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第1巻第1部第18節 「薔薇園のカイアス その1」

*       *       *


離宮の内庭はどういうわけかロデロンと呼ばれているが、その広大さにもかかわらず庭師はたった一人しかいなかった。恐ろしくだらしのない、むらっ気な男で、誰もその素性を知らず、ただあのゼノワが直接雇い入れたのだという事実だけが全ての疑問や不安を封殺しているようだった。男は北庭と南庭にそれぞれ二つずつある奇妙な果樹園と中央部の二重回遊式薔薇園※だけにその全精力を集中して

いるようだった。庭の北西隅と東南隅にも小さな森があったが日当たりが悪く、殆んど手入れもされず荒れ放題であった。


<※沈床式と空中式の複雑な組み合わせ、及び回遊式と迷路様式の二重の二重構造が微妙に絡み合う全く特異な構成の薔薇庭園である>


男は全く人付き合いをせず、宮殿内にも住まず、気候のよい間は薔薇園と果樹園のあちこちで無造作にごろ寝をし、寒くなると薔薇園の肥料小屋に入って寝た。その横には物置と作業場を兼ねた馬小屋があったがいつもは灰色ロバが一頭いるだけで馬のいたためしはなかったのである。奥勤めの侍女たちはほぼ例外なく庭師を嫌い寄り付こうとしなかった。ある日、かなり勇気のある、まだ若い侍女の一人が庭師のところへ御裾分けのご馳走を運んでいったことがあった。というのもそれまで誰も庭師が食事をしているところを見たことがなく、一体何を食べて生き延びているのか不思議だったからである。

若い侍女は、醜いといってもいいほど簡素な墨色の、お仕着せのドレスの上に厨房で借りたエプロンを着け、かなり大ぶりなバスケットを小脇に抱えていた。昂然と誇らしげに擡げたほっそりした首には奥付の侍女の徽章である漆黒のリボンが巻かれてい、銀糸で縫い取られた小さな魚が三匹浮き出すように耀き泳いでいる。娘は、ドレスの裾を気にしながら最初の薔薇園のアーチをくぐったけれども期待した姿は見つからず立往生しなければならなかった。

その若い侍女カイアス・ポレマンドーズはそこで踏みとどまり引き返すべきであったのに、向う見ずにも全く見通しの利かない初夏の薔薇園の迷路の中へと入り込んでしまう。巧妙に仕立てられた蔓薔薇の障壁は高いところではほとんど一ボーズン〔凡そ10スパン=3メートルとみなされる〕を越え両側から押し狭まった頭上には深い井戸のような青い空の亀裂だけが見える。それさえも時にはのし掛かるように覆いかぶさる稠密なアーチに遮られ娘の体は全くの深緑に染まりきって仄暗く沈むのだった。

しどけなく開ききった大輪の深紅の薔薇が咽るような芳香を放っていた。それは空間に直接穿たれた傷口のように爛れひろごっていた。その無数の口が吐き出す吐息にアーチの下の大気は甘く重く淀んでい、カイアスは自身の吐く息までもが甘く重く淀むことに気付いた。髪と髪飾りが心なしか重く撓むように感ぜられる。ふと見るとドレスの袖口に無数の羽虫が付いていた。借物のエプロンの裾にも、バスケットの蔽い布にも胡麻のような小虫がびっしりと取り付き特に動き回ろうという気配も無く至極満足げにじっと動かずにいる。娘はちょっと顔を顰めてエプロンの裾を払ってみたがたちまち薄緑色の染みが広がってしまうので余計に気持悪く暫らく呆然としてしまう。芥子粒ほどの虫とはいえ大量殺戮には気が進まないので我慢してほうって置くしかないのだろうと思うのだった。

気を取り直して歩き出すと十歩も行かないうちに道は激しく曲がりくねり始め、それどころか突然陥穽のように現われる四段、乃至五段の階段の所為で地面はどんどん沈降して行き、悪意ある緑の漏斗に吸い込まれる哀れな虫のように娘は激しい眩暈を感じて再び立ち止まらねばならなかった。目の前には階段状の巨大な緑の壁があり視界を遮っている。ふと気が付くと辺りのあちこちに忍びやかな水の流れの音が聞こえていた。両側の複雑に撓んだ蔓薔薇の壁の間を幾筋もの流れが、隠された秘密の滝がまるで歌うような、澄んだ鈴のような声を上げて流れ落ちている。水の行方はわからず、不思議なことに足元の地面は常に乾いているので滝は中空で消え失せているようでもある。

「 随分深く降りてしまったみたい・・・ 」

若い侍女は遂に堪りかね独り言を始めた。実のところかなり前から相当うずうずしていた節がある。非常に明るい、陽気な性格なのである。それに筋金入りのお喋り好きなのでもあった。

「 でも、一体全体これを全部あの庭師が作ったのかしら? この壁も、薔薇の後に流れているカスケードにしても、千年も昔からここにあったような感じだし、不自然なことといえば、薔薇以外の草花が全然見当たらないことかしらん。」

カイアスは自身の思考自体が既に混乱していることに気付かず、それどころか妙に昂揚して浮わついた、なにか人恋しい気分に支配されていることにも気付いていなかった。この緑の漏斗管の底がある種の拡声・伝声装置の本質を備えていることにも全く無頓着で、かなりの大声で独り言を続けた。

「 マゲローネはとっくにあたしのことを見失っているでしょうね。」

カイアスは小さな溜息をひとつついた。

「 七階の東の出窓からなら庭全体が見下ろせるはずだけど、こんなに低いところまでは目線が届きっこないことは確かだわ。あたしがマゲローネだったらあたしに長いひも付きの風船を渡してたはずだわね。」

若い侍女は自身の迂闊だったことは認めたくないらしく、再び妙に混乱した思考を少し腹立たしげに追った。今、目の前には高さ三ボーズン以上はありそうな緑の壁が迫ってい、両側から急速に狭まってきた蔓薔薇の障壁と相俟ってほとんど行手は遮られているように見えた。

「 行き止まりかしら? そんなはずはないわね、道は壁に沿って続いているし、あっ! 冷たい! 」

突然、何の前触れもなく壁の一部が後退し高低差が二十スパンはありそうな滝が目の前に現われた。但し水量は大した事はなく滝壷とも見えない暗い地の裂け目には柔らかい水苔が分厚く敷き積もり落下する飛沫しぶきの全てを音もなく受け止めていた。ここにだけは薔薇以外の植物、例えば繊細極まる曲線美を見せる羊歯の類や、すっきりとのびやかに葉を伸ばす着生蘭の地味で密やかな花々が狂おしく繁茂する蔓薔薇の陰で全く違った形の美を見せていた。薔薇は相変わらず不死なるものの吐息のように咲き誇り、色は深紅のものは消え失せて、純白の大輪があたかも緑の闇の中に浮かぶ死者の顔のようにこごるような霊気を撒き散らしている。強大な蔓が四本、滝の両側から震える自身を差し交わし、水しぶきを浴びて細かく震え、その一部を迂闊な散歩者の顔や首筋にふりかけた。ここだけはひんやりとして薄暗く大変涼しかった。娘が見上げると右手の崖の縁には巨大な冥王楠の大木があり、真昼の打ち下ろす光線をも遮って静かな葉擦れの音をたてていた。この巨木は今丁度婚姻と生殖の二重生活を送っており開花と受粉の濃密な営みが人間の精液にも似たひどく淫らがましい匂いを振り撒いていた。この緑の狭間にはそれ故三重の神秘の香りが立ち篭めていたわけである。若い侍女カイアス・ポレマンドーズは己が肉体の内奥に蠢くごく密やかな衝動と天空を横断する月の歩みとの連関には全く無知だったがそういった複雑極まる錯綜体に由来する種々様々な恥ずべき欲情の全てに関しては甚だ偏った形でではあるがかなり詳細な知識を持ってはいたのである。トゥレマルクの最奥部、皇太后ゼノワ・ワルトランディスに直接奉仕する侍女集団─黒の娘達─その定数は十二名だが今は十人しかいない─の中でカイアスは下から数えて三番目の席次でしかなかったけれども高位の女官達のほとんど全てから様々な形の愛を受けていた。未だ処女であり破瓜の儀式さえ済んではいなかったのであるがそのしなやかで鋭敏極まる肉体の魅力には全く抗し難いものがあったのである。

それ故娘は滝の涼しさや官能的な水音の魅力に甚だ心を惹かれたけれども足を止めることはせずますます狭まる緑の狭間の奥へと歩を進めたのだった。やがて道は全く閉ざされたように見えたがそれは一瞬のことで濃密な薔薇の茂みの間に辛うじて暗い上昇回廊の入り口が見えその取り付きの足元には半ば埋もれた小さな石階が覗いていた。それは長い年月の間に徹底的に磨り減らされ殆んどぬめるような丸みを帯びていたがその両側を洗う信じがたいほど幽かな、あたかも鍾乳石を伝い落ち石筍を形作る微細な流れの如き水の道が時に蜘蛛の巣のように分岐しながらこんもりとした苔の林を成長させ今は石段の両側を鞘のように優しく包んでいた。娘は軽い布製のスパレンシア・サンダル─全く、こういったちょっとした山歩きにはなんとも不向きである─をスカートの裾を絡げてそっと石の上に下ろしたがその爪先も踵も既に泥だらけになっていることに気付いて小さな溜息をついた。しかしそれ以上頓着せずバスケットを前に突き出してしな垂れかかる薔薇の蔓を避け頭を屈めてできるだけ身を縮め暗い緑のトンネルを登って行った。石段は滑りやすく、よろけるたびに虚しく手を突き出して棘だらけの蔓を掴みバスケットを持つ手の甲や右手の掌はたちまち血だらけとなってしまう。けれどもその痛みは持続性がなく血はすぐに乾き、ただひりつくような灼熱感だけが全身の表面を蔽い尽くすように拡がってゆくのがわかるのだった。勾配は時として非常に急になりカイアスは殆んど四つん這いにならねばならず、その四足歩行獣の形はなるほどこの非常識な上昇隧道にぴったりの大きさにはなったけれども甚だ屈辱的な姿勢であることも確かだった。

「 バルカルス様には大目玉だわね。」

直属の上席者である美しい姉娘の叱責の表情を思い浮かべながら娘はひとりごちた。額の汗をさっと拭う。血と泥の香りが微かにする。

「 まあ、こうなったら覚悟を決めるしかないわね。」

噎せかえるような薔薇の薫り、熱い呼吸を続ける腐植土の香り、遍在する水の匂い、それら全てを包み込む植物の、緑色であるもの全ての精髄であるあの淫らの匂いが娘の肢体をぴったりと圧し包んでいた。

「 こうしてみると・・・ 」

娘は又一人話を始めた。

「 犬や猫の格好だって悪くはないかしらん。それともウナギかしら?ああでもこのドレスが邪魔!さっさと脱いでしまいたいわ。」

見上げると、まだかなり上方だが幽かに明るい、薄い青白色の裂け目が見えるのはどうやらそこが出口らしい。

「 やれやれだわ、ああもう、母さんちにいたころの口癖が出ちゃうじゃないの。ロンブローズんとこのパン屋の看板娘は口が悪いって何度言われたことかしらん。ヤレヤレなんてバルー様やテュスラ様に聞かれでもしたら・・・、おおっと、ほんとヤレヤレだわ。」

ここまで苦労して水平を保ってきたバスケットはやおら振り回され、中の料理やワインの壜がどうやら踊り始めたらしい。

「 なんだか腹が立ってきた! なんであたしがこんな目に会わなくちゃならないのかしら。庭男の奴、一体なんでこんなへんてこりんな庭を作ったのかしら。一体どこに居るのかしらん、まったくもう! 」

非宮廷用語連発の悪態をつきながら我が身を顧みるとドレスの膝や肘は既に泥だらけ、借り物のエプロンにも泥染みと血がこびり付いている。

「 あーいやだ、洗濯なんてしたくない! これはマゲローネにやってもらおう、でもちょっとは手伝わないと・・・あの子の交換条件はおそろしく変なんだ。あとできっと酷い目に遭うんだから。」

娘は今や蛇のようにのたくりながら進んでいた。肩を捻り、腰をくねらす度にドレスに裂き傷ができ、生暖かい血と汗が薔薇の緑の精髄と混ざり合い淫らがましい匂いはいよいよ強くなった。

「 変な感じ、上ってるのかしら、それとも下ってる? なんかクラクラする、マゲローネも一緒だったらよかったのに、あの子血の匂いが好きだし、この感じ、待って、待って!この蔓、 一体どっちに向って渦巻いてんの、あたしを出さない気? それとも押し出す気? あっ! ちょっと、いやっ! 」

道はほとんど垂直に立ち上がり娘は足を滑らせた。何も掴むところがない。一瞬だけ引っ掛かった足先は丸い階段石にすげなくあしらわれ中空を泳ぐ。もがけばもがくほど蔓薔薇の枝は絡みつき引き裂き締め付ける。エプロンは既に影も形もなく、ドレスどころか下着さえもはやズタズタになっている。娘は歯を食い縛りバスケットの持ち手が半分砕けてしまう。(両手を使うために口でぶら下げていたのである)と、突然道が傾き姿勢が楽になった。激しい吐き気と眩暈が行く手を、ほんの一瞬間、暗黒に鎖す。すると、そこが出口だった。

もがけばもがくほど執拗に絡みつく薔薇の蔓枝は、締め付け、ひねくりまわし、時に静かに緩めてまるで愛撫するような奇妙に混乱した動きを突然()めた。吐き気と眩暈が頭蓋の中の脳髄だけを揺すり上げ突き落とし最後とどめにぐるりと半回転させる。熱い暗黒と輝く白熱の鏡面があたかも一枚の板の裏表のようにくるりと反転する。蔓薔薇のひねくれた枝どもは、遊びに飽きた悪童どものようにあっさり娘を放り出す。

侍女は四つん這いのまま傲然と頭をもたげていたが、目は虚ろで口に銜えたままのくたびれたバスケットが間抜けだった。借り物だったエプロンは完全に消滅し、お仕着せのドレスは約四分の三、否、ほとんど全部が滅び去っていた。辛うじて残存していた下着が、いささか血塗れではあったが形のよい小ぶりな乳房とまだ幼い、未熟な陰部を隠しおおせてはいた。要するに殆ど全裸に近い有様であった。

口の中が涎で一杯だったので娘は咳き込んだ。バスケットが落ち、ガラスが触れ合う鈍い音がする。血の味が甘い。いや、むしろ苦い。

「 まあ、なんていう 」

侍女は口ごもり顔を顰めた。舌を噛んだのである。

「 チッチィ、ケッ! 」

意味不明語をニ語述べ、立ち上がった。まだ頭がクラクラする。

「 それにまあ、なんてかっこうかしらん、まったくもう、」

小柄でほっそりとしたその姿はまったくもって優美で、おまけに精悍でもあったが、服装の点で宮廷人としては失格であった。言葉遣いはもっと失格であった。

「 やれやれだわ、あれ、口の中いっぱい切ってる、なんかニガ甘い、」

侍女カイアス・ポレマンドーズは些か威厳を欠く格好ではあったが何故か偉そうに仁王立ちになり辺りを睥睨する。するとそこがまったくもって奇妙な世界であることにようやく気付いたのだった。

鍋底のようなのっぺりした空が乳白色に鈍く輝きながらしどけなく広がっている。心を震わせる青い色はかけらも見えず、風も無く、鳥も飛ばず、そして何より太陽が見当たらない。だが、暖かい光があたりに満ちていた。空気は湿り気を帯びて重く、そよとも動かず、にもかかわらず心を蕩かせるある濃密な気配に満ちていた。それは淫らの気といってもよかったが動物的な攻性衝動に満ちたものではなかった。〔冥王楠による仕込がきいているのかしらん〕

「 お腹が減ったし御飯にしよう、でもその前にちょっと口を漱ぎたいな、」

娘はきょろきょろしたが突然三十歩ほど離れたところに小さな泉があることに気付いた。それがまったくもって奇妙なことであることに娘はほとんど頓着しなかった。ほんの少し小首を傾げただけでまるでかまわず近付いてゆくのである。


時系列的には少し前後するようで、おそらくは、我がヒロイン出生の数か月前、同じ年の初夏の出来事ではないでしょうか。1、2年前という気がしないでもないのですがよくわからないのです。訳が進むうちに判明してくる可能性もございますので、その時には必ず注記させていただきます。

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