第1巻第1部第12節 「ダインバーントの部屋にて 続き」
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「さて、これでいいかしら、」
繕い物を終わったテュスラはお道具袋を小さく畳みながら、しかしちょっと顔をしかめて左手の指先を舐めている。薔薇の娘は完全体となった三つのドレスを嬉しそうに眺めてから丁寧に畳みなおしていたがその手つきはちょっとばかり怪しいのである。しかし心底珍しいものでも見るようにテュスラの口元を見つめ少し口を尖らせた。
「怪我したの? ちょっと見せて!」
「たいしたこと無いわ、舐めときゃ治るもの、」
「不吉だわ、とっても不吉だわ、」
「大袈裟すぎね、」
「仮にもテュスラ・オッシナともあろうものが、いえ、クサンドル、・・・メイファーラー・クレサントともあろうものが、針仕事如きで怪我するなんてありえないわ、」
「裁縫なんてそんなものよ、怪我なんてしょっちゅうなのよ、」
「じゃあ、あたしに舐めさせて、」
「馬鹿言ってんじゃないわよ、」
「なによ、あたしには、すぐ早く薬塗れとか、薬湯飲めとかうるさいくせに!」
「あなた、自分の怪我の程度がわかって言ってるの? ドリュムフォーンズの穿孔痕なのよ、全く、普通の人間なら、いえ、普通でなくたって即死ものなのよ、」
「あ、あれは、丁度よかったの、目論見どおりだったの、剣の魔神と話をつけるにはあれが一番手っ取り早かったのよ、」
「ウソおっしゃい、あれはどう見ても行き当たりばったりの作戦だったわよね、後付もいいところだわ、あなたっていつもそう、」
「そ、そ、それは不当だわ、」
「第一流した血のことを考えてみて、あれはやりすぎよ(いろんな意味でよ)、イヨルカの奴とっても強気になってたけど、あれは反動が大変なことになるわよ、」
薔薇の姉娘ダインバーント・グリム・ガスタムは目に見えてしゅんとなり顔色にほんの少しわくら葉のような黄色味が加わったようである。
「あ、あれだって、そう、想定内の出血だったの、何も無理なんか・・・ふにゅむんぅぅぅ・・・」
と、語尾があやふやになり猫のゴロゴロのような極低音に変わってしまう。
「なら、もう一回ちゃんと見せて、さあ、ベッドへ行って、」
二人は、奥の寝室へ入った。ロココ風に統一された瀟洒可憐な内装で居間の簡素な風情とは対照的な豪華さである。天蓋付のベッドの上では猫のトリスタンが丸くなって眠っていた。揺り起こすと欠伸とともに目を覚ましたがテュスラに気づくと慌てて跳び起き、次の瞬間には毛だらけの森林大山猫の姿から元のメイド形態へと変移してしまう。ほとんど一瞬きの早業である。
「大変失礼をば、をばばば、」
「もうちょっと端っこに寄っててくれればそのまま寝ててもよかったのに、」
「そんな訳には参りません!」
メイドはしゃちほこばって答えたが、目線はテュスラの口元の厳しい曲線に釘付けである。
「昨日今日と部屋の模様替えを頼んでたの、疲れたのよね、」
「あなた、家具職人のトリスタンよね、」
黒衣の侍女はほんの少し呆れた風に、けれどもいささかわざとらしい堅苦しさで声をかける。
「まさにその通りで、」
「で、なんでメイドなの?」
「こ、これはダイン様のたってのご希、」
「まままあ、疲れてるんだし早くおさがりなさい、修正があればまたすぐに呼ぶから、ほらほら、」
メイドは慌てて退出するがその後姿を見て二人は噴き出してしまう。可愛いお尻のあたり、凝ったフリルのスカートの下から化け残しの猫の尻尾がブラシのように総毛だったままフリフリ垂れ下がっていたからである。
「あれでもとっても優秀なのよ、」
「知ってるわよ、でもねえ、」
テュスラは改めて室内を見回していたが、よいとも悪いとも言わず微かに首を傾げた。
「どう、いいでしょ、」
「暑苦しいわ、」
「ま、趣味の違いよね、」
姉娘は少し元気を取り戻した風だったがまだ微かに顔色は悪いのである。
「さあさあ、いいからちょっと横になって、ほら、上脱いでね、」
娘は掛け布団も捲らずそのまま横たわった。
「靴くらい脱ぎなさいな、もう、」
純白のオコジョに見紛う舞踏靴を鷲掴みに放り投げる。
「ねえ、何か怒ってる?」
「別に、」
「機嫌悪い?」
「そう見えるのならそうなのかもね、」
「あたし何にも悪いことしてないわよ、」
黒衣の侍女は娘の丁度腰横に座りぐっと身を乗り出してむき出しになった重たげな乳房の上に覆いかぶさる。
「はいはい、いいから黙ってて、」
「ちょっとクサンドル、息がくすぐったい!」
「黙って、息止めてみて!」
侍女は傷口に耳を当てたまま自身も息をつめている。
「ぷふぁい! く、苦しい、まだ駄目? くすぐったい、もう、乳首立っちゃったじゃない!」
「まだ駄目、温和しくなさい、」
足先までつかってジタバタしていたがすぐに大層静かになった。寝息を立てている。心臓の鼓動を数えていたらしいテュスラはやがて大きく息をつき起き直った。
「寝たの?」
「起きてるわよ、もう!」
「もう? 何?」
「知らないわよ!」
エリクレアはそのまま突っ伏してしまう。肩先が微かに震えている。
「クサンドル!」とくぐもった声。
「何?」
「あなた、ひどいわ!」
「なんのことかしら?」
「わかってるくせに!」
「全然わからないわ、」
エリクレアは背中を向け膝を抱えて丸まってしまう。
「まるで火山弾ね、」
返事は大きなオナラである。そのまま尾てい骨のあたりに無駄な力をこめて揺すぶっている。
「さっきの仕返しね、まあ、いいけど・・・」
クサンドルはさきほど裁縫袋を仕舞ったのとは反対側の隠しをゴソゴソやり出した。青緑色の液体のつまった超小型のマンドリンのような瓶が現れる。
「ほら、上向いて、エリクレア、」
無言である。
「お薬あげるから、ほら、」
まだ、無言。
「早く元気になってほしいのよ、」
「知らない!」
「そんな駄々をこねるなら無理やり飲ませるわよ、」
「できるものならやってみなさいよ!」
クサンドルはため息をついた。
やおら娘にのしかかり上向きにした頤先と鼻を摘まんで固定する。あらかじめ半分を口に含んでいたのを陸揚げされた魚のように大口を開け喘ぎ出したエリクレアにぴったり口付けしそのまま流し込んでしまう。娘は咳き込みも噎せもせずあっさり素直に飲み込んでしまうのである。
「ぷはっ!ずるい!」
「あと半分よ、」
残りを口に含むと今度は傷口に唇を押し当て全身の力を込めて吹き込んでゆく。そのまま強力な右手を当て封印の図形を意識しながら霊数を数える。すると黒い縁取りのあった剣の傷跡は跡形も無く消え失せて仄紅い愛咬の痕にも似た印がひとつ微かに残るだけとなる。
「終わったわ、」
無言。
「気分はどう?」
「最悪、」
「悪態つく元気があるならいいんじゃない?」
「最悪二乗!」
「強情ねえ、」
薔薇の姫は向き直った。顔がほんのりと赤い。
「添い寝して!」
全くの無言。
「添い寝して!」
やはり無言。
「ぐれてやる!」
「あんた一体どこでそんな言葉を覚えるの?」
「これは脅しではない!」
「阿呆くさい!」
「あなた、今夜はもう夜のお勤めもないんでしょう、ちょっとくらい付き合ってくれたってバチは当たらないはずよ、」
「あんたねえ、非番っていったってやることは一杯あるのよ、わかってるでしょ、」
「カイアスのお仕置きのこと?そんなのいつだっていいじゃないの!」
「馬鹿馬鹿しい、」
ロデロンの薔薇の大庭園、四大貴種の長姉、第一の姫君は殆ど人間種と区別のつかぬ微妙な翳りを見せて飽くまでも食い下がる。その声調に微かな恐れ、或いは慄きを感じたのだろうか、黒衣の侍女はやや眉根を寄せ数瞬の間の後大きな、わざとらしい、いささか諦めを含んだため息をつき、その骨ばった硬い肩を竦めてみせた。娘の満面にしてやったりの喜色がひろがるのはテュスラでなくともため息もの。
また、更新が遅くなってしまいました。申し訳ないです。
次回からちょっとややこしい描写が続くので少し悩んでいます。訳文を一部省略しなければならないかもしれませんので、別に非省略バージョンの発表方式を考えないといけないようです。でもまあ、話の大筋には関係ないのでこのまま読み続けていただければ幸いです。