第1巻第1部第22節 「屋根裏部屋 師弟相関 夜の女王」
また、過去へ、今度はかなり大昔、若いヨナルクの時代へと遡ります。
どうやら、まだまだ、頻繁に時空がピョンピョン致します。
* * *
「 炎を見つめることは、ひじょうによいことだな。」
ベオリグ・バスマンは、相変らず呑気な調子で続けた。よく手入れはされているがひどく古ぼけた暖炉の前に膝を突き、慎重に薪の位置を調整している。
「 今日は煙突の機嫌もいいね、よく燃えるし、それに逆流もない。」
ヨナルクは、師のベッドの端に縮こまって座り、尻をもぞもぞさせながら煤と埃に塗れた金茶色の天窓を見上げる。外は真冬で、寒風が吹き荒んでいるというのに、ここは快適に暖かい。
「 炎に限らず、物事を見つめるには二通りのやり方、方向がある。君はもう、とっくに学んだはずだった・・・」
ヨナルクは、唾を呑み込み、師の背中を、小柄でひどく瘠せてはいるが、異常な力感に満ちた筋肉の広がりをじっと見返す。
「 どうした? 相変らず墓石のようだね。」
バスマンは、暖炉の前の床にじかに腰を下ろし、炎に向かって半身の姿勢をとった。横顔が陰になり、その表情を見定めるのは難しい。しかし、どこからどのように見ようとも、そのプロフィルは飽く迄も柔和に、穏やかそのものだった。
「 その、あるがままを見定めようとする時、心は往々にして遊離する。反対に、全てを、抵抗体として捉える、これは、心を石のように硬くする。しかしどちらも、術者にとっては必要だ。」
ヨナルクは答えず、炎と、師の横顔を交互に見詰める。
「 君にはそのどちらも教えた。君はよく学んだ。今や君はこの炎の三十秒後の形さえ正確に描くことができる。さあ、窓を開けてみよう。」
突然、師は立ち上がり、天窓を押し上げた。眼下には、見慣れたはずのルシャルクの旧市街が、灰色と煉瓦色の混ざり合う微妙な色調に波打って茫洋と広がっている。縦横に走る運河と橋、水門と監視塔・・・が描き出す柔和で厳しい空間の形而上学的紋章・・・ さらに、ここでは、いくつかの撞着語法とも取りうる言い回しが極微かに調和を破るようだが・・・
目の前の、窓枠と壁板の隙間には、僅かに土が溜り、名もわからぬ雑草が半ば黄色く枯れ朽ちて風に震えていた。
「 こいつは春になれば、また緑の色を取り戻す。こういった知識はすべての基本となる。さあ、いつものショーが始まった。」
ヨナルクも師のすぐ横に頭を突き出した。炎々と燃え上がる夕焼けの空が、目に入る全てを血の色に染め上げていた。師の長い白髪も微かに朱鷺色を帯び、寒風に翻っている。西の天末線上を、奇怪な形をした雲が、粛々と行進して行く。その輪郭は悪魔的な巧妙さで刻々と変化し、二人は無言のまま、半時間余りもその変容を楽しんだ。ベオリグ・バスマンは遂に意を決したように話し始めた。
「 あの太陽を、瀕死の状態で天末を転がり、遂には赤の城の尖塔に串刺しにされて息絶える、醜い腫れ物と見るか、それとも、一日の最後をいつもの大盤振舞で締めくくる無限に豊かな黄金の杯とみるか、これは見る者の心の状態で決まることだ、ある詩人はこう歌う、沈み行け、美しい太陽よ、しかし、誰も、御前の偉大さに気付かない・・・ 」※1
二人の視線は赤の城へと吸い寄せられた。遥かな昔、今は滅び去って跡形もない古代巨人族により建造され〔シカシ、コレニツイテハ異論ガアル〕、一度は土に還りかけた途方もない城塞、それ自体がひとつの巨大な山塊に等しく、今も二人の視界の三分の一を遮って優美というには程遠く、無骨に、禍々しく盛り上がっている。
「 確かに、あれを土の中から掘り出し、磨きあげ、改造したワルトランディスの先祖どもにはそれなりの先見の明があった・・・ 」
師の声調に、普段滅多に現れない沈痛の響きが加わった。
「 そう、確かに、あの城は一千年の長きに渡ってワルトニアを守護してきた、いやそれ以上のことをしてきたといってもよい。」
バスマンは、窮屈そうに身を捩り、これも赤褐色に照り映えるヨナルクの額を見返した。
「 しかし、巨大な蟻塚は、堅固極まるものだが、またそれだけ人目にもつき、攻撃目標ともなりやすい。結局その安全を保障するのは、内部に巣食う虫どもの、絶えざる営為が常に正しい方向へと導かれているかどうかによる訳だ・・・・・・ 」
師は沈黙し、穏かに微笑んだ。時の為政者たちは、常にベオリグ・バスマンの助言、或いは助力を渇望してきたのだが、それが得られたためしは殆どなかった。身柄を拘束しようとさえする乱暴な連中も時には現れた。バスマンは虫の居所が悪ければ、そういった無作法な手をちょいと焼き焦がしてやったりもしたが、大抵は巧妙に身を隠し、殆ど全く相手になろうとはしなかった。
ヨナルクは、最近になって再び頭を擡げてきた疑念と不満を今ここで師にぶつけるべきかどうか迷うのだった。この二人の生活は、もし太陽と月のみが公平な観察者だとしても、やはり惨めな逃亡の連続でしかないとさえ思われるものだった。時々の為政者もその敵対者達も、ベオリグ・バスマンを恐れることでは相等しく、たとえ彼等の手先どもの力がとるに足りぬものであったにせよ、その腕は十分に長く、又、時間もたっぷりあって、その執拗な追跡には、常に、さしものヨナルクをさえうんざりさせるある醜怪さが伴っていた。むしろ、ヨナルクの若さが、こういった底無しの泥沼状態を耐え難いものと感じさせていたのだろう。ヨナルクは、時に苛立ち、師の微温的なやり口に激しく反発しさえするのだった。まして、ベオリグ・バスマンの力の真の凄まじさを知り抜いたヨナルクは、ただ歯痒い思いに身を苛まれるばかりだった。
ベオリグ・バスマンは、今自分が持ち出した比喩の適切さに独り自ら喜んでいるらしく、その口元は楽しげだった。唯一人の弟子の、いささか暗い表情などまるで眼中になく、再び沈み行く太陽に挨拶を送った。
「 万物は流転する・・・ これは確かに美しい比喩だ。しかし、真に理解することは難しい。今、あの太陽を後ろにして半透明に輝く、疑問符のごとき雲と、あすこに黒々ととぐろを巻いて鎮座している赤の城とを、同じ尺度で正確に見通すことは殆ど不可能とさえ思える。よほどのことがないかぎり、太陽は、明日も又昇る。ヨナルク、向うの君の寝室の窓を優しい薔薇色の指でノックするだろう、さて、ワルトニアには、今や、ゼノワという真の女傑が現れた。帝国は、極勢に向かって膨張しつつある、赤の城の威容は、全世界に轟きつつある。その中心では女王蟻たるゼノワが、せっせと卵〔卵、即ち、世界、である〕を産んでいるわけだ。」
― そのゼノワ・ワルトランディスから、鄭重極まる招請が何度もあったというのに、あなたは、まるで取り合おうとなさらなかった、あの偉大な女帝は、あなたに、右側の玉座をさえ約束されたというのに・・・ ―
「 人間は、自分に必要なものが何なのか、それが、いつ、どこで与えられるものなのか、結局知ることができない。人間は、己の運命を知ることは絶対にできない。」
― しかし、あなたは、その力を僕に与えた。僕は、自分に何が必要なのか、今や知ることができる ―
「 確かに、予見というのは不可思議な能力ではある。未来は、決して定まったものではないのに、時として、まるで一枚の絵のように、わしらの目の前に現れる。それは大抵の場合不完全極まるタペストリのようなもので、それを読み解くには、無限の知識と心力が必要だ。こういった力は、自然の法則の埒外にあるものだろうか? いや、そうではない、わしらの能力も又、絶対の法則に縛られていることに変わりはない。ヨナルク、君はわしを驚かせたように、すぐにそのことに気付いたのだった。そう確かに、わしらとて有限の存在に過ぎない・・・・・・ 」
― 師よ、あなたの力は無限です、そのことはこの僕が一番よく知っている ―
「 予見者に現れるヴィジョンは様々だが、大抵の場合、数種類に解釈する余地がある。その選択肢は、術者の心力の大きさに、通常は反比例するものだ。しかし例外もある・・・ 」
ヨナルクは、突然、師の意図を見抜き、慄然とした。重大な局面というものは、往々にしてこのように不意に訪れる。
「 予見者は、己自身に直接関連したヴィジョンを見ることがない。できないのではないのだ、そのことはわしも君もよく知っている。恐らくは、無意識の裡に何らかの規制が働くのだろう、もちろん、真に己れの運命を知るなどということは、神のみに可能なことだ、つまりは、こういった規制こそ、真に神の恵みなのだ、ということだね。 」
― 師よ、あなたは何を決意なさったのです、この僕に何を望まれるのです ―
「 この力は、まさに諸刃の剣だ、そしてある限界を踏み破った術者は、恐らく、一生に一度、多くても数度だろう、己れ自身に関する決定的なヴィジョンを見る。 」
太陽は既に没し、真珠母色のスクリーンが、今しも最後の輝きを発して西の空全面に広がりつつあった。しかし、ピークは一瞬の裡に過ぎ去り、天頂の暗がりが、急速にそのヴェールを降ろし始める。星がひとつ、ふたつと瞬き出した。
「 人々は、わしらの力を羨み、恐れる。それももっともなことだ。しかし、わしらには、殆どいかなる人間にも耐えようがない、恐ろしい業苦が待っている。未来は、特に人間に関わるそれは、一義的に決定されているということでは決してない、そこには意志というものが関わっているからだ。自ら自由に意志を決定するということ、このことこそ、未来を幻視する者にとって最も恐ろしい躓きの石となる・・・ 」
バスマンの表情は、暮れなずむ天空を背に次第に捉え難いものとなり、やがてヨナルクは、そこに微笑のかけらも残ってはいないと知った。
*
「 いやに蒸暑くなった・・・ 」
そう言うと師は、額の汗を拭った。激しく吹きつのっていた北風はいつのまにか止み、下界を賑わせていた暮れつ方の騒音もなぜか途絶えた。宵闇が濃くなるに従って、そちこちの明りは輝きを増し、大都市にはつきものの人間たちの夜の営みが恐ろしい勢いで膨れ上がる。ましてこの辺りは、東の大門に近い城壁街のひとつで、貧民窟の代名詞でもあったが、又それだけに特有の活気にも溢れている場所柄なのではあった。しかし今、老人と若者、この奇妙な二人の隠者の周囲には、異様な気配が漂い、深い静寂が、真昼のものでもなければ、真夜中のものでもない、絶対の静寂が、訪れようとしていた。
― まるで胡桃の中に閉じ込められたみたいだ、なんという圧迫感、なんという圧倒的な力だろう、ああ、息が苦しい、いや、この奇妙な気配は一体何だ?
これまでも、どこかで? かすかに? これも又、師の力なのか? ―
ヨナルクは、全神経を打ち揺すぶられ、冷たい汗を流し、茫然として師の影を見詰めていた。バスマンの身体は、かすかな青い微光に包まれ、輪郭さえ薄れ揺らめいている。
「 ヨナルク、君にもあれが見えるはずだ、さあ。」
師の声は、普段と全く変わらず、平静で暖かだった。但し、恐ろしいほどの威厳に満ちていた。ヨナルクは師の指差す彼方を見た。
*
太陽の残した最後の燐光がヴェールを引くように地平線の彼方へ去り、深く透明な紺碧の空が無限の優しさに満ちて広がっていた。一見したところ全く一様なその神秘な青の広がりの中にかすかな色調の変化、朧げな輪郭線に似たものが浮き出ていることにヨナルクは次第に気付いた。それは、意識を極度に集中すると次第に明確さを増し、気力が減ずるとたちまち拡散して消滅してしまう、ひどく捉え難い代物だった。
汗がたちまちのうちにひいてゆく。意識が鋼鉄のように冴えかえり、かすかな熱が身体の表面を蔽ってゆくのがわかる。そして、ヨナルクもそれを見た。
巨大な鳥の上半身が、丁度赤の城の黒い影の後ろから、身を乗り出すようにしてこちらを覗き込んでいるのだった。それは天空の半分を占めて微動だにせず、その青さは極度に凝縮されたそれで、視線はそこに一瞬でも留まると、圧倒的な力でその背後の無限へと意識もろとも吸い込まれてしまいそうだった。
但し、その全体の姿は素晴らしく優雅で、折りたたまれた翼の(それを広げれば、ほとんど全天を蓋うだろう)丸い肩先のあたりには、金色に煌めく星屑が三つ四つ、まるで典雅なブローチのように優しく懸かっていた。
ヨナルクは、既に一時の驚きを振り捨て、冷静な観察を始めていた。鳥は、ほんのすこし、その首を傾げたようだった。
「 あれは、夜の聖霊のなかでは最も強力な存在だ、夜の女王とでも呼ぶにふさわしい。もっとも彼等に性別はないだろうけどね。」
バスマンの声は、深く反響するように轟き、今やヨナルクは、二人の周囲の空間までもが変化していることを知った。師は続けた。
「 彼等の存在次元は我々とは全く異なっているから、普段我々が交渉を持つことはまずないといっていい。彼等は、普通我々が存在する、という意味で存在しているのでは決してないのだ。聖霊たちは、我々の身の回りのどこにでも遍在しているともいえるし、全く隔絶して生きているともいえる。あの化鳥は恐らく、最大級の存在だが、我々の世界に対して直接何んの力も振るう事ができないし、我々も又、あれに何らかの影響を与えるなどということはありえない。※2」
師は口を噤み、ほんのすこし肩を竦めて下界を見下ろした。旧市街の城壁通りはどこも同じだが、この時刻にはひどくごったがえしているのが常である。家路を急ぐ頬を膨らませた商人たちと、はやほろ酔い加減の不良青年ども、閉門直前に慌てて飛び込んで来たのだろう、まだ宿も決まらずきょろきょろしている行商人や職にあぶれた隊商付護衛兵の逞しくもふてぶてしい姿、宵闇に紛れてひどく艶めかしい女たち・・・、その足元をすりぬけるかっぱらいの悪童ども等々、とにかくありとある騒音の源、金切り声や罵声には事欠かず、そうやって、あっちにふらり、こっちにふらりと、かなりでたらめに流れる人ごみを、横合から、漸く力を増してきた暖かい黄色い光で照らし出しているのはいずこも同じ地獄の一丁目、居酒屋に射的場、娼家と公衆浴場のどぎつい店構えばかりというわけだった。道の上には縦横に綱が張り渡され、蛍光染料を使って染め出した広告旗や吹流し、挙句に魔除け厄除けのまじない帯までもが、折からの東風(人々は城山颪と呼んでいた)に煽られ、はたはたと勢いもよく翻っている様子である。しかし、いつもなら静かな師弟の会話を妨害するほどのかかる喧騒も、すでにすっぽりと断ち切られた形で二人の視界の遥かな底に沈み、人々や風や旗竿までもがこの滑稽な無言劇に参加して、何やら物言いたげに口をぱくぱくさせているのだが、この二人にはさっぱり届きはしないというわけだった。
<※1この訳文は、河出版4巻本ヘルダーリン全集(姉に借りました)に拠るはずですが、うろ覚えの為、不正確かもしれません>
<※2周知のようにこの断定的な立言は、意識的な虚偽であったが、その意図は明白である・・・ 存在論の夜の徘徊・・・ 真の存在論について・・・>




