第1巻第1部第23節 「授乳」
すみません、また、現在時へ戻ります。一瞬ですが・・・
* * *
辺りの気配はどこか変化していて、ヨナルクは重苦しい夢想から覚めた。小さな焚火は、不思議なことにひどく勢いを増して燃え上がっており、何者かが新たに枯枝をくべたらしく思われた。そうして赤々と照らし出されたイヨルカは、さらに不思議な状態にあって、殆ど夢見心地に、ゆっくりと頭を上げ下げしていた。赤ん坊は、そのロバの腹の下で巨大な乳房にすがりついている。ヨナルクは、嘆息せざるをえなかった。
「 ふん、そういうことか。」
男は呆れて首を振り、相変らず焚火からは五、六歩ほど離れたまま、乾いた砂地の上に座り込んだ。突っ立ったままでいるのもばかばかしくなったのである。
「 貴様たちの考えていることなどお見通しだぞ。」
ヨナルクは小声で誰にともなく呟き、不敵な笑みを浮かべた。
― おかげで心が決まったな、生憎だが逆効果だったというわけかな、はっは! ―
しかし、自分で自分の心に嘘をつくことはできない。まして今この子の命を奪うことが一体どれほど大きな損失を(或いは恩恵を)この世界に与えることになるのか、又それによってヨナルク自身が何を失い何を得る事になるのか、その正確なヴィジョンは既に与えられているも同じことだった。男は、自分の決心を補強しようとありとあらゆる理屈を立ててみた。けれども全ては、あらゆる理屈以前の問題、一種の皮膚感覚、ますます強まる一方の耐え難く重苦しい圧迫感の前で次々と崩れ落ち、遂には無限背進の迷路の中へと沈降して行くのだった。底は容易に見えなかった。辺りの虫の音は相変らずだったが、次第に陰鬱な転調を繰り返し始めた。夜眠る鳥が、繁みの中で不安気な声をあげ、身じろぎをし、武者震いにも似た羽ばたきによって何事かを警告する・・・・・・
― 何が起ころうとしているのか? 全ては・・・全く、そう、全く、僕の意志に懸かっているはずなのだが・・・・・・ ―
ヨナルクは座り込んだまま、四囲の空間を探った。物質的には、勿論、空虚だった。風はやはりそよとも吹かず、上空の雲の厚みは少しずつ増していた。夜の闇は全てを蔽っていた。にもかかわらず、ある濃密な存在の気配が、季節外れの痺れるような虫の音のヴェールの外から、ひしひしと伝わって来るのをヨナルクは感じ取っていた。
― 全く、いやになるほどよく似ているな、そっくりといってもいい状況だ、僕ぐらい心の、フム、臓が、トッペラに、丈夫なら、なんとでもなるが、そうでなければあっという間にお陀仏だぞ! ―
男は首を捻りながら再びロバと赤ん坊の方へ注意を向けた。
― そう、今すぐすっぱりと解放されたければ(未来なんぞ糞食らえだ)、ほんの一撃で足りる・・・ ―
揺り籠代わりの木箱の横には、男の長剣と腰袋も置かれていた。銀青色に輝く鞘も、ベリーン・サファイアを嵌め込んだ柄頭も、今はひどく不吉な調子を帯びた光を放ち、何やら物欲し気に横たわっている。
― ここで事を起こせば、結局、イヨルカの奴も殺してしまうことになる・・・ 全くどれほど抵抗することだろう!! ただのイヨルカの時でもあの頑固さだったのに、今や母親ロバの狂気さえ加わっているのだ、ひどく厄介なことになるのは目に見えている、それに、ここからルシャルク迄歩いて帰るなんて全く冗談じゃないな。 ―
ヨナルクは深い溜息をつき、ようやく結論を出した。
― とにかく、この場はなんとか誤魔化すしかない、しかし、忌々しいのは、こいつら物見高い聖霊どもだ、一体、どれほど集まっていることだろう、そんなにこの子の命が心配なのか、それとも僕の時と同じように只おもしろがっているだけなのか? ―
ヨナルクは、いささか怒りを込めて反問した。四囲の空間では何物かがたじろぎ、撓んだようだった。
― ここまでくればもう立派な直接介入だぞ、これほど圧迫されたんでは頭痛も起こるし、凶暴な気分にもなる。御前たちの不文律とやらは一体どこへ消えたんだ?!!―