの手の一族は元々多少受け口気味ではある。
― あたしもあなたを見ていたのよ、知ってた? ―
僕は曖昧に首を振った。そして話題を変え、女の美しさを褒めた。実際女は、非常に美しかったのである。返事は無く、代りに尾鰭全体をゆっくりS字状にカーヴさせるらしい、こちらの感嘆の表情を無造作に受容れる様には、ほとんど無限定の女王の風格がある。
― 今、逆進をかけたのには四つか、ひょっとしたら、五つくらい意味があるかもしれないわ。 ―
僕が時間を否定すると、女はあっさりと訂正するのだった。
― もちろん、こちら側ではそうだけど、さあ、あちら側ではどうかしら? ―
あちら側?
― 偶然ってものを信じてて? ―
僕は疑わしげに首を振ったに違いない、女は、憂愁を孕んだ弓形の眉に、 仄暗い翳りと、 幽かな撓りを加えたが、それは極控えめな、慎ましやかな反対表明らしかった。
― 光の岸辺※っていう詩句がずっと心に浮かんでいるのだけど、これは一体何かしら? ―
<※ルークレーティウスによる、この世のメタファー>
僕が説明すると、微かな溜め息だけが返って来た。長い沈黙の間に、二人の目の前を、最小単位であるフォトンが、奇妙なジグザグ線を描いて転がり落ちていった。その数、およそ五つである。
―とても信じられないけど、あなたの言うことなら、きっと正しいんでしょうね。―
僕はそれをも保証しなかった。女は不満気に頬を開いた。鰓蓋の内側が巨大な籠のように拡がり、その奥には信じられぬほど複雑な形の咽頭骨※までもが全て露わとなっていた。それは一つの宮殿のようでもあり、事実そここそが唯一真正の迷宮の入り口なのであった。発光性の微生物が壁面を蔽い、滑らかな光が次第に強度を増してきた。それは拒みようのない、しかし、不毛の招待であり、僕は落着かぬ気持ちのままそのほの温かい内臓宮=骨格宮へと踏み込んで行った・・・
<※勿論、本来、カワカマスには存在しないお骨であるが、この咽頭歯が地獄の関門、善と悪の挽き臼を、ことさらに意味しているという意見もあることを追記しておくべきか? また、骨の魚なる幽霊めく存在は後で出てくるようである>
〔ここではヨナルクの修行時代が回想される。ベオリグ・バスマンのひととなり。さてこの井戸自体がヨナルクの心そのもの否その変換状態である可能性・・・ 内臓宮自体ではなく、ましてやこのカワカマスがそのものであるはずもない・・・〕
この節は、未完ですが、とりあえずここまでといたします。
追加はまた、適宜いたします。
お盆休み中に、訳しためました分、なんとか公開できました。
エチィシィーンのほとんどありませんため、その分気楽でございました。
リアルが非常事態になってきておりますので、更新滞る可能性がございますが、
どうかお許しください。
ご報告!
なんと、初評価をいただきました。物凄く嬉しいです。
こんな変てこな、厨二病作品に、星マークがいただけるとは、
本当に夢のようです。姉はまた、卒倒しております。
まだまだ、ジグザグではありますが、頑張ります!
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。