第1巻第1部第21節 「夜の高原を行く二人、続き アトゥーラの左手首 護符」
なんと、ここは、第2節の終りからの続きです。お忘れの方がほとんどでしょうが、ここが現在進行中の主筋なのです。訳者も完全に忘れてました。気を取り直し、続けることと致します。
なお、第20節「愛の師匠の特訓」は、準備中です。
段落、或いは、節の変換の目印について、補足いたします。
基本的に、
【* * *】 左のように三つの*で区切られた場合、時系列が根本的に変更されたことを示しています。過去、あるいは、未来の完全に異なる場面、情景へ舞台が飛び移っていることを予め意味しているようです。
【*】 左のように行頭、*ひとつで区切られた場合、時系列に変更なく、同じ時間軸に沿って、ただ場面が変換、遷移したことを意味しているようです。
☆以上の補足は、巻頭の凡例へも追加記載しておきます。
閑話休題
支離滅裂さ加減が少しでもマシになれば、ご参考までに、と思うのですが、
今ごろ! 「ま、なんの助けにもならんのぉー」という声がそこに・・・ トホホ・・・
* * *
「 あのとんまなロバはすっかり夢中になっている。何を確かめるつもりだったのか、この僕に偉そうな口を利いたこともすっかり忘れているのだろう・・・ 」
ヨナルクは一人ごちた。
「 しかしそれも無理はない、夜の、最も強力な精霊でさえ、この子に引かれて姿を現すのだ、もっとも、ひどく嫌味なやり方で、さもこの僕に遠慮でもしているような現われ方だった。全く興味もなさそうに、いや、単なる偶然といった素振りで、わざわざ雲の下を飛んで過ぎた・・・ いつものやつらのやり口だが・・・・・・」
ロバは、もしこんな表現が許されるとするならば、殆ど失神寸前の恍惚境に浸されている有様だった。何やら口の中でむにゃむにゃ呟いているらしかったがすこしも言葉になっていない。時折、まるで感極まったように巨大な舌を突き出し、赤ん坊の顔全体をべろりと舐める。分厚い毛皮の鼻先が、赤ん坊の赤茶けた薄い髪をふんふん愛撫する。
「 一体こいつらはどうして気付かないんだ? よりにもよって一番肝心な点に、何故気付こうとしないんだ? それとも、僕をこんなにも不安にする、まさにその一点こそが、やつらをこうまで惹きつけるのか? 」
ヨナルクは、半歩だけそっと歩み寄り、離宮を出て以来、一度も正視せずに来た無邪気な姫宮の顔を覗き込んだ。赤子は、空腹の様子もなく、至極満悦といった態で、イヨルカの愛撫を受入れている。その青緑色の、右の瞳は、びっくりするほど大きく、二種類の異なった光を受けて、幻戯オパールよりも複雑な色調を帯び、輝き潤んでいた。そして、もう一方の瞳・・・ のあるべき場所には、黒い、底無し井戸にも等しい虚ろな眼窩がぽっかりと口を開き、〔その深さたるや、その奥に、神秘に満ちた脳の基底部の隠微極まる震動が、直接生々しくも見得る筈だと思われた〕この、わずか1トゥヴロンーーーーー貿易用銀貨コイン一枚ほどの深淵から、凄まじい霊気が渦を巻き噴き出している様が、男の目にははっきりと映るらしい。男はもうこれまでに何度も試みたように、あるヴィジョンに耐え抜いて踏みとどまり、己の運命の、より正確な幻像を掴もうとするのだったが、やはり持ちこたえる事ができずに後ろへ身を引いた。
「 何という奇妙なヴィジョンだろう、なんたる解きほぐし難いタペストリーだろう! 」
ヨナルクは額の油汗を拭った。己が肉体がこれほど正直に日頃の自制力を裏切り、自然の主張に屈する有様を、驚きというよりはただ唖然とする心持ちで再確認するのだった。
「 しかし、それにしても・・・ やはり、微妙に、奇妙に、旋回し、そう、何か、熱のある譫言のように、脈動し、変化しつつあることは確かなのだ、一体これはどうしたことだろう? 」
だが、この疑問こそこの旅の間中、何千回となく繰り返され、又その都度見紛いようのない正確さと素早さで答えが与えられてきた、余りにも明々白々たるトートロジーなのであった。その不快なまでに明晰な反復過程は、ヨナルクの心をさえ一種抗いがたい疲労感、無力感の深淵へと誘うのである。
「 答えは・・・ やはり・・・ 信じ難いほど明白だ・・・ 」
ヨナルクは歯を食い縛り、無心にじゃれあう二人を見つめた。
「 この子の運命は、僕のそれと決定的に交差しているのだ、この真実性は揺るがない、ほとんど絶対的だ。不可解なのは・・・ 」
男は、突然喉がカラカラになっていることに気付き、再び驚かざるを得なかった。
「 僕たち二人の運命の交差点に差す影が、全く、前代未聞の色調を帯び、一定しないということなのだ・・・善と悪・・・ 凶兆と吉兆・・・ 生と死・・・ なんという両極に引き裂かれ又分ち難く綯い交ぜられていることか・・・ 明らかに、この子が秘めている力は、僕の現在の力にも或いは匹敵するかもしれないのだ・・・そしてこの子の放つ未来への力線がこんなにも果敢無い、蝋燭の炎のように明滅すると言うことは・・・ 偏に今、僕の力が、僕の全く自由な意志が、この子の未来に直接関わっているからに他ならない・・・ そして、この僕自身が、この子の無限にも見紛う力によって粉砕されうることすら・・・ いや、それすらも垣間見える・・・ なんというむごたらしい結末だ・・・ ありうるだろうか? ありうるだろう・・・・・・まさに、この子の血統・・・? いや、血の導きなんぞに大して意味はない・・・
ワルトニアとグネトニアだって? いや、何よりの証拠は、あの精霊どもということになる・・・いまやこの炎を凍らせるばかりに集結している・・・ 何たる忌々しい・・・ こいつらの気紛れとは一体何なのか? あの時、この僕をも守ってくれた奴らが・・・ そして次には破滅の淵にもがく僕を平然と見送っていた奴らだが・・・・・・ 」
焚火の炎は次第に色彩を失い始め、今や殆ど透明に近い青白色だった。そればかりでなく、およそ考え難いことだが、熱度さえ奪われ始めているようだった。炎とは、それ自体の力で踊り揺らぐはずのものである。しかし、今やこれは冷たい熱のない炎だった。その狂おしい踊りは、まるで何者かに手荒くせっつかれ、こづきまわされてでもいるかのように、いやいやと、弱々しく、身をくねらせている。〔イヨルカの炎との同調・同質を洞察すべきか、否、この二項を結びつけることこそは、何者かの意志なのか〕
相変らず四辺の空間は空虚だった。ただ頭上の雨雲は、やはり刻々と厚味を増し、膨大な水の集積はひしひしと感じられた。しかし大気そのものは、奇妙なことだがひどく乾燥しきってひりつくようであり、そよりとも動かない。虫どもの合唱も、相変らず気狂いじみて喧しい。〔四大の分離過程を、ここでは、この、アトゥーラが促進している・・・という可能性・・・〕
赤ん坊は、遂にその左手をイヨルカの口の中へと突っ込んでしまう。舌を引っ張っているらしい。ロバは目を閉じ、恍惚として、鼻孔から、又、口の端からも光の洪水を吐き出している。赤ん坊はその熱のない冷たい光の渦に巻き込まれ、すっかり包み込まれている。
そしてヨナルクは遂に、その左手の隠された秘密に気付いた。手首の関節骨の奥深く、白い、幽かな霊気の纏わりを透視できたのである。まるでイヨルカの吐く光によってその存在が洗い出されたかのようだった。それはこの場に存在するどんな力とも起源を異にする、全く霊妙な、繊細極まる力の場でできていて、あまりに異質であり微弱なので、今の今までヨナルクにさえ感知できなかったのである。その力の本体・・・ 物質的な基盤は、ヨナルクにはすぐに理解できた。
それは、一本の髪の毛、母親であるラゼナ・グネトニアスの、輝く金髪の一筋なのであった。恐らくラゼナは、この印を頼りに、成長した暁の娘を、たとえ百万人同じ顔形の片目の娘がいようとも識別し見分けることができるにちがいなかった。それは、ヨナルクにさえ分解不可能な、真の母親にのみ可能な力だった。そしておそらくは、グネトニアの血統と長い白魔法の伝統のみが可能にした母性の力の極限の純化ともいえる精妙極まる技術だった。
あのごてごてした産着の縫い取りや、様々な宝石や護符、密かに隠された紋章など、セリナと二人で企んだ全ての用意は、してみると全てを承知の上の偽装であったわけである。ヨナルクに微かな疑念を呼び起こしたあの不可解なラゼナの微笑の源泉は、このあたりにありそうだった。
ひとつの命を完全に守りうる魔法、そんなものがあるとするならば、ラゼナは己が半身でも投げ出しただろう。けれども事実はこの通り、母親の願いの大きさとはあまりにもかけ離れて弱々しい、ちっぽけな、殆ど絶対的に無力なといってもいい、印ひとつが可能であっただけなのである。それこそ、引き離された母親の哀れさというものであった。肝心な命の保障だけは、全て、盲目の運命に委ねなければならないというわけだった。〔しかし、この印の真の機能、究極の力については未だ未解明の部分が残されている〕
ヨナルクは、心に引っ掛かっていた疑念の一つが突然解きほぐれた事に些か喜びを覚えはしたが、それが些細な問題の一つにすぎないこともわかっていた。こんなちっぽけな印など、ほとんど気にする必要もないわけである。もし、最大の、最後の問題を解決し決定するならば、自動的にこのやっかいな印も雲散霧消することは明白だったからである。無論、この子が生きながらえるならば、後々の無用の混乱を避ける為にも、この左手首は、切り落としておくべきはずである。けれども、今の今となってさえ、ヨナルクの決心は、より残酷な方向へと傾きがちなのであった。それは四囲の状況が、全て、その決心に対抗する様相を示し始めて以来、ますます固まりつつあるといってもよかったのである。イヨルカの変心と変成、聖霊どもの前代未聞の出現と集中、天候の異常、天体の運行の乱れさえ、全て、この子を守るべく、その足並みを揃えているかのようだった。
森羅万象の全てが、この子を殺してはいけないと囁いている・・・その膨大な圧力は、しかしヨナルクをとりまく空間一スパン手前でぴたりと止まっている。それが正確な状況というべきだった。
この男の力は、それほどにも強大なのであった。そして、より不可解なことは、かかる途方もない力の持主であるこの男が、いまだに、たったひとつの意志決定において、迷いに迷っていると言う事実だった。これこそ、この世における最大の不可思議、ある、意志の決定という神秘に纏わる最大級の現象と呼ぶべきなのである。最大級と呼ぶのは、
前例があるからである。それは同じように、弱々しい貧弱な炎を前にして行われたのである。
大気は、重く、淀んでいる。そよとも動かぬその重圧に耐えかねたのか、今ここの小さな焚火の炎は、ひどく苦しげに身を捩る。白い半透明の輝きが明滅する・・・