第1巻第1部第11節 「ダインバーントの部屋にて」
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黒衣の侍女がその長身を第一回廊〔最下段回廊、又は、接地回廊とも〕に現した時、夜はもうとっぷりと更けていたけれども相変わらず揺蕩う沈黙が重い油のように全ての光と影をひたしていた。目的のドアの前に立つと、女は、一瞬静止し微かに首を傾げたがそれが内の気配を窺う為なのか己が容姿の完璧さを確かめる為だったのか、それは誰にも判定できないことである。ノックとその返事はほとんど同時でテュスラの姿をしたその女はするりと室内へ入り込んだ。重い木のドアを後手に閉めながら女はほんの少し呆れたようなしわぶきを漏らした。
「 ああ、クサンドル、ちょうどよかったわ、 」
部屋の主はまったく慌てた風でなく、かなり露骨に嬉しげなコントラルトで答えた。
「 ちょっとこれ手伝ってほしいんだけど・・・ 」
古いエンヌビィール式の舞踏服が半ば以上脱げかかり腰骨の上と背中の後ろでこんがらがっていた。長い複雑な結び紐までが正体不明の草竜の形で蟠り身を捩っている。
「 まあ、いったいどうすればこんなになるまで・・・ もう、めちゃくちゃじゃないの、 」
「 ふふ、今丁度右手までそいつにとられちゃって動けなくて、それに左肩はこうつっぱっちゃってまだちょっと痛いし、 」
「 でも、わたしが来るまで、あれから、ずっとこのままだったの、もう随分たつじゃないの、」
「 ふふふ、まさか、ずうっと月を見てたのよ、ほら、 」
薔薇の園の長姉、長身のダインバーントが優雅に身を捩ると背後の銀の枠、開け放たれた小さな窓が何やら合図を返すかのように、あたかも曖昧な水銀の致死の瞬きのように、ひどくゆっくりと揺らめくのだった。二人は窓辺に寄り添って立ちほぼ同じ角度で頤を月に向けていたが次第に苦しくなったらしい姉娘が遂に音をあげてより長身の相手の肩へとゴツンと頭をぶつけるかたちとなった。
「 あれを見ながら、」
と、ダインバーントは訴える。
「 こいつらをほどいてたらこうなっちゃったのよ、 」
「 全部あの月が悪いのね、でも、こいつらって、あなた、 」
「 今夜の月の性悪さに免じて、早く、お願い、 」
メイファーラー・クレサントは溜息をつき相手の頭を少し押し戻した。
「 相変わらずあなたの言うことは全然わからないわ、 」
黒衣の侍女はほんの少し強張った不自然とも見える冷たい表情のまま相手の窮状を見下ろしているがまるで慌てた風もなく長く骨ばった手指をゆっくりと動かしそのまま姉娘の頭を抱き月の光と同化したような白銀の髪飾りの乱れた縁を整えながらほとんど歌うような仕草でそっと引き抜いたがその手はそのままゆっくりと滑り落ちて肩甲骨の窪みをなぞり草の竜に噛み付かれたまま変な角度で捻じ曲がっている右腕の下へと滑り込んだ。薔薇の娘が微かな悲鳴を上げたがさらに容赦せずそのまま肘の角度を変えて飾り紐と締め紐の塊を引き抜き左の腰骨に沿って癒着していた左腕をも荒々しく引き剥がしてしまう。
「 あら、まるで魔法みたい、でもちょっと痛かったわ、 」
「 文句を言わないの、 」
薔薇の長女は自由になった腕と腰を優雅に振り捻りながらやっとのことで舞踏服からの離脱に成功する。床に落ちた純白の衣裳の塊はクサンドルの魔術的な手捌きで一瞬のうちに折り畳まれる。
「 これくらいなら直ぐなおせるけど? 」
「 あとでね、それより喉渇いちゃった、先にお茶にしましょうよ、 」
「 手伝いましょうか、」
「 いいから座ってて、」
ダインバーントは素早く奥の部屋に消えたが、すぐ風のように戻って来た。さっぱりとした、しかし暖かそうな部屋着に着替えていたが片手にお茶道具一式、もう一方には豪華な銀製の菓子器をさも大事そうに捧げ持っている。おかしいのは、お茶道具が載っているのは漆塗りの分厚いお盆であるのに菓子器を載せているのが馬鹿でかいカーフ装丁の二つ折り本であることだった。
「いつものでいい?」
「そうね、」
「そしてこれ! 偶然手に入ったんだけどとってもおいしいのよ、」
「偶然て、あなた、またトリスタンから無理やり、」
「ふふ、人聞きの悪いこと言わないで、」
クサンドルは香り高い湯気の向こうに無邪気そのものの微笑を見たが、その正体については心当たりがありすぎるので礼儀としてちょっと唇の端を持ち上げはしたけれど心底笑うことはできず溜息を一つつくのだった。
「で、その本は一体何?」
「あら、お盆が足りないんで使っただけよ、」
「うそおっしゃい、」
「ふふ、ばれてた?」
「その装丁には見覚えがあるわ、また、文庫に忍び込んだの?」
「まさか、借りたのよ、」
「うそばっかし!」
黒衣の侍女は再び溜息を一つついた。そして勧められるままに扇形の菓子器の蓋をとり桃色の薄紙に包まれた楕円形の砂糖菓子を摘まみ上げた。
「ピュースレーのとこの焼き菓子よ、なかなか手に入らないんだから、」
「ちょっと甘すぎるんじゃないかしら」
「遠慮しないで! こっちのも食べてね」
姉娘は、金色の包み紙の少し小さめのを二つ取り丁寧に剥いてから一つをクサンドルの口へ、残りを自分の口へと上品に押し込んだ。
「このお茶にとっても合うのよ、」
二人とも一杯目を干し、二杯目をついでから同時にほっと息をつき、互いの目の色を読もうとするようだった。古い友人同士であるからことさらに言葉にする必要はないのである。しかし、部屋着の胸元をしどけなく開けた薔薇の娘は茶目っ気たっぷりの微笑を浮かべ、他方は相変わらず物問いたげな、なにとはなく胡散臭げな厳しい表情を崩さない。
「おいしいけど・・・ やっぱり私には甘すぎるわ、」
「文句言わないの!」
「文句じゃないわよ、 そんなことよりあなた、」
黒の侍女は豪華な菓子器を脇によけ、台敷き代わりの馬鹿でかい本を取り上げた。
「レピド・アトラスじゃない、よくこんなものを持ち出せたわね、」
「ちょっと調べたいことがあったのね、」
「ヘンデルに見つかったらどうするつもりだったの?」
「まあ、大丈夫でしょ、」
「わたしが返しておこうか?」
「まだだめ、もうちょっと調べたいことがあるの、」
「またやっかいごとなの?」
「たいしたことじゃないのよ、ちょっと気になるっていうか、」
薔薇の娘は反対側から身を乗り出して本を開き一点を指差した。巻頭にあるルシャルクの全平面図マーレバステルである。開かれた瞬間から図は生成流動を始め最適解を表示すべく脈動を続けている。
「ここよ、」
首都を包囲≒守護する東の城壁街バスコム・バルダヴィントムの北辺近く第一の反応炉アグリコが置かれているあたりである。娘は空いた左手の指で図の変更板を押し簡潔に命じた。
「地下300」
すると図は直ちに表示深度を変え十二の反応炉の根をすべて映し出した。
「こいつがこのごろやたらに吼えているの、うるさくって、それに」
薔薇の長姉は右手の紅茶を一口啜った。
「熱苦しいったらありゃしないのよ、」
「暴走してるのかしら?」
「バスコムの考えてることなんか見当もつかないけど二つ三つ可能性は思いつくわね、」
「たとえば?」
「一番ありそうなのは、」
さらに身を乗り出し剥き出しの左腕全体が弧を描いてルシャルクの東旧市街を囲い込む。
「また、増設するつもりなのかも、」
「第12? いえ、十と三つ目の超解炉というわけ?馬鹿かしら?」
「ふふ、そう、まあ、それで放射角度に融通が利くようになるし休止分解とか炉床更新とかの日程に随分余裕ができるってパシュリトやデュ・カルルが言ってたのを聞いたような気がするんだけど・・・ 」
テュスラ・オッシナは近づきすぎた姉娘の薫り高い頭をすこしだけ押し戻した。しかし目を落とすと開きすぎた胸元から豊かな乳房がこぼれ落ちそうになっているのが丸見えでありいくらなんでもこれはひどいと思ったのだろうか黙って上のボタンに指をかけたがアラと呟きつつダインバーントの左の頬をやさしく撫でながらその頭を起こしにかかった。
「なに?」
「その傷もっとよく見せて、」
「もう痛くもなんともないわよ、」
「色が変わってる、何か別の力かな?」
黒衣の侍女の細く長い、幽霊蜘蛛のような指先がそっと傷口の縁に触れる。
「ねぇ、エリクレア、」
侍女は決して人前では使わない秘密の愛称で薔薇の娘を呼んだ。〔薔薇の長姉は、もう最初から同じく秘密の愛称であるクサンドルを使っている〕
「あ、ちょおっと痛いかも」
「ドリュムフォーンズの魔法障壁? そんなの残留するほどわが主の腕はドン臭くはないんだし」
「ドン臭いって、あんた、」
「ふふ、やっぱりあなた、ちょっと奮発しすぎたのよ、」
「まあ、イヨルカにはいろいろ世話になってるし、餞別みたいなものかしら、」
「大丈夫だとは思うけど後でお薬塗っといてあげる、」
「別にいいわよ、」
「たまにはあたしの言うことも聞きなさいな、」
クサンドルはそっと傷口にキスをしてから女友達を押し戻したがその鎖骨の下辺りには金色の微光のヴェールがあたかも暁の女神の指の押し型のように残っているのである。
「でもまあ、やっぱり一番ありそうなのは、」
薔薇の娘はちょっと嬉しそうだった。
「新しい合金にかかっているか、新型の砲座かなんかを作ってる?ってとこかしら、」
「そうね、これで見ても温度が上りすぎてるみたい、けど・・・」
「けど何?」
「あなた一体どこまで根を伸ばしてるの?」
「そんなことあなた、乙女に聞くもんじゃないわよ、」
「乙女ねぇ、」
クサンドルはあほらしくなって追求をやめた。薔薇の娘は指を使って本の小口の隙間を探り次のページを見つけたらしい、次はコレとばかりに広げて見せた。
「これはどう?」
「どうって、ガルデンジーブス様とこでしょ、」
「そう、西の門塞よね、」
「こっちは問題ないでしょ、いつも半分水に浸かってるんだし涼しいじゃないの、」
「それはそうだけど、今は別の局面の話なのね、」
「局面?」
「そう、局面、」
薔薇の長姉は突然真面目腐った顔付きで起き直り、座ったままなのに直立不動の威厳を取り繕った。
「これは賭けなの、」
「また? 無限と偶然が戯れるってアレ?」
「大真面目なのよ、」
「あら、そうなの?」
黒衣の侍女は端から冷ややかな表情を崩さない。
「ちょっとあなたの意見も聞きたいのね、」
「じゃあちゃんと一から説明して、」
ダインバーントはいかにもな勿体ぶった表情を崩さず右の人差し指を持ち上げる。
「先ず一つ、」
「どーぞ、」
「今、一番気になっているのは、もちろん、」
「もちろん?」
「アトゥーラ様の突破経路のことなのよね、」
「あっ!ごめん!」
「どしたの?」
「聞こえた? ガス出ちゃった、」
「あら、ほんとだ、ちょっとわかっちゃった、」
薔薇の姉姫は嬉しそうに袖で鼻を蔽う仕草をする。黒衣の侍女はかなり恥ずかしいことを暴露されたという風で全然無く、痩せた頬の真ん中に微かな鴇色の染みを一瞬浮かべたのみである。
「あなたっていつもそうね、アレが分離した時は大抵体調が狂うじゃない、」
「テュスラは今回はとても張りきってたわ、ほとんど全霊体で遷移しちゃってたものね、」
「残ってるのは、どう? 一割くらい?」
「精々五分ぐらいかしら、おかげでこっちはなんかスウースウーする感じ・・・」
「ねぇ、前から聞きたかったんだけど、あんたみたいな二重存在ってとっても不思議よね、もちろん、基体は人間であるあなたの肉体なのに、サイキスとの融合が可能だなんて、でもあんたの意識は全然変容してないし、それどころか、」
「二重存在なんてちっとも珍しくないわよ、 ゴンケルム姉妹だってそうじゃない、」
「あれは全然違うわよ、あいつらは天地開闢以来二人で一人なんだし、お互いに鏡像関係にある、それでいて全くの他人でもある、ほとんど、一般的に言って、ゾッとするような怪物じゃない!」
「それは・・・、ちょっと可哀そうだと思うわ!」
「まあ、それはそれとして、あたしはあんたの体調の方も心配なの、」
侍女は頭をつんとそびやかした。
「何の問題もないわ、むしろ、せいせいしてるくらい、」
しかし、薔薇の化身たる姉娘はしつこかった。
「じゃ、こうしましょ、あとで一緒にお風呂にしましょ、丁度とってもいい薬湯を見つけたのよ、しかも絶景の秘湯なのよ、いい? 約束よ、」
「タマーラ様の許可を貰ったら別にかまわないわ、そんなことよりあなた、アトゥーラ様がどうしたって?」
黒衣の侍女は抜け目無く話しを元に戻すフリをする。
「ガルデンジーブス突破の話だったわよね、」
「そう!そうだった! 今ごろ丁度西の門塞にとりかかってるころよね!?」
「うん、いえ、まだ、ちょっと先かしら、」
「今夜のイヨルカは絶好調だもん、まあ、あたしの血のおかげもあるんだけど、」
「月も明るいしね、」
「そうそう、それで丁度今ごろ要塞水路のこっち側で思案投げ首ってところなのよ、たぶん、」
「で、賭けって何?」
「カランがね、まあ、あの子の全くの好みなんだけど、強行突破の一点張りで譲らないもんだから、あたしが違う道を考えたの、」
「まあ、カランはねぇ・・・」
「あたしはね、正面突破だと思うのよ、」
「そうなの?」
「だってそうじゃない、大騒ぎを起こしても何もいいことないじゃない、ことは大秘密なのよ、それにガルデンジーブスは、五星公の中では一番虚栄心が強いじゃない、それこそ話に乗ると思うのね、」
「でも、第二王女の遺棄って話なのよ、ありえないわ、」
「まあね、でも絶対に秘密っていってもねぇ、ほら、アズレイン様だってもうなんとなく噂にはなってるんだし、」
「証拠が何にもないんだから問題ないわ、」
「そう、それなのよね、だから聞きたいの、あなたの主、というか、テュスラ・オッシナの主たるヨナルク・バスマリオンには何か奥の手があるんじゃないかなって、」
「イヨルカいわく、我が主には不可能は無し・・・」
「相手が五星公ではねえ、ある意味、ゼノワ様よりもやっかいだし・・・」
「だめよ、そんなこと言うのは、あたしの前ならともかく、人前ではだめ!」
「誰も聞いてないわよ、馬鹿ねぇ、」
黒衣の侍女はいささか反身になって姉娘を睨みつける。ダインバーントは澄ました顔でまた茶を注ぎ足した。
大変ご無沙汰してしまいました。リアルが煮詰まってしまい体調不良ですが、できるだけ月1回は更新したいとおもっています。かなりやっつけ気味に訳文を作りましたので、あと細かく訂正するかもしれません。なお、巻末の膨大な人名及び用語辞典もトボトボと編集中です。時々、きれっぱしをあげてゆくことになるかもしれません。