第1巻第1部第10節 「一同外へ 虫と月光 カイアスの失敗 出立」
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庭男が扉を開き、シドレクを除く全ての人は外へと出た。驢馬も厩舎側へ廻らず同じ戸口から外へと出た。六人はほぼ同時に夜空を見上げた。
「 よい空ね、」
「 星がうるさいな、」
「 まあ、夜旅の始まりとしては上々かしら、」
四辺を囲む離宮は黒々と寝静まっている。明りは、僅かな常夜灯だけが心細げに洩れちらついているにすぎない。東北角のロウピリス塔※にも光は見えない。
<※北塔、すなわち、古代の天文学者ロゥピリスの名に因む、羊塔とも呼ばれる>
月は、東館のでこぼこした屋根の上に、まだ未練がましく転がっている。さきほど小屋を覗き込んでいたのは別の月だったのか、疑えば疑えるのである。〔月の跳躍および反転については、アルバノ・ロゥピリスの論文を参照せよ〕その月光は、ほとんど固体のような強度で六人の正面に差し込んでいる。ふと振り返ったヨナルクは戸口脇の壁にへばりついている無数の奏楽昆虫どもの中から一匹のフトムネオオウマオイをつまみあげた。こいつは今丁度食事中でとげだらけのごつい前脚が作る駕籠の中にもう一匹別のヤブキリバッタを捕らえ柔らかい内臓を貪り食っているのである。
「 緑の虫が、緑の虫を喰っているのだな、全てが緑色に染まってしまうのだな、」
ヨナルクは、意味不明の言葉を述べた。つまみあげられたままウマオイムシは平然と己が食事を続けている。既に後半分は食い終わり羽の一部は落ちてしまう。胸部装甲板を避け最も分厚い筋肉の塊にかかる。喰われている方のバッタは放心したように中空を見詰めている。その複眼は暗く美しく、嘆きの色も餓えたような愛の叫びもない。晩秋の冷気がゆっくりとロデロンの擂鉢の底に降りてくる。虫どもは完全に沈黙しているのである。〔ただし、あちこちで、不正規な食事の気配がする〕
「 緑色といえば、そうだな、もちろん、最も複雑な色彩のひとつなのだが、おや、ダインバーント、不服かな、」
「 ええ、そうね、」
「 緑の精髄の一方の極は、このバッタの胸甲部、この冴えた色合いの中にある、いつ見ても惚れ惚れするな、そしてもう一方の極、それはどこにあるのだろう、」
ヨナルクはイヨルカを呼んだ。驢馬は寄り添うヒレィンと一緒に進み出た。
「 おまえたちが染め上げたこの色も、なるほど、一つの極限には違いない、それに、どうだ、ますます冴え冴えと、また、一段と深みを増してきたように見えるな、」
「 まあ、当然といえば当然ね、こんな月の光を浴びつづければね、」
「 月の光に酔うともいうしな、ふん、酔っ払い驢馬か、」
「 冗談も放談も御免だぞ、こんな巫山戯た色でお天道様の下を歩けるものか、」
「 冗談よ、洗っても絶対落ちないけど(テュスラはよくわかってたわね)全然心配ないわ、」
驢馬はぐるりと、いささか凶暴に首を振った。末の妹がまた不安げに鬣を掴んだ。
「 お日様が昇ってくればすぐに薄くなり消えてしまうわ、この星たちと一緒、そう、存在はしているのに全然見えなくなってしまう・・・ 」
「 今夜の星どもの光も妙に浮わついてやがるな、さっきシドレクも言ってた、そう、なんて言ったっけな、最近、図書館ってところで仕入れてきた言葉らしいんだが、えーと何だっけな、いっつもいっつも難しい言葉ばかり使いたがるのがあいつの悪い癖なんだ、」
カランソットの横槍にはいささか準備不足の気配があった。男が、曖昧に首を振った。
「 光の波動の変調-両極遷移だよ、」
いつの間にかシド・レクがそこに立っていた。この男の移動は常に無音である。但し、独特の気配があるので感知不可能というわけではない。
「 なんだって? さっき聞いたのとは違うぞ、」
「 いや、同じだ、あんたの記憶違いさ、それはそうと、ヨナルク殿、」
「 何かな、シドレック子爵殿、」
「 船の用意はできているのかな、」
勿論の意味で頷く魔法道士と侍女の甲高い悲鳴が同時だった。
「 も、申し訳ありません、申し訳ありません、忘れてました、すっかり忘れてました、ドランケンさんのところでした、今すぐ行ってきます、走って行ってきます、お願いですから、ゆっくり来てください、うんとゆっくりと、あああ、すみません、テュスラ様、すみません、」
若い侍女は約三秒間ほど棒立ちになったまま手を揉み搾り真っ青な顔で辺りを見回していたけれども遥か上席の副団長テュスラ・オッシナの異様な表情に気付くと殆ど腰が砕けたようにその場にへたりこんでしまう。黒の娘たち・・・皇太后ゼノワ・ワルトランディス直属の侍女集団―この奇妙奇天烈な女たちの特殊な構成とその性癖、強力な権能については、いずれ、いやというほど追究し問題とせねばならなくなる―これが、お互いの支配関係(友愛の編目模様、と彼女たちは呼ぶらしい)の中に持ち込んでいる複雑怪奇な趣味?の本質と技術的な詳細は、これはこれで優に一冊の分厚い本になるのであるが、ひどく頭が痛くなるので後回しとする。要するに、若い侍女は、優先命令を度忘れしていた自分に今頃気付き茫然自失、かろうじて悲鳴をあげることはできたが待ち受けている罰課の予想が条件反射的に腰の神経を砕き去り正常な判断、この場合、何が何でも最高速度で突っ走り船番の唖の小男のところまで一気に到達すべきであるという絶対条件をも完全に消し飛ばしてしまったのであった。娘は己が性の中心が疼くのを感じながらそれでも立ち上がろうと試みたけれども全く膝も立たない。しかし、意外なところから救援が来た。
「 お手をどうぞ、カイアス殿、私がお連れしてあげる、この場合、最高速度の優劣のみが問題となるはず、違いますかな、テュスラ殿、 」
シドレク子爵は、ヨナルクに勝ること3トゥールクのひじょうな長身であり、その暗い影がのしかかるようにカイアス・ポレマンドーズを蓋っていた。真紅の、滴るような眼球がゆっくりと舐めるように若い侍女のか細い襟足を凝視め(ナマ白い日焼け残しのバンドの跡が妙に食欲をそそるようだ)、その絡み付くような淫らな視線は蒼白の滑らかな肌の上をすべり、やがて襟刳りの上端にのぞく微かに膨らみかけた乳房の柔らかな曲線部へと落ちた。侍女は、その視線の重みを感じたのかゆっくりと顔を上げた。鎖骨の窪みの辺りに何かが揺蕩っているような気持ちの悪さなのである。そしていくらの間もおかず真っ赤となった。
「 け、けっこうです、お、お心遣い感謝いたします、けれどももう立てますから、ええ、大丈夫ですから、 わ、わた、 」
若い侍女は百足子爵の手を取らず、両手をばたつかせようやく立ち上がった。背後に回りこんでいたテュスラはごく乱暴な、わざとらしい手つきで後ろを払ってやりドレスの皺をものばしてやる。
「 カイアス、 」
「 はい、テュスラ様、 」
と、たいへんしおらしい。但し、基本の礼儀さえ忘れているのはまだ幼すぎるからだろうか、
「 お力をお借りなさい、今はまあ、時間が優先です、シドレク様、大変心苦しいのですが、どうかよろしくお願いいたします、 」
侍女の小さな悲鳴が残されたが、二人の姿はきれいに消滅している。テュスラはちょっと悪戯っぽい皮肉な笑みを浮かべて弾丸のような影をほんの一瞬間見送っていたが、すぐに呆れたように主を振り返った。
「 おまえはあの子には随分と厳しいんだな、 」
「 見所があるからこそですわ、それよりもご主人様、 」
「 なにかな、 」
「 いつまでその子に見蕩れてらっしゃるんです、 」
緑衣の修道僧は目の高さに掌を捧げもちまだ二匹の昆虫に見入っている。ヤブキリバッタはもはや頭部の一部を残すのみだがその複眼は未だに月光を吸い続けている。ウマオイはその長く震える扱いにくい触角をいささか不味そうにしがんでいるのだがもはやつかまっているわけではないのに手の平の上で至極満足そうに大人しくしているのである。ウマオイ自身の触角は恐ろしく長く優雅に後方にたなびきゆらめいている、ヨナルクの指先がその先端に軽く触れる、と、一瞬たじろぎ、そして、軽く、世界を半周するようにゆっくりと、空間を薙ぎ払うように旋回し、進む、
「 月と星の光が、これの先に輝いている、反射もせずに・・・ 」
「 ねぇ、カイアスはどこへ行ったの、ちょっと泣いてたんじゃなかったの、 」
ヒレィンがイヨルカに、密やかに尋ねる。青緑色に鈍く輝く驢馬は首を振った。
「 別に問題ないさ、 」
「さあ、さあ、さあ・・・ 」
テュスラ・オッシナは軽く手を搏った。そして優雅な三点式舞踏のステップを踏みながら緩やかに旋回し、また旋回した。次第に速度を上げ、旅行用の厚手のマントが大きく広がり波打ちながら回転する。奇怪な象形文字を描くように、長くほっそりとした脛が複雑に、お互いにからみ合うように交差するのが、ほんの一瞬、閃くように目を射る。長身の侍女は、対数螺旋の一部を切り取りながら地を進み真の主の左側へと接近する。薔薇の娘たちはそれを遠巻きに見つめていなければならない、カランソットの舌打ちが微かに聞こえるようだ。
*
ヨナルクは遂に虫との対話をあきらめた。ウマオイの方にその気がなかったのだから仕方のないことだったのである。両手が空いたので男はマントを両側へと開いた。その左脇の下へ、テュスラがするりと入り込む、が、すぐに右腕の下から現れた。但しもう旅装ではなく普段の侍女の制服のままである。
「 では、ゆこう、」
男は、ダインバーントへと再び挨拶を送る。薔薇の長女は優雅に答礼するがいつもの微笑ではなく、微かに皮肉な笑みが混じっているようだ。
テュスラは慌て者の配下の侍女カイアス・ポレマンドーズが残していった巨大なバスケットとお盆を手に取ると微かにため息をついた。
「 ヨナルク様、わたしはこのまま厨房へ戻ります、これを返さなくてはなりませんし、それにタマーラ様にも呼ばれておりますので、」
「 では、後は頼む、ゆくぞ、イヨルカ、」
驢馬と修道僧は船着場へ向かい、作業小屋の前には四人の女が残った。一番小さなヒレィンだけは、驢馬について行きたそうにしていたがすぐにカランソットに手荒く抱き締められ、ほとんど雑巾のように締め上げられていた。
「 カラン姉さん、やめて、苦しい、」
「 駄目だ、駄目だ、この役立たずめ、」
「 駄目です、駄目です、そこは、その穴は、ドリュムフォーンズの痕で、まだ痛いのに、 ああ、やめて、姉さん、 」
黒衣の侍女は、ただびたすらにじゃれ合っているようにも見える薔薇の次女と四女を冷ややかに見つめていたけれども長姉ダインバーントの視線に気づくと幽かに微笑みを返した。
「 ちょっとだけいいかしら、テュスラ・オッシナ、いえ、メイファーラー・クレサント、 」
長身の侍女は心持眉を顰めたがほとんど感知できないくらいかすかに頷いた。
「 お手隙の後でいいのよ、ふふ、急ぐことじゃないの、 」
「 では、のちほど、お部屋の方へ、 」
姉娘は扇を一度開き中を読みまた閉じた。先端で頤先をちょっと支えてみたが、すぐに額を軽く叩いた。
「 ああ、それから、例のお道具を持ってきてもらえると助かるんだけど・・・ 」
「 承知いたしました、では、 」
二人はお互い優雅に会釈を交わし至極あっさりと別れた。長女たる薔薇の姫は二人の妹の姿をさがして見たがどこにもみつからない。小屋の中からは何やら木槌で物を叩く音がする。ひしめきあっていた虫共の姿は掻き消すように失せている。ただ、硬い月光のみが、地上のすべてを制圧し沈黙を強いているかのようである。