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第1巻第1部第1節 「光の驢馬」 全編の序曲 ここは、わざとらしく衒学的に、唐突に始まる・・・、が、そんな調子は長くは続かない

以下あらすじの末尾より移動いたしました。

適宜ご参照いただければ幸いです。


翻訳上及び訳文表記における記号類について若干の補足

括弧の類

≪≫ ;編集者によるメモ  編集メモの場合最後の数字01、02・・・は編者の代数をあらわす、不明の場合もある;以下同じ 

() ;主にルビ代用として機能する   又は、発言・会話の中の心中詞、傍白

〔〕 ;筆者(報告者)による補足

[] ;不明な注釈

「」  ;勿論、会話

<> ;本来欄外の原注として扱われるべきもの。※印によって導かれる

    但し、記者は一定しない

― ―;思念 心中語  精神感応会話符としても使用

―― ―― ;思念(圧縮版?)高速言語、非言語による  稀に、超高度精神感応状態(全開双通感応融合状態)における相互観念往復引用符としても使用


段落、或いは、節の変換の目印について、補足いたします。

基本的に、

【*      *      *】  左のように三つの*で区切られた場合、時系列が根本的に変更されたことを示しています。過去、あるいは、未来の完全に異なる場面、情景へ舞台が飛び移っていることを予め意味しているようです。

【*】  左のように行頭、*ひとつで区切られた場合、時系列に変更なく、同じ時間軸に沿って、ただ場面が変換、遷移したことを意味しているようです。



結局その灰色ロバが・・・ 〔奇妙に沈んだ・・・妙な色合いの灰色なのだが・・・〕かかる曖昧な薄灰色の闇の中で何色に見えたのかという問題は残ったけれども※


<※ここの語法は奇妙であるが結局、「全てが灰色の中で、何故、灰色ロバが認識されうるか」という意味らしい、反訳者のミスもありうるが、一応直訳しておく>


その鼻息たるや酷く艶めかしい真紅色とドロリとした橙色が奇妙に、生々しく混じり合う、奇怪な、冷たい、炎の渦なのであった。それは規則正しく軽やかに吐き出され桃色綿菓子のようにふわりと宙に浮き上がる、と突然、目も眩むばかりに白熱する、一瞬の後、少しこわばり縮み始めた光の雲は徐々に黒ずみ、やがて夜闇やあんの中へと渦を巻きつつ溶け去って行く・・・

その一瞬の、まことに強烈な輝きが、馬鹿でかい頭と馬鹿でかい耳、痩せこけた脚、はげちょろけた、いささかだらしのない貧相な横っ腹を照らし出す、するとこれが、〔ロバとしても!〕相当に不器量であると告げる訳だった。

〔私はこの一族をよく知っている、この醜さ※こそ彼等の血統の立派な証しなのである。〕


<※醜さとは何か、定義せよ、と問われたとしても、ここで簡便に、人の口の端にのぼる美と醜の間の両極端な往復観念を、やっつけ半ばの鏝仕事のように塗りつける訳にはいかんのである、私としては無論、ここでは、断固として、「美しい」を選ぶ>



この夜、無限の灰色に塗りつぶされたかに見える宙吊りの大地、名にし負うヴェラン高原、真夜中の台地が、いつ、いかなる鉄槌の下で打ち砕かれたのか、それを知るものは、ただ!真なる神!だけだとして、ありとある色彩が失われ、無惨にささくれ立ち、あまつさえ棘だらけの、やっかいな帯さえ闇の底方そこいにのたくっている・・・ 要するに、全ては、真冬の壊滅状態の先駆けであり、四時の歩みは一見ありえない狂いを見せてはいるが、この不気味極まる接近の倍音こそ


≪コノ間約三行バカリ原稿欠落ト思ワレル01≫


純粋な灰色とは〔夜の闇の中でこそ〕最も識別し難い色彩であって、これはもはや色とは呼べず濃密な質量をもったある何物かだった。※


<※非知の領域であり、後出「負の質量」こそ、それにあたる。その本質を追求すべき思索者は未だ現れていない>


そこには、手にとってつかみうるほどの生々しさでなにか得体の知れない魔的な、〔といっては正確さを欠くとすれば-これは我が憲章に反する-、全く不可知の〕気配が充満している。こういった負の質量こそあらゆる予感を孕んで、全く反語的に豊かであり、真の神秘と呼ぶに相応しい。

〔それゆえ、夜の魔獣たる踵猫きびすねここそが、灰色を好むーという諺があるのだし、また、ここに登場した四ツ足の、不細工な獣も、そう、まさしく灰色なのだ〕

〔色彩-共感覚論の迷路に踏み迷うことは、ここでは本意ではないが・・・ いずれ新しい定義が必要になるはずである・・・ 〕

しかして、かかる非現実的な書割を背景に、不気味に正確な律動の下、甘やかな薔薇色に染まっては闇の底ひからぽっかりと浮き上がり、又、掻き消すように没し去る一頭のロバ・・・ ※


<※この光景には、確かに、非物質的な趣きが色濃い。これを目撃した人間のなかったことは幸いだった。ここに相応しい唯一の表現としては、アユグスティルナノスの聖なる箴言―「宇宙の闇夜を貫き疾駆するあの赤い彗星の脈動を見よ(あな、恐ろしき・・・)」が想起される。しかし、この引用の文脈は、運命の寓意としてであった・・・>


〔言っておくが、この夜は、真に特別な一夜、信じ難くも稀有なる一夜だった、我が全身全霊を震撼させた夜、予言と、その不実な成就の夜、相矛盾する両極端が一致し、又、離反する夜、全てが終わり又始まった夜・・・ いやいや、先走りすぎたようである・・・ 〕


さてしかしその上に跨って、しかもこんな非常識極まる時間に、下のロバ公がどっちを向いて歩こうが一向に頓着もせず、幾分俯き加減に首を上下に振り振りしている男・・・居眠りしているわけでもないらしい ―― 何やら時折ぶつぶつ呟く風さえもある・・・〔その言葉を聞き取ることはできなかった、それは人間の言葉らしくはなかった、圧縮された概念語や、高度な魔術用語、呪文の類とも違っているようだった、そう、まだ、この時は・・・〕

星もなく風も絶えた夜空からは、分厚い雨雲の重圧が絶えずのしかかり、大気のちょっとしたそよぎも許さない。四辺の静寂は絶対の夜の不動性に満ち、辛うじて生き残っている幾分焼糞気味の我が同胞はらから-コオロギどものかそけき多重唱、夜眠る鳥の身じろぎ、その夢の中での不安に満ちた叫び、陰獣どもの密やかな足音などを百倍にも増幅する。※


<※真の静寂と、かかる物の()とが、相互に強め合う働きをすることは、真実である、と思われた・・・ と書かれている>


〔孤独な夜の旅人にとって、これほど不安を掻き立てるものがあるだろうか?〕 遠方では、かなり物騒な四ツ足の種族が、何やら隠微な合図を送り合っているらしい。

しかし、男は、さして気にかける風でもなく、果てしがない ―― 恐らくは永遠の堂堂巡りでしかない自問自答を、飽きずに繰り返している訳だった。


さてロバ※の方が、かの預言者をのっけたとかいうブラーク〔足癖が悪かったらしいが、それも頷ける〕の親類筋に当たるとすれば、


<※驢馬ほど自信に満ち、断固として、横柄で、物思わし気で、尊大で謹厳なものがほかにあろうか。 ・・・これは、わが友の銘として、私が刻むのであるが、要するに例の円塔の隠居親父、頑固一徹の助平爺の試論からの引用であるらし>


こっちの男の方も相当におかしな風体とはいうべきだった。まず、かなり上質の毛織の旅行用マントを幾分だらしなく纏っていた。〔しかし見方によっては、ちょいと粋な着こなし!とも言える〕どう控えめに見ても郷士階級の、それも相当に実入りのいい若旦那あたりが身に着けていておかしくはない代物である。色は・・・もちろん灰色なのだが、染上り、仕立て具合、ともにいかにも上等で品がよろしい。これを見立てた人間は、かなりの趣味の持主と言える。〔もっとも、今は大分草臥れ果ててはいる〕次にその下には、明らかにフラグメンタル教団※の最下級修士が身に纏う規定である、粗織の修道衣ー緩やかな薄緑色のワンピース(男女兼用である!)と黄色く染めた革帯だけからなる簡素極まる屋外用作業衣が確かに見え隠れする。


<※某フラグメンタル教団のモットーというのが、これまた・・・>


これだけでも相当におかしい。足元はと言えば素足に皮ひも二重螺旋巻のサンダル履き、おまけに時折マントの裾からは、凝った造りの長剣※の鞘がちらりちらりと-ほとんど猥らというにも等しい、もってまわったわざとらしさで-覗き出る始末である。〔長剣! この忌々しいシロモノに関する講釈は後々イヤというほど出てくるだろう〕


<※これを剣の物語と定義することもできるほどである。このネジレタ世界を舞台としてコントルダンスをやらかす剣は、全部で8本もある>


気になる顔付きはといえば、今は深いフードの陰に隠れてよくは見えない。とにかく全てにわたってチグハグな、まるで頓珍漢な取り合わせなのであった。

場違いと言えば、こここそは、名にし負うヴェラン高原、世界で最も荒れ果てた土地であって、ここいらの本当の主人は、〔直にわかることだが〕二本足ではなく四本足なのである。季節は最悪の冬に向かって転がり落ちて行き、餓えにおびえた幾千の牙が喰い溜めをしようと彼方此方あちこち走り回っても、喉を通るのはただ風ばかりというていたらく。先程から聞こえる物騒な合図も、何とはなし、徐々に険悪の気配を濃くしている。

時は真夜中近く、たった一人、ロバに跨りフラフラふらついているこの男、とてもしっかりした目的地がありそうには見えない。例えば放蕩に身を持ち崩し頭のおかしくなったどこかの若旦那が、旅の修道僧※の真似事をする内にほんとに道に迷ってしまった〔コンナコトハよくある話ではある〕-にしては、一向に取り乱した風もない。


<※修道僧なる存在について一言・・・  私は基本、彼等の存在意義を認めない>


それどころか一心不乱に何やら考え込んでいる有様で、ツマリ色街の性悪ダンサー※にいれあげた碌でもない貴族の坊っちゃんが、縁繋ぎ、ご機嫌取りの贈り物の種が切れかかって青くなり、すこしでも珍奇なものを手に入れようと目を皿のようにしてバランクレー※なんぞをうろついているなどという、これもよくある話だが、それでもなにやら場違いにのんきな風情が、 そこはかとなく漂っているのが奇ッ怪ではある。


<※性悪ダンサーについても一言・・・  後ほど意外な形でお出ましになる?!>


<※バランクレー街・・・常設の密輸品市場(泥棒市場などと言う陰口もあるらし)が開かれている・・・はずである・・・>


ソンナバカナ!!と、声を大にして叫ぶべきである、仮にも旅の修―行―僧―・・・に対してする連想ではないのである。よろしい、この男が本物の、しかも豪胆極まる聖者であるとしよう、なにもミコールパの岩窟にこもってばかりが修行ではない・・・・・・ さてしかし、当節では遍歴の武者修行ナド一向に流行らぬのである。まして修道院や城塞僧院さえ一寸気を緩めればすぐさま略奪と放火の対象となるような時代に、わざわざ修行と称して荒野にふらつき出る馬鹿※はあまりみかけなくなったのだった。元来貴族の武器である長剣を旅の修行僧が身につけている事も、時代の流行り廃りの一例とするならば大目に見ることもできようが、古風な考えの長老ならば頑として否定するに違いない行き過ぎた武装というものであった。〔古来、僧侶の護身用具としては、毒虫除けの金輪のついた木製の杖しかゆるされておらなかったし、大幅に戒律が緩められた昨今にあっても、刃渡り半スパン以下の戒刀だけがー俗にこれを菜っ切り包丁と呼ぶ-唯一身につけうる金属製の武器であった。勿論、ここでは、その贅沢振りにも大いに問題がある〕


<※馬鹿・・・ (失礼!)ということは、絵に描いたような銀甲の騎士 グレイゼル・キャムメリダムも、相当におかしい・・・>


さてしかし、今問題となっているこの男においては、かかる細かい詮議立てなど軽く吹きとんでしまいかねない、さすがはこの珍妙なロバ公の乗り手だけはあるわいと唸らせるほどの、非常に不可思議な現象が付随するのである。それは精々十分ばかりでよいのだがこの奇妙な主従?にそっと付き添って行けばわかることで、気の弱い迷信深い人間なら卒倒しかねない実に恐るべき光景が現出するのである。

さっきも言ったが、まず、この妙なロバ公の鼻息が渦巻く炎のヴェールとなって暫くまつわりつく。 〔その色ときたら、全くもって妙になまめかしい、イヤこれだけでも相当びっくりさせられる〕不思議なことに、いくつかに分裂した後の小さな光の雲の切れ端は、僅かな時間差をおいて次々と、目も眩むばかりに発光し白熱する。その光は、ロバと男を眩く照らし出し、荒れた地面に濃い影を落とすほどだ。やがて一時、全ては薄闇に紛れ元の灰色になる。ロバの蹄が枯草を踏みしだく音ばかり、すると男ははっとしたように頭をもたげ、背中の日月箱〔旅の修道僧が常用する大型の背負い式木箱で、日用品や法具を納める。箱自体はそのまま祭壇、或いは説教壇、もしくはもっと世俗的な目的の為にも〔もちろんちょいと改造しなければならないが〕利用できる、まさに万能の巨大背嚢である〕をガタリとゆすり上げる。次の瞬間、男の全身は青白い微光に包まれる。明らかに肉体の内部から発する光で、手綱を取る細い指先などはほとんど輪郭を失い揺らめいて見えるほどである。薄い修道衣を透過し、毛織のマントをさえ青紫色にほんのりと染め上げるその光は、この世のどんな光ともその性質を異にする、まさに異界の光だった。これに比べればロバ公の鼻息の炎など手提げ堤燈ランタンのありふれた明りだと言ってよい。〔光の強さではなく、その源泉が問題なのだ〕とはいってもこのロバ公の鼻息こそ全ての謎を解くひとつの鍵だとする根強い意見のあることも、ここには記しておくべきだろう。

それにしても、何故、ロバなのだ、ただの? 貧相な? 不細工な? ロバなのだという大いなる疑問に答えるべき時がいつかは来るのかもしれない。古来鼻孔から炎を噴き出す代物といえばそれはドラゴンであると相場が決まっている。それをロバ公などとは、単に奇を衒っているにすぎんではないかというわけである。しかし、冷静に検討すべきはただひとつ、お話ばかりで誰一人実際に見たもののいないドラゴンはともかく、ここで現実に炎を噴き出しているのは正真正銘紛れもない本物のロバ公であって、真の驚異はおどろおどろしい外見にばかり存在するのではないといういつの世でもあんまり人気のない、しかし記憶しておくに値する意見なのである。しかし念のため書き添えておくがドラゴンなるイメージの原型、或は源泉となったに違いない驚くべき存在の生き残りを一人?、私はよく知っているのだが、そいつは決して鼻の孔から炎なんぞを噴き出しはしないのだった〔もちろん、全然不可能というわけではない、と彼?又は彼女?はいささか皮肉っぽく保留したが・・・〕。それどころかその偉大な生物―イキモノは、ドラゴンなる化物のイメージをひどく軽蔑していて人間の想像力〔或はイメイジ合成力〕の貧困を常に嘲っていたものである。とはいえ、当の本人が有する全く途方もない肉体に一体いかなる美を見出すべきなのか、これはこれで又、意見の分かれるところだろう。※


<※この驢馬の本質、本体への考察を回避する為にワザトラシク為された議論であるが・・・>


〔イヤ、コノ頁ハ単ナル脱線デアル、読ミトバシテモラッテシカルベキ箇所デアル〕


さて、話を元に戻さねばならぬ。男は自身が発する青い光にも、ロバ公の垂れ流す薔薇色の光の雲にも、一向に無頓着な様子であった。もちろん可能性としてもこの荒野のど真ん中で人目を気にする必要などなかったわけである。しかし男の発する光の、そのタイミングにはなにかしら不随意的な要素があって、そのことは男自身にとってもいささか不可解ではあったらしい。〔と同時に、やはり、幾分かは無用心ということも問題にならないではない〕ところがそんなことは今この場で追求すべき問題では全然なく、後回しにして暇なときにでもゆっくり考えればよい全く二次的な問題であるらしかった。ただ、全く無視してよいと言うわけではなかった様で、それはこの男をこれまで散々悩ませてきたある途方もない問題について、優に新たな眉間の皺一本分のつっかえ棒をする、※そんな性質を含んでいたようである。


<※ここの表現は不可解だが、要するに眉間に皺が一本増えたということだろう。コノ語法ヨリ筆者ノオ里モ窺い得ルラシ>


それはともかく、この青と薔薇色、二つの色彩の組み合わせは客観的に判断しても非常に気になる注目すべきコントラストとして、ある象徴的な意味合いをも兼ねていたのだと考えるべきであろう。これ又記憶すべきことなのである。


さてしかし、複雑微妙な土地の起伏に沿って迷走の気味のあった二人の進路にもようやく一定の方向が定まりつつあるようだった。土地は、ごく緩やかにまた上り調子となり、暫く続いていた気の滅入るような単調さにも変化の兆しが現われ始めていた。とはいえ夜闇の中では、枯れ朽ちたヴェランかるかやの厚ぼったい絨緞がどこまでも灰色に広がっているばかり・・・

昼間、噎せるような青空の下に見た金色の無限の枯れ野、あの目に沁み入るようなコントラストは嘘のように消え失せている。その中で奇妙な規則正しさで縞模様を作り、うねうねと波頭を擡げていたのは狂気染みてこんがらがったオオオニツルノイバラ※の群落どもで、今や闇の底方そこひに蟠り、身をくねらせつつ、その存在を見事に韜晦しているのである。


<※オニヒシギ、バラガイスとも呼ばれるバラ科の蔓性植物と類縁であるとされている。古来しばしば混同されてきたサルトリイバラ-山帰来、はユリ科であるが・・・>


やつらの凶悪な棘は、いかなるケダモノの侵入をも拒むのであるが、絡みあった棘蔓の生み出す無限の迷宮空間こそ、ヴァレオンヨロイコオロギ族の永遠に安全な棲家なのである。この昆虫界における真のヘラクルス、但し、かなりに怠惰な一族には、信じがたい様々な逸話が残されているが、ここでそれを紹介している暇はないのである。そう、この狂気じみて巨大な、翼を持たない種族には、それなりに栄光の歴史がある。けれども私にはあまり時間が残されていない。

道は再び登りとなったけれども、約一昼夜前、高原の裾野に取り付いた頃味わった、天地の間に殆ど宙吊りとなり、激しく喘ぎながら登りつめたあの感覚には程遠い。しかしこのあるかなきかのかすかな勾配には、徐々に心臓を締め上げる何か恐ろしく陰険な悪意が含まれているといってよい。ロバ公の足取りは重くなり、光の吐息には不規則な過流といささか黒ずんだ色合いが目立ち始める。目に付くような起伏も、水の在り処を示す潅木の繁みも絶対に見つかりそうにない、そんな二重三重の悪意の広がり・・・

こんなところに果たして道があるのかと、嘲笑学派の哲学者ならずとも疑いを抱くだろうが、果たして道はあるのであった。かろうじて踏み分け道らしきものが残ってはいるのであった。男の手綱捌きは全くの上の空であったから、実際それを嗅ぎ分け発見し辿って行くのは、この奇妙奇天烈なロバ公の仕事なのである。しかしそれは、かたつぶりの歩んだ跡よりも果敢なく、こまめな蟻たちの ― ひどい近視だが、それ故無闇矢鱈と ― コマメに設定する重要交差点ほどにも目立たず、なんとも頼りがいのない道ではあるのだった。今しもこれで何度目だろうか、再び道はふっつりと途絶えてしまい、灰色ロバは何やら決然たる面持ちでぴたりと立ち止まってしまった。男は同時につんのめり危うくずり落ちかけたけれども〔あまり気を引締めて乗っていなかった証しである〕辛うじて踏ん張りきった。だら長いマントーの裾が捲れて銀青色に輝く長剣の鞘がちらりと見える。〔その驚くべき高尚極まる、超時間的なる拵え!〕

「 おい、ヨナルク! いい加減にしろよ!!」

頑固そうに首を振り、僅かに後ろを振り向いて、ロバはその天使の如き巨大な瞳を潤ませた。驚いた事にこいつは口まできくのである。男は肩をすくめ又背中の木箱をちょいと揺すり上げた。〔今度は青い光はなし〕

「 ありがたいことにまだよく眠ってるさ。」

「 もう三日三晩おんなじことの繰り返しだぞ。二度も嵐を突破してきたんだ、三回目もどうやら近付いているらしい。 ふん! おまけにこのあたりの草はまずくって喰えたもんじゃない、わしは上等のアザミが喰いたい。」〔この食事の趣味・・・〕

「 残念だが時期はずれだな、僕にはどうしようもない。」

と、ここで初めてこの珍妙な会話は噛み合うらしい。もの言うロバは不機嫌そうに前足で地面を引っ掻いた。

「 それじゃ上等の旅人宿だな、馬鹿な馬どもと一緒になるのはおもしろくないが、まじりけのないカラスムギと泥臭くないきれいな水、かわいい男の子〔又は、女の子〕がやさしくブラシをかけてくれる、ああ、なんともはや!」

「そんな贅沢は望み薄だぞ。 最後の村とデイト街道を離れて何マイル来たと思っている? この百里四方に宿屋どころか世捨て人の庵でさえありそうにないね。」

「 それじゃ全くお誂え向きじゃないか! このクソッタレメ!」

ロバは突然怒り出し、無茶苦茶に首を振り回し、地団駄まで踏んで見せた。〔アマリニ、人間臭イトイウベキカ〕

「 ようやくお望みの場所へ着いたという訳さ。あんたの使命を果たすにはもってこいの場所だぞ、ざっくりとそいつに片を、ううむ、付けて、ここに、ああむ、埋めっちまえよ。いや、但し、若干浅い目にだ、ふふん、まったくもって人跡未踏、ここならば誰かがうっかり通りかかって、これまたうっかりと掘り出してしまうなんてことも起こるまい、いや、起こるべきなのか、ううむ、とにかく、わしは一刻も早くロデロンに戻りたいんだ (全く、グリマールが心配するじゃないか)。」 

「 わかった、わかった、もうそんなにガナルナヨ、全く、おまえは、あのやさしい、天使の如き存在、最も神に愛されし動物、あのロバなのか? とにかく、アユグスチルナヌス様※の金言に悖るような真似は慎んでもらいたいね。」


<※これは、ヒッポの司教のことではないらしい。出典不明、しかし、天使に最も近い地上の存在としてのロバという観念は、あまりにもしばしば引用される>


男は苦笑し突然ひらりと跨ぎ降りた。どこにどう折畳んでいたのか、さほど窮屈そうには見えなかったのだが、驚くほどひょろ長い手足がするりと現れた。まるで夜の底ひ[この訳語選択は疑問であるが、底翳(黒内障)に掛けてあるという説もあるらしい]で開くアクガレ花のようにその長身は展開し、ゆらめくので、そのおぼろげなさまは、得意の隠身の法を見破られ慌ててよろめき出したユウレイグモの優雅可憐な姿にも似ているのである。暫し佇み、ゆらりゆらりと、関節をほぐしながら四辺に注意を払う有様には、しかし幾分、例の薄緑色したスマートな悪魔紳士・オオカマキリ様なる風情さえもなくはない。

「 わしとて何も好き好んでがなりたててるんじゃないぞ。」

ロバは、いささかムクレテいたけれどもほんの少しションボリしたようである。男は無言のままマントーの裾を払い、すたすたと闇の中へ踏み込んで行く。五十歩ほど行くとなんたること! 高さ6メルデンにも余る直方体の大岩が鎮座しているのであった。灰白色に澱んだ空を背にして、黒々と、なにやら禍々しいシルエットが浮き上がって見える。四辺は丈の低い藪が所々に繁っている他潅木の一本も見当たらず絵に描いたような殺風景である。男は岩陰に入って小用を足すと〔私だってこんなことは書きたくないが・・・、とはいえ、何故物陰が必要なのかは一種不思議である、女の子ならいざ知らず・・・ 〕、再びすたすたとロバのところへ戻ってきた。

「 まーだぶつくさ言ってるのか? それはそうとあっちにさいころ岩があったぞ、してみると案外人家が近いかもしれん 」

「 また引延ばすのか? ここでいいじゃないか! 」

ロバは首を振った。

「 いや、よそう、もうすこし考えてみる。」

男は再びロバに跨り、方向を示した。

「 あっちの方へ行こう。」

「 なあ、ヨナルク, 何でそんなに悩むことがあるんだ?前の時と同じ事だろ、第一わしはほんの二、三日だって言うからつきあってやったんだぞ。約束が違うじゃないか。」

ロバは又、次第に腹が立ってきたようだった。男は無言のまま今は目を閉じている。

「 今度の赤ん坊の存在がどんなに不吉だとしてもだ、 」

ロバは歯を剥き出し喇叭のように吼え立てた。

「 既にあんたの力と拮抗しているなどとは絶対信じられん、」

男はやはり答えない。


棘だらけの藪が百歩ほど続き、3メルデンばかりの段差を苦労して下ると、再び踏み分け道らしきものが始まっていた。但し、以前の道よりも石ころが多くて少し歩きにくい。ロバはもうすっかり腹を立てていてまともには進まず、あちこちの雑草を引き抜いては齧り、ぺっと吐き出しては悪態をついた。天を閉ざした孕みの雲は愈々厚く重たげに見え、彼方の地平線では時折変な底光りがあり、青白い光やピンク色の刷毛目のようなものが、すうっと浮かんでは消えて行く。

ロバは、不規則に動くとかえって疲れるのでようやくまともに歩き始め、しばらく黙り込んで何やら考える風だった。やがて、青緑色の微光に包まれて相変わらず沈思している主人をちらりと振り仰いだ。

「 一つ教えて欲しいんだ、ヨナルク、わしにはあんたのいう運命というもんがよくわからん。生まれたての赤ん坊の未来を見通すなんて事がどうしてできるのかもよくわからん。あんたには、けれども、それだけの力がある。ただの老いぼれロバだったわしに、あんたと話ができる力を与えてくれたし、よぼよぼだった足腰は、この通り、千里の道をふらつきもせず進むことができる。恐らくあんたは、何をやろうと正しいんだろう。しかしそのあんたが、これほど迷いつづけるとは、一体どういうことだろう。それはそもそもおかしなことではなかろうか? それとも、運命というのはそれほど恐ろしいものなんだろうか? 」

ヨナルクと呼ばれた男は、静かに目を開き、ロバの頭を見下ろした。ロバは柄にもなく生真面目に続ける。

「 しかしそれにしても今回はおかしい。以前、アズレインを連れて出た時はこんなんじゃなかった。あんたは丸一日東へ進んでヴィヨンの森についた。そこでのんびりと半日を過ごしていると、(あんたはひどく機嫌がよくて、あのかわいい赤ん坊を、ずっと飽きずにあやしてたなぁ)例の旅芸人一座がやって来た。わしらはすぐに身を隠し、奴らは赤ん坊を見つけた。夢でも見ているように、ひどく簡単に、事は運んだようだった・・・」

「 そうだ、あの赤ん坊は、全くひどく愛らしかった。僕は、丸一日中でもあれをあやしてたろう。あの子に罪はなかった。あの哀れな片足でさえ、あの子が生まれつき持っている愛らしさと美しさの前では大した障害ではないようにも思えた。アレが捨てられなければならなかったのは、要するに、ただ、王家の慣習法に従ったからに他ならない。それでも、ゼノワ様は、将来の混乱を心配して僕の予見能力を頼りになされた。僕はあの子の未来を見たが、どの次元空間にも愛が満ちていて、僕はひどく酔っ払ってしまったほどだった。もちろん、ゼノワ様はすこし機嫌が悪かったが、僕の予見を信用された。僕はすぐに出発し、(いやしかし、王妃殿下の愁嘆場には、ひどく困ったな) さっさとあの子を捨てた。想像した通り、赤ん坊は下賎の輩に拾われ、大事そうにくるまれて遠くへ運ばれていった。あの子は王家の称号を失ったが幸福を手に入れるはずなのだ。僕は、そう見通した。」

「 そうさ、ヨナルク、あの時、あんたは自信に満ち溢れていた。あんたの念頭に、剣と血潮のことなどこれっぽっちも浮かびはしなかったのだとわしも断言できる。わしらは、自分の背中に乗せている人間の心持ちが、あんたたちが本でも読むように、手にとるようにわかるのだ、確かにあんたは、自信と力に満ち溢れていた・・・ 」

「そう、あのころ、僕は予見者というものが背負う暗い業を知らなかった。いや、気付こうとしなかった・・・ おお、我が師、ベオリグ・バスマンよ、あなたはこのことを知っておられたのに違いない、僕はただ、あなたが若い僕の力を妬み恐れたのだとばかり考えていた。僕はひどく自惚れて、あなたの慎重さに逆らった。なあ、ロバ公よ、ロデロンのイヨルカよ、僕の惨めな前半生を、いささか退屈かもしれんが、どうだ、聞いてくれるかい? 」

「 喜んで聞くよ、偉大なヨナルク、それに心配するには及ばない、昔から、ロバというものは、辛抱強い性格なのだ。」

青い微光を纏った不思議な人間は、天を仰いで幽かに微笑んだ〔らしい〕。それからこの奇妙な主従は、いよいよ深くなる夜の闇の中へと突き進んで行くのである。

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