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第1巻第1部第2節 「夜の高原を行く二人   再びサイコロ岩   アトゥーラ目覚める」

「 それはそうと、さっきからずっと心配なことがあるんだよ。」

ロバ・・・ というにはあまりに人間臭いこの年寄りの動物は、〔もはや、 ヨナルクの呼ぶ通り、 イヨルカと呼ぼう〕さいころ岩あたりまでの態度とは打って変わって薄気味悪いほどおとなしく、そのけむくじゃらの口元には悲哀の影さえ漂っていたのだが、今や別の意味ですこしく興奮している様子だった。その不細工なほど大きな頭を左右に振り振り、ヨナルクの背中の赤ん坊にひどく同情し始めたのである。

「 あんたの話を聞けば聞くほど反対に、愈々ますますこの子がかわいそうになってきたぞ 」

イヨルカの鼻息は、白熱して眩く輝き、その光は二人の姿を照らし出し、この荒地のはるか彼方、渺茫と広がる砂地のうねりに沿って、奇妙に歪んだ濃い影を投げた。

「 もう一週間以上眠らされたままじゃないか、いくらあんたの呪縛が強力でも、生まれたての赤ん坊では体力的な限界がありそうに思えるな。まさか、このまま餓死させるのがあんたの目的ではないだろ?」

「 心配いらんよ、子宮の中で眠っているのと同じぐらい安全このうえなしさ。それどころか、僕は、この子をかついでいて時々妙な感覚を味わったよ。」

ヨナルクも、今はかなりな程度に舌がほぐれ、以前ならとても口には出せなかった微妙極まる事実をも、このロバ公に話す気分であるらしい。しかし、突然口をつぐみ、シッ!とイヨルカを制して耳をすませた。ロバも立ち止まり聞き耳を立てた。

黒暗々たる東の空の彼方から、何か巨大な羽音が近付いていた。ごく悠然たる〔イヤ幾分ワザトラシイ〕、そして強大極まる羽ばたきのひとうちひとうちで、十一月の夜の高原の、嵐を孕んだ重い大気は、名状し難い戦慄に満たされた。二人は見上げた。分厚い雲に閉ざされてはいるが、妙に底明るい青灰色の空を。そして、異様な双頭の鳥が、ほとんど天の半分を蔽う巨大さで一瞬のうちに飛び去るのを見た・・・・・・〔この鳥の正体については疑義がある。 ヨナルクは夜の精霊の一つと見た? 或いはこれはゴンケルム姉妹の分身であったのかもしれない〕


大気の揺らぎ─しかしこれは風ではないことに注意すべきである─はいまだに続いていて、二人の耳には、痺れるような、圧倒するような感覚が流れ込んでいた。

気が付くと、あたりは虫の音でいっぱいだった。〔そしてこれは奇妙なことなのである※〕


<※空間そのものの揺らぎ、エーテル※振動とする説も存在する。が、それは当たらない。虫の音、音波として先ず認識され、そして何の疑問も抱かせなかった事実に注目すべきである>


<※ここに言われたエーテルは、所謂物理学仮説としてのそれではない。強いて反訳するなら、霊質空間あるいは虚性空間とでもすべきものであるらし、と後の注釈者は言う>


 イヨルカは、もしこんな表現が許されるとするならば、四本の脚を突っ張ったまま、棒立ちの状態で、硬直し、瞳を輝かし、茫然として立ち竦んでいた。

「 さあ、先へ進もう。」

ヨナルクは、何事もなかったかのように促した。しかし、ロバは動かなかった。もじゃもじゃの毛皮の下で、筋肉が鋼鉄のように硬くなり、まるで金縛りにでもあったかのようだった。ロバは、三度ばかり妙にぎこちなく首を横に振り、すこし息苦しそうに咳き込んだ。

「 実に不思議だ! あの高度といい、時間といい、実に巧妙極まる! しかし、手出しなどさせはしない。」

男は呟き、もう一度ロバの脇腹を蹴った。しかし、事態は一向に変化しない。

「 偉大なヨナルクよ、まあ、そう蹴らんでくれ。」

ロバは心底苦しそうに、喘ぎながら呟いた。肉体的な苦痛が、そうさせているのではないとヨナルクは気付いた。

「 一体、何が言いたいのだ。」

脅迫的な響きが、男の言葉に加わった。ロバは、精一杯首を捻じり、主人を見上げた。

「 頼みがあるんだ。」

「 言ってみろ。」

「 その姫様を、今一度、一目見たい。」

ロバは、激しく首を上下に振った。ヨナルクは、微かに嘲笑したようだった。

「 今さらこれを見てどうする? 」

「 わからん、ただ、あんたの言ったことが本当なのか、この目で確かめてみたいんだ。」

「 僕は嘘はつかん。」

「 わかっている、だから、頼んでいるのだ、もう一度姫様に会わせてくれ。」

ヨナルクは、この毛だらけの種族の頑固さをよく心得ていたから、イヨルカに諦めさせることは不可能だと知った。首を切り落としでもしない限り、こいつらは諦めやしない! しかし、不可解なのは、この突然の変化ではなかろうか。それに何だって、今更この赤ん坊へ敬称をつけて呼んだりするのだ。

「 いいだろう。」

ヨナルクは考えを変え、ロバの我儘を口実にして自分の疑念を追求することにした。背筋を伸ばし〔背中の箱がガタリと鳴った〕、一蹴りくれた。

ロバは、まるで何事もなかったかのように、いや幾分嬉々として、そそくさ歩き始めた。

「 おい、おい、どっちへ行くんだ。」

背中の主人の声などどこ吹く風で、ロバは道を逸れ、ノイバラの藪の中へと踏み込んで行く。虫の音がいよいよ喧しい。二人の闖入に驚くどころか、ますます力を入れてがなり立てている気配である。何時の間にか降り落ちたらしい冷たい夜露〔状況としてはこれは怪しい〕が、イバラの棘の先端に輝き、千変万化するロバの鼻息の光を受けて、最も高貴な宝石、ダイヤモンドのように煌めく。ヨナルクの纏った青い微光が変化を添え、白露は変じてサファイヤと化す。イヨルカの脚力は以前に倍して凄まじく、さしも堅固なつる性植物の障壁も次々と道を譲る。一顆の白露が千々に砕け、虹色に煌めきつつ地上へこぼれ落ち散乱する。〔但し、勿論、単なる驢馬に、この障壁の突破は不可能である、地上最大の生物にさえそれは不可能なのである、してみると、・・・〕

災難なのはヨナルクだった。もう大分くたびれかけていた旅行用マントは、はやズタズタとなり、サンダルを皮ひもで縛り付けただけの素足は、引っ掻き傷だらけとなった。

しかし男は、首を激しく上下に振り遮二無二突き進んでいくロバの頭を見下ろしながら、意外の感に打たれて、暫しの瞑想に浸りこんでいた。 〔してみるとこの主従は、結局のところ似たもの同士である〕ロバの力強い動きは、男の頭を快く揺さぶり続け、この律動は、ほとんど果てしがないようにさえ思われた。

しかし、ロバ公は、やっぱり突然停止した。乗り手の状態を無視した、相も変らぬ急停止で、無用心なヨナルクは再びつんのめった。慌てて身を起こすと、目の前には、再び巨大なさいころ岩が聳えていた。


小さな焚火が、二人の姿を照らし出している。ロバは、乾いた砂地の上に置かれた木箱を気遣わしげに見下ろしている。時々頭を擡げて、さいころ岩の方を窺うのだが、その大きな黒い瞳には、無限の優しさと、ほんの少しの苛立ちが見え隠れしていた。枯れた小枝を組上げて作った小さな本物の炎が、毛むくじゃらの大きな顔の上に暖かい光の影を作って踊り狂っている。男は、ロバの焦燥を余所に、さいころ岩の壁面を丹念に調べていた。これは、一時間ほど前に見たものとは違って、長い方の辺が15メルデンはある巨大なものだった。中央に亀裂が入り、殆ど真っ二つに割れている。表面は、少し風化しているが、ほんのりと赤く、薔薇色花崗岩に似ているのである。この世に存在する全てのさいころ岩と等しく、一片の苔すら付着していない。まるで昨日切り出されたばかりといった風情だった。

ヨナルクは振り返り、ロバと木箱を見つめた。さいころ岩の巨大な影の下に、ノイバラの繁みに囲まれた二十歩四方程の、全くお誂え向きの小さな空地である。イヨルカは、まるで図ったようにここに辿り着いたのだった。

「 これを偶然と言うなら・・・」

と、男は、苦笑いして独りごちた。

「 僕は今すぐ廃業しなくちゃならん。」

そして、さくさくと砂を踏み、焚き火の方へと近付いていった。たちまち岩の壁面に、男の影が巨大に膨れ上がる。

イヨルカは、待ち兼ねたように頭を上げ、男の表情を読もうとした。極度に興奮し、すっかり無口になっている。ヨナルクは、木箱を挟んでロバと向い合い、片膝を突いて箱の封印を解きにかかった。右の掌に開放印を作り、貼り付けられた護符の上に重ねる。思わず覗き込むロバの鼻面を邪魔だとばかりに手荒く押しのけ、ヨナルクは、あっけないほど素早く箱を開いた。

赤ん坊は、粗末な産着にくるまれ、分厚いクッションにも守られて、すやすやと眠っていた。生まれてから幾日もの間、母の胸を知らず、誰にもあやされず、抱かれることもなく、ただこの古ぼけた木箱の中で眠り続けているのである。その頬には、ほとんど血の気がなく、痛々しいほど青白かった。

「 死にかけてる!」

イヨルカは、喘いだ。その声には激しい怒りが満ちていた。身体中の毛が逆立っている。

「 なんとかしろ!」

ヨナルクに噛みつかんばかりの勢いだった。男は平然として答える。

「 心配ない、呪縛の為にこう見えるだけなのだ。今、それも解く。但し、乳を欲しがって泣いても僕は知らんぞ。」

「 乳ぐらい、わしが飲ませてやるわい、早く起こせ。」

イヨルカは、滅茶苦茶なことを口走りながら、激しく身震いし、頭を振り立てた。その黒い瞳には、涙が一杯に溜まっているらしい。ヨナルクは、一瞬躊躇したが、〔それにしても、このロバの老いぼれぶり、いな、心変わりの極端さはどうだろう!〕すぐに気を取り直して赤ん坊を呼び起こした。ほぼ十日振りの解呪なのである。


目を覚まして最初に見るものが、毛むくじゃらの、馬鹿でっかいロバの鼻面では、赤ん坊の方でもさぞびっくりしたに違いない。とは言うものの、この子はいささか変わり者であって、〔それもそのはず、この長い長い物語の、要するに、第一のヒロインなのであるから。〕 別に驚きもしなかったようである。それどころか、ブブと呟きながら手を伸ばし、ロバの鼻の孔に指を突っ込もうとした。イヨルカは、たまらずくしゃみをし、思わず炎の鼻息を吹きかけてしまう。赤ん坊は、何が嬉しいのか、今や、薔薇色に染まり、さかんに手を伸ばして目の前の妙な物体を捕まえようとする。


[この赤ん坊の成長速度の緩急(停止停滞及び急加速・急減速)不審であることは古来識者連中の首をひねるところであるが、当事者たちは素直に、何の疑念も抱かずに、極自然に受け入れていることは注目すべきである。※]


<※この現象に関しては、ある血統・・・具体的には、グネトニア、ワルトニアの両血筋においてことに顕著な発現であるとみなすべきである、との注解が存在する>


ヨナルクは、もう二歩ほども後ろへ下がり、まるで親子のように興じ合う赤ん坊とロバを眺めるのだった。この有様は、どこかの超越的な羊飼いや、やさしい水汲み女のように、ただ素朴な心で見つめるならば、これほど牧歌的で微笑ましい光景もないはずだった。無敵の赤ん坊は、今はロバの鼻っ先の毛を無理やり引き抜こうとしているらしい。そしてこのロバの忍耐強さは驚くべきもので、恐らく酷くむずかゆいのとちくちくする痛みとに四つの膝がガクガク震えているのだが、首の筋一本とて動かそうともしないのだった。〔それは自発的な、鋼鉄の、金縛り状態とでもいうべきものだった〕 一方ヨナルクは、状況の滑稽さなどには頓着がなかった。ただ、揺らめく明りに照らされ、ひらひら動いている赤ん坊の左の手首に何故か目線が吸い寄せられるのを感じ、暫くその原因を掴む事ができずにいささか苛立たねばならなかったのである。勿論、四辺の状態も尋常ではなかった。痺れるような虫の音が、大気の揺らぎそのものと化して小さな焚き火の明りをも揺らめかし、光はその強弱ばかりか性質までをも刻々と変化させているようだった。又、その内部から、何やら途方もない変化が始まっているらしいロデロンのイヨルカはといえば、その吐く息の冷たい光の輝きは、極度に興奮した場合の先例をさえ遥かに乗り越えて、まさしく千変万化する色彩の洪水と化している。初めはこういった眩暈を起こさせる種々の光の交錯が、赤ん坊の手首に妙な具合に反射するのだろうかとも疑われた。しかしその考えはすぐに捨てなければならなかった。ヨナルクの鋭い感覚は、手首の関節そのものの中に潜むひとつの力、― あまりにも異質でしかも微弱極まるものなので、極度に精神を集中しなければならなかった ― を、感じ取ったのである。

暗闇の中で振り回される松明が、完全な円の軌道を描くように、暗黒の力に満たされたこの空間の中で、赤ん坊の手首は、ヨナルクにのみ識別可能な、白い、微かな軌跡を描くのだった。赤ん坊は、およそ無邪気な歓声をあげながら、哀れなロバの逞しい下あごを特有のしつっこさで、飽きずに、突っついては毟り取っている。よく見ると、ロバは本当に涙を流していた。途方もなく大粒の涙が、一つ、二つ、地上に降り落ち、ひとつは、木箱の縁に当って砕け散ってしまう。赤ん坊は、いぶかしげに手を休めた。もう一粒、虹のように煌めく涙が、今度は、赤ん坊の額の上に落ちる。赤ん坊は、ますますいぶかしげに眉根を寄せ、いやに哲学的な渋面を作った。そこでヨナルクは思い出したのだった。


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