38kgのシンデレラ
スマホの画面に、何度も見た文面がまた表示される。
慎重に検討を重ねました結果、誠に遺憾ながら、ご希望に添えない結果となりました。
今後一層のご活躍をお祈り申し上げます。
また落ちた。あまりにも落ちまくっているおかげで、もはやこれが何社目の入社選考だったのか、わからない。
小学生の頃から使っているベッドに仰向けに倒れ込む。
本当に慎重に検討したのかよ。遺憾ってなんだよ。希望に添わせてくれなかったのはあんたたちだろうが。お祈りなんかしてないくせに。
心の中で思いつく限りの暴言を並べ立ててみるけれど、一層いらいらした気分になるだけだった。
「愛莉ちゃん」
「わっ……」
突然開けられた部屋のドアに、思わず飛び上がってしまう。
母が入口に立っていた。
この人はいつもノックも何もせずに私の部屋のドアを開ける。
小さかった頃はこれが当たり前だと思っていたけれど、自分以外の家はノックをしてから親が部屋に入ってくるらしいと気づき始めたのは、高校生のときだ。
「そんな驚いて、どうしたの?」
「あ、ううん。お母さん突然入ってきたからびっくりしただけー。なに?」
母は、おっとりと首を傾げてみせた。
「このあいだ受けた会社はどうだったの? 雑貨メーカーの事務の……」
「あ、ああ、ダメだった」
今、お祈りメールが来た会社だ。なぜそんな超能力が備わっているかのようなタイミングで確かめてくるのだ。
まだメールを見たときの落ち込みから復活できていない私は、その不機嫌な気分の矛先を母に向けたくなる。
そこをなんとか我慢して笑顔を向けると、母は私以上に不機嫌そうに唇を歪めた。
「なんでこんなに上手くいかないんだろうね。面接のとき、声小さいんじゃなあい?」
「……そうかもね。次は気を付けるよ」
むかむかした感覚が胃のあたりにつきまとう。
母が部屋から出ていくのを見届けて、私は舌打ちをした。
ノックに限らずうちの母は少し変だ。
何時に学校が終わるのか、部活がない日はいつなのか。何時に帰ってくるのか。出かけるときはどこに行くのか、誰と行くのか、何時に用事が終わって何時に帰宅するのか。
幼い頃から今に至るまで、そういうものをすべて報告する必要がある家庭だった。
高校生のときに友人との会話から、うちのルールと彼女たちの家のルールは違うらしいと思い始めると、自分が何から何まで管理されている気がしてぞっとした。
けれど、だからといって私は自分の生活を変えようともしなかった。そうして私は親に律儀に報告を続けて、気がつけば大学四年生の秋だ。いつの間にやら就活の状況も報告義務になっている。
でもまあ、自分がエントリーした会社を逐一報告するだけで母が納得するのならそれでいい。どうせ、その報告を怠ったら母は一気に不機嫌になるのだ。
それに、隠さなければ困るような会社などエントリーもしていない。 ただし、就活以外の事柄で隠していることは、なくもない。
「愛莉、痩せた?」
直くんに指摘されて、私はふと自分の体を見下ろした。
何もスポーツをしていない締まりのない白い胸、腹、足が、直くんの小さな部屋の床にそびえ立っている。
言われてみれば、細くなったかもしれない。
もともとそんなに太い体型ではなかったけれど、私って何㎏だっただろうか。ここ最近、体重計に乗っていないからわからない。
ただ、プロポーションが良いとはいえない貧相な体を見ていると悲しくなって、私はそこらへんに脱ぎ散らかしていた下着や衣服を無雑作に身に付けた。
ついさっきまで私の上で腰を振りたくっていた直くんのほうが、私自身よりも私の体の変化に気づいたということだろうか。
「わかんないけど、今度ちゃんと体重、計ってみようかなあ。直くんは細い子と太い子、どっちが好き?」
話しながら、テーブルの上に置いてあったメモ帳を手にとる。隣に転がっていたシャーペンも拝借して、何も書かれていないページに適当に落書きをしてみる。えーと、直くんの実家の猫の絵。
「どっちってなあ。細すぎず太すぎずくらいかなあ」
「彼女さんも細すぎず太すぎずな人なの?」
「え、まあ、うん。平均的な体型って感じ」
「ふーん」
直くんの実家にいる猫は、毛並みが綺麗な黒猫だ。数年前、直くんが大学生だったときに、彼の彼女の家で生まれた子猫を分けてもらったらしい。私はそのとき、高校生だった。
結局、今もその彼女は直くんと付き合い続けている。自分がいないところで大事な彼氏が幼なじみの女子大生と寝ているとも知らずに。
彼女はきっと夢にも思っていないだろう。こんな特にチャラくもない、真面目で誠実そうな容姿の男に女性関係の隠し事をされているなんて。そう思うと少し気の毒かもしれない。
二人でいるときになんとなくそういう雰囲気になって、直くんと寝たのは高校二年の頃だったけれど、直くんに彼女ができたのって、いつだったっけ。私のほうが先に彼とやってるんじゃないだろうか。
会ったこともない彼の恋人に対して勝手に優越感を覚えながら、しっぽを黒く塗りつぶしていく。
「そういえばさあ、お前、就職決まったん?」
「んー、まだ。てか忘れようとしてるのに思い出させないでよ」
「え、ごめん。助けてやりたいけど俺、就活したことないからアドバイスできんわ」
謝りながらのろのろとようやく服を着始めた直くんを、無言で少し睨む。
彼は学生時代に友人たちと起業して、そのまま事業が軌道に乗って成功しているタイプの人間だ。雇われる側じゃなくて雇う側。
「別にいいよ。直くんに頼ろうとか思ってないし」
「ひどっ」
「それより、私そろそろ帰る」
しっぽだけでなく顔も足も胴体も、すべて黒く塗っていく。
「もう夜だもんな。送ってく」
「いい。お母さんにバレたら面倒だし」
「……そりゃ確かに。俺も実家に近づいて万が一ばれたら面倒だ」
そりゃあ面倒だろうな。どちらの親も、私たちはもう何年も疎遠になっていると思い込んでいる。
最後に目を可愛らしく仕上げて、メモをちぎった。
「直くん、あげる」
「おおっ、担々麺そっくりだ」
「いつも思うけど、ペットに担々麺って名前つける人、たぶん直くんしかいないよ」
「いいじゃん。俺、担々麺好きなんだよ。まあ最近は長いからタンタンって読んでるけど」
それじゃあ、パンダじゃん。という感想を飲み込んで、私はリュックを肩に掛けた。
「じゃあね」
「気をつけてな。また連絡する」
「んー」
彼に背を向け、安物のスニーカーを履いて玄関の外に出た。
空は曇っていて、月も星も見えない夜だ。空も私がここにいることを見ていないと思うと少し安心する。
今日の報告は、午前中は就活、午後は大学で授業、そのあと、夜の十時前まで大学の研究室で卒業研究をする予定だ。
授業を受けるまでの予定は本当だけど、卒業研究は嘘。今は夜の九時半。直くんが残業のない日だったから、晩ご飯を一緒に食べてのんびりできた。ここから電車で一時間ほどすれば家に着くし、十時に大学を出るのとそんなに変わらない。
住宅街の角を曲がると、明るい駅前の通りに出る。
明日は本当に卒業研究を進めよう。直くんと一緒にいるのは嫌いじゃないけれど、彼には彼の仕事があって、彼女にもばれないように私に会わなきゃいけないし、私も就活だけじゃなくて卒論も書かなきゃいけない。
なんでそんなに隠し事をしたり時間を割いてまで彼と会っているのか、自分でもよくわからない。ただ、少なくとも月に一度くらいはどちらからともなく連絡をしている。
駅の隣のビルの一階から、良い匂いが漂ってきた。ラーメン屋だ。仕事帰りのようなスーツ姿の男性や、大学生くらいの見た目の青年客が麺をすすっている姿がガラス越しに見えた。
ああ、なんだか担々麺が食べたいなあ。家にカップ麺……ないよなあ。うちの家族は父も母もインスタント食品が大嫌いなのだ。
私はため息をついて、改札を通り抜けた。
45㎏。直くんに言われたあと、気になって体重計に乗ってみると数字はそう示していた。
春に学校の健康診断で計ったときの記録は48㎏だったから、確かに3㎏痩せている。
だけどそんなに見た目は変わらない。こんなの痩せ損じゃん。
と思いつつ、私はスーツのスカートのウエストをつまんでみた。
少しすき間ができている。やっぱ見た目も多少は細くなったのか。
エレベーターの中でそんなことを考えていると、一階に着いてドアが開いた。
「……お疲れ様でしたー」
目の前に立っていた、私とまったく同じ集活用スーツに身を包む女子が、ぺこりと会釈してエレベーターから降りた。
「あ、お疲れ様でした」
「……お疲れ様でした……」
「でしたー」
私以外に一緒にエレベーターに乗っていた就活生たちも、お互いに挨拶をしてエレベーターを降りる。
この時期にまだ就職活動を継続している学生は、かなり少なくなっている。心なしかみんな、声に覇気がなかった。
面接会場になっていたビルを出ると、午後の日差しが顔を照らす。
電車の駅やバス停に散っていくスーツ姿をぼんやりと見送って、私は小さくため息をついた。
それぞれ、どんな事情があってこの会社にエントリーしたのかは知らない。私のようにまだ就職先が決まっていないひともいるだろうし、内定はあるけどまだ就活しているという人だっているかも。
けれど、今の集団面接で共通していたのは、面接官に対する自信のなさそうな受け答えだった。
今回もどうせ落ちる。そんな空気の共有。
私も最初から無理だろうなってなんとなく諦めていたし、それが相手に伝わっているだろう。そして本当に落ちて、無理という予想が現実になるのだ。
なんだかもう、この負の連鎖を止める気にもならない。
一人になってしまったビルの前の歩道で、就活バッグを肩にかけ直す。
なんか美味しいものでも食べて帰ろう。
帰り道に寄ったカフェは、そこそこ混んでいた。なんとか席は確保できるレベルで、私は盗られれてもいいポケットティッシュをテーブルに置いてカウンターの列に並んだ。
メニューを見ていると、期間限定のの栗風味のラテに目がいく。これにしよう。
ホットのレギュラーサイズを注文してカウンターで出来上がりを待っていると、同じように私のそばで待っていた、会社員っぽい女性二人組の会話が聞こえてきた。
「学生の頃さ、ここのケーキすっごく美味しそうなのに金欠で飲み物だけ頼んでた」
「ああ、わかる。美味しい分、やっぱりちょっとお高いもんね。私、貧乏学生だったからさー。たま~に何か頑張ったときとかにご褒美のつもりでケーキ食べてたよ」
「何食べてた? 私、シフォンケーキか、りんごパイ」
「あ~、いいね。私はタルトも好きだったなあ。ていうか、今でも食べる」
「あと、期間限定のやつで、桃のタルトが……」
ぼんやり会話を聞いていると店員さんに呼ばれ、カップが差し出された。
まだ熱いそれを両手で持ち、席に座る。
期間限定のラテ、レギュラーサイズ、550円。
ケーキは頼んでいない。飲み物だけ。
ふと、隣のテーブルに座っている会社員風の男性がサンドイッチを食べているのが目に入った。
サンドイッチは何円だっけ。たぶん、400円くらい? 私は飲み物しか頼んでいない。
たったの550円。されど550円。
サンドイッチもケーキも頼めない、お金のない学生。ラテひとつくらい飲んだっていいじゃないか。いや、同じラテでもコンビニに行けばもっと安いものがあるだろう。
なのに私は、ここで550円もするラテを買った。自分で稼いでもいない分際で。来年から働く場所も決まっていないクズのくせに。
ストローに口をつけると、甘ったるくかつ苦い液体が舌の上を通り抜けて喉へ落ちていった。
苦みの残る唾を飲み込むと、急にこんなものを飲んでいる自分が腹立たしくなってくる。
私は半分以上中身の残っている紙のカップを手に取り、店を出た。外に出ると、道路を挟んで向かいにコンビニがある。
横断歩道を渡ってコンビニの前に着くと、私はそこにあった燃えるごみのダストボックスにカップを乱暴に投げ入れた。
ボックスの中で残っているラテの液体がぐしょぐしょに他のごみを濡らすかも知れないが、知ったこっちゃない。
ちらりと外から店内を見ると、コンビニの店員さんはまったくこちらを見ていなかった。
中に入って安いラテを買い直そうかと迷ったが、そのまま家に帰った。
その日からだっただろうか。私は食べることを異常なほど億劫に感じるようになった。
一日三食の食事は、朝と昼を抜いて一日一食になった。
朝食や昼食は家にいても外にいても基本的に一人で食べていたから、抜いても誰も何も言わない。夜だけは家族で食卓について食べることが多いから、抜くと不審がられてしまう。というか、さすがに一食も食べないのは空腹も感じる。それでも満腹に食べることは難しく、いつも腹5分目くらいになると胸がつまった気分になって、それ以上はもう食べられない。
そんな生活を繰り返していると、体は短期間で急激に痩せていった。
就活用スーツはぶかぶかになってサイズが合わなくなり、自分でフックの位置を縫い直した。
細くなった体で、流れ作業のように採用面接を受け、落とされ、また痩せる。
今後のご活躍をお祈り申し上げます。
41㎏。
今後のご健闘をお祈り申し上げます。
39㎏。
今後益々のご活躍をお祈り申し上げます。
36㎏。
どんどん軽くなっていく危機感よりも、不思議な快感が私を包み込む。
体重計の数字が軽くなるのがこんなに楽しいなんて知らなかった。
風呂場で浮き出ている鎖骨や腰骨を触ってごつごつした感覚を楽しむのが、いつの間にか私の毎日のささやかな癒しになっていた。
ふと湯船の向かいにある鏡を見ると、がりがりの私がだらしなく立ち、こちらを見て薄気味悪くうっすらと笑っていた。
その不健康な姿すらなんだか嬉しく、思わず笑みを深めてしまう。
痩せるのって、なんてわくわくする行為なんだろう。
「愛莉ちゃん。ちゃんと食べてる?」
朝、コーヒーを飲みながらスマホを触っていると、テーブルの向かい側に母が座ってそう言った。
「朝ごはん、いつも食べないで飲み物だけでしょう。最近、急に痩せたし。大丈夫なの? お母さん心配になるよ。このあいだ、お父さんも心配してたよ」
机の上で両手を組んだりほどいたりして落ち着きのない母に向かって、微笑を向ける。
「大丈夫だよ。朝は元々弱いからあんまり食べないけど、昼と夜は食べてるし。なのになんでこんなに痩せちゃったのか、私もわかんないんだよね」
「……食べたものを吐いたりはしてないよね?」
「してないよ」
「下剤を使ったりは?」
「してない、してない。摂食障害だと思ってるなら違うから。そんなにダイエットとかも興味ないしさ」
まだ母は手を動かしつつ、不安そうに小さくうなずいた。
「そっか。今日は学校で授業だよね。おにぎり作ってあげるから持っていって。今は食欲ないなら電車の中や学校で食べればいいから、ね?」
「……うん。ありがと」
私は微笑んだままマグカップに口をつけた。
その日の朝、私は家を出ていつものように駅への道を歩く。
改札を通り、エスカレーターを降りてホームのゴミ箱の前に立つ。
通学用リュックの中から取り出した、ラップに包まれた白いごはん粒の塊は、まだ温かかった。
数秒間それを見つめ、心の中で母と地球環境に謝ってから、勢いよくごみ箱の穴にそれをぶち込む。
胸の奥にすっと開放感のようなすっきりしたものが流れ落ちた。
この一瞬がたまらない。
私を心配するのは母だけでなく、直くんもだ。
いつものごとく彼の部屋でタブレットに絵を描いていると、すぐそばのテーブルに山盛りのチャーハンが置かれた。
「何、これ?」
「昨日のメシの余りもん。昼ご飯まだだろ。よかったら食ってよ」
「食わない。食欲ない」
目線をタブレットの画面に戻す。今日は夜じゃなくて日曜の昼。直くんは仕事が休みで、彼女は海外出張中だから暇らしい。それで私が呼ばれた。
いつも呼ばれるときはセフレ要員なことが多いのだが、今日は直くんは少しも私に触る気配がない。
本当に暇だっただけなのかと思いながら絵を描いていたわけだ。お絵かきアプリで描いた猫耳のイケメン男子が私をじっと見つめている。
何も返事をしない直くんをちらりと見て、私は背もたれにしていたベッドの上に勝手によじ登った。
「直くん、今日、やるの?」
「……え? あ、いや、どっちでもいいけど……」
そのまま仰向けに倒れ込む。思っていたよりも柔らかい感触が背中を包む。目に入ってきた天井は何の変哲もないクリーム色。
「お前本当に痩せたよな。なんかあった?」
右耳から直くんの気遣うような声音が聞こえる。私は小さく首を横に振った。
「別に何もない。ただ、痩せたのは見ての通り。ねえ、知ってた? 痩せすぎるとさ、体が痛くて寝られないんだよ」
「……どういうこと?」
ほんの少し痛みだした腰にそっと手を添える。
「肉がなくて骨がごつごつしてるじゃん。寝転ぶとベッドに当たって背中とか腰とかが痛くて。だから寝不足。横向きに寝ると少しマシなんだけどね」
数秒の沈黙の後、直くんが床から立ち上がる気配がした。
こちらに近づいてきて、私の顔を上からのぞき込む。無言で手を差し出されたから握ると、そのまま上半身を引っ張られ起き上がらされた。
「まじで本当に大丈夫? 病気じゃないんだよな? 食欲全然ない? 少しでも食わない? チャーハンが嫌なら他のもの作るか買ってくるとかしようか? 今うちにアイスならあるけど、そういうのだったら食える?」
思わず、ふっと笑ってしまう。痩せることそのものも楽しいけど、心配されるのも快感だ。
「直くん、一度に色々訊きすぎ。食欲ないけど少しだけチャーハン食べようかな」
ベッドに投げ出していたタブレットを暗くして立ち上がる。
チャーハンの前に座ってスプーンを手に取る私を、直くんはじっと見つめた。
「愛莉……今、体重何キロ?」
「えーとね、」
今朝、体重計に乗ったときは、確か。
「35キロ」
目を見開く表情に心配の色が見えて背中がぞわっとする。
もっと心配してよ、私のこと。ついそんな、かまってちゃんのようなことを思ってしまう。
「少しと言わずに食えるだけ食えよ、マジで。それ絶対に軽すぎる。なんか適正体重? みたいなやつちゃんと知って太ったほうがいいよ、いや、ほんとに」
「ふーん。直くんは現実的な感覚を持ってるタイプの男の人なんだ。理想の女性の体重30キロ代とか言ってる男性、そこそこいるらしいよ」
いいから食えというふうに、直くんは顎をしゃくった。
「そんなこと言ってんのは童貞だけだって。何なん? 彼氏か誰かにそう言われた?」
「や、私に彼氏いないの知ってるでしょ。ネットかどっかに書いてあっただけ。……じゃあ、直くんの彼女さんは? 体重何キロ?」
口に入れたチャーハンは、私の好みの味よりも少し辛かった。
私が口をもぐもぐと動かすのを見つめながら直くんがうーんと唸る。
「なんて言ってたかな。はっきり覚えてないけど、40代後半だった」
「へえ。私も去年まではそんなもんだったんだけどなあ」
「じゃあ10キロも痩せてんじゃん。恐ろしいな」
直くんが深刻な表情をすればするほど、こちらは笑いたくなる。まあ、実際には笑わないけど。
直くんの彼女よりはるかに自分のほうが軽いと思うと、何かの勝負に勝った気分になった。本人に会ったこともないのに。
その日、私は彼に抱かれることなく、チャーハンだけ食べさせられて、そのまま帰らされた。
「はい、確かに受理しました。お疲れ様でした」
受付の事務員の女性が、にこりと微笑んでハンコの押された紙片を手渡してきた。
卒業論文受理票。これで一応、私は大学卒業確定だ。
事務室を出ると、私と同じように卒論を提出したばかりの学生たちが、開放感にあふれた表情で同級生たちと談笑していた。
聞こえてくるのは、卒業旅行の話や卒業式に履く袴の話、就職先の懇親会や研修の話。
みんな、次に起こるイベントについて前向きに話し合っていた。
未だにスーツとコート姿の自分を見下ろして、情けない気持ちになる。
今からまた、採用選考なのだ。ブラックな業界で常に人手が足りないと就活生のあいだで噂の保険会社をいくつか受けていたが、そのうちの一つが最終選考まで残った。内定をもらいやすいというのは本当なのかもしれない。ブラックだというから入社した後がつらいかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。今すぐ内定をもらって、とにかく安心したいだけ。
私は、卒業後の居場所を得られないまま卒論を終わらせてしまった。そんなに明るく語れることなんて何もない。
彼らと私の間に見えない透明なビニールみたいな隔たりが見えたような気がした。
数少ない友人が偶然居合わせて話しかけてこないことだけがラッキーだ。
マフラーをしっかり巻き直して、校舎の外に一人で足を踏み出す。黒いタイトスカートの中を冬の風が走り抜けていった。短期間で折れそうなほど細くなってしまった足に鳥肌が立つ。
十二月の空気は、寒くて痛い。
それから、自分の体はなんだか熱い。寒気もする。
あれ、おかしい。そう思ったときにはもう、立っているのも億劫で、私は校舎の前でしゃがみ込んでいた。
ベッドで毛布にくるまれた体は暖かく、頭はぼんやりとしている。
昨日の夜まで続いていた高熱は、今朝には微熱になっていた。それでもまだなんとなくだるくて、今日も一日ごろごろと寝ていただけで夕方になった。
ばかみたいだ。インフルエンザなんかになってしまったおかげで、就職先を失った。
一昨日、悪寒と熱っぽさで校舎の前にしゃがみ込んでしまった私は、大学の職員に声をかけられてそのまま学内の保健センターに連れて行かれた。
そこに勤務している医師のおじさんに診察されて、インフルエンザだと告げられた頃には、最終面接に間に合わない時間になっていた。
ふざけんなよ。なんで保健センターにいるんだよ私は。保険会社の就職面接の予定だったじゃんかよ。保健じゃなくて保険だよ。
薬を受け取りながら、そんなおやじギャグみたいな寒いことを考えたりした。
私がエントリーした会社を逐一チェックしている母も、さすがに三十九度ある状態の私に、面接を欠席するなんてもったいないとは言わなかった。過剰に心配して、寝込む私に世話を焼いてくれた。熱があるのにそんなにプリンやらゼリーやら食べないし、一時間に一度も様子を見に来られたって、こっちはまったく同じ姿勢で横たわっているだけだ。
けれど今日はさすがに熱も下がって念のために安静にしているだけだから、母も私のことを適度に放置してくれていた。今も買い物で出かけている。
ずっと横になっていると、例のごとく骨が当たって痛い。我慢できなくなってベッドから起き上がった。
部屋を出て誰もいないリビングに行くと、照明がついていなかった。出かけるときに母が消したのだろう。ボタンを押して部屋を明るくする。何か飲もうと思ってケトルに水を入れてお湯が沸くのを待ちながら、なんとなく窓に近づいて外を見た。快晴だ。
元気なら散歩したいような気候だ。細くなった腰には大き過ぎるスウェットのズボンがずり下がってきたのを、また両手でお腹まで引き上げる。
そのまま腰に手を当てて仁王立ちで空を見ていると、小さくみゃあ、と何か聞こえた。
下を見ると黒い猫が、座ってこっちを見ている。隣の家……直くんの実家の猫、担々麺だ。
担々麺は、外に出てきた私が近づいても逃げることなく、やはりじっと私を凝視した。
目の前にしゃがみ込んで、こちらもじっと目を合わせて見る。
迷いがなさそうな澄んだ瞳だ。まあ猫というものは、どの猫でもこんな目をしているのかもしれない。
けれど、他の猫がどうであれ、こいつがこの目のおかげでとても意志が強そうに見えるのは確かだ。
私もこの目が欲しい。これくらい強い眼光で面接に臨めば、絶対に合格しそうじゃないか。だけど私の顔は平凡で、目はぼんやりとしている。明確にこんな働き方をしたいとかいう意志もない。
趣味は引きこもって絵を描くことと、痩せること。最終面接の日にインフルになってしまうくらい体は弱いし運もない。いや、本当はそれだけじゃないのはわかっている。
インフルエンザだろうと何だろうと、どうしても内定が欲しいなら這ってでも面接会場に行けばよかったのだ。きっと本気を出せばそれくらいできたし、面接中もそれなりの受け答えはできたはずだ。
だけど私はそうしなかった。
結局、本気で内定をもらう気がなかったのだ。体調を理由に逃げたのだ。根性も最低レベルだ。
「もういやだ……」
私の言葉なんてわかっていないだろうに、担々麺はいかにも人間らしく首を傾げて私を見つめ続ける。そしてふとした瞬間に大あくびをする。
それを見ていると、視界がぼんやりと滲んできた。
もういやだ。もうスーツなんか着たくない。
もう志望動機やガクチカの暗記なんかしたくない。エントリーシートも見たくない。面接室のドアを三回ノックして失礼いたしますなんか言いたくない。誰かもわからない面接官に対して愛想良く自分をさらけ出して喋りたくなんかない。
もう、選ばれる作業をしたくない。
担々麺、お前はいいな。生きてるだけで許されて。それともなんだ、飼い主の直くん一家にそれなりに可愛がられるために、お前も無理してるのか。
「愛莉?」
顔を上げると、スーツ姿の直くんが私を見下ろしていた。
頬を汚していた透明の涙を手のひらで拭う。
愛莉、と直くんはもう一度名前を呼んだ。
「何やってんの。ここ寒いだろ。上着も着てないし」
「直くんこそ何やってんの。今、平日の昼だけど。仕事は?」
「午後から半休取って休んだの。一つプロジェクトが一段落したからさー、心置きなく寝るついでに、久々にお前の顔も見に行こうと思って」
そう言うと直くんは、着ていたコートを私の肩にかけてくれた。今まで着ていた直くんの体温がまだ布地にほんのりと残っていた。
直くんが私の隣にしゃがむと、担々麺の目線が直くんへと向けられる。一匹と一人はしばし見つめ合い、直くんのほうが先に目をそらし、私を見た。
「……彼女と別れたんだ」
「そうなんだ。なんで? 振られちゃった?」
「いや……愛莉とちゃんと付き合いたいなって思って」
「……え?」
私の名前が出てくるとは思っていなかった。固まって直くんを見つめていると、彼は困ったように私の肩に手を置いた。
「なんか……心配なんだよ。今だって泣いてるし、こんな痩せて。目を離したら消えそうじゃん」
「人は自然消滅したりしないよ」
彼が不機嫌そうに目を細め、肩に置く手に力が込められる。
「物のたとえに決まってんだろ。とにかく……会ってないときも愛莉のこと考えてしまうし、放っておけないから、付き合いたい。いい?」
「まあ、いいけど」
「なんだその答え。適当だな」
「だって、まあ、直くんだし」
この人のことを恋愛対象として好きかはよくわからないけれど、嫌な気はしない。しかも彼女の存在を気にしてこそこそ会わなくていい分、気楽じゃん。体の関係も含めてやることはやってしまっているし、そんなに今までと関係が変わることもない。付き合うのも悪くないんじゃないか。
そう思ってふと頬を緩めると、彼もほっとしたように笑った。
「よかった。で、それはそれとして……今泣いてたの、就職絡み?」
「あ……うん。ちょっと、内定もらえるかもしれない会社の面接、欠席しちゃって」
直くんの登場で忘れかけていた感情が再びこみ上げてきて、また視界が滲みそうになる。
そんな私に直くんは優しい声音で意外な提案をした。
「あのさ、うちで働かない?」
「直くんの会社ってこと?」
「うん。正社員じゃなくてアルバイト扱いなんだけど、事務や企画のアシスタント。小さな会社だし俺もいるから、そんな緊張しなくていいし。どうかな?」
応募しては落とされることを繰り返していた私にとってそれは、あまりにも優しい提案だった。とてもありがたい話に聞こえる。もう、バイトでもいいじゃないか。どうして正規雇用にそんなにこだわっていたのだろう。
「働きたい……けど、正社員じゃなかったらお母さんやお父さんはがっかりするかな……」
こんなときも親の顔色をうかがって情けないけれど、自分で決められるほど私は自立していない。
「雇用担当は俺じゃなくて一緒に会社作った友達がやってるんだけど、愛莉のこと相談したら、最初はバイトで、問題なかったら後々社員登用も考えるって。だから良かったら面接、受けにおいでよ。おばさんたちが反対するなら、俺から話すよ。……もちろん、愛莉にその気がないなら無理にとは言わないけど」
私は大きく首を横に振った。
「ううん。ありがとう、直くん。面接、受けてみる」
彼に甘えている。だけどそんなことはどうでもいい。自分の力で手に入れたものでなくてもいいから、これからの居場所が欲しくてたまらない。
「わかった。 じゃあ伝えておくから」
「うん。お願いします」
「とりあえず、中入りな。インフルなんだろ。こんなとこにいたらまたぶり返すよ」
直くんに促され、立ち上がる。担々麺もそれに合わせたように、直くんの家のほうへ歩いて去っていった。
四月から週五日勤務のアルバイトとして直くんの会社に採用が決まった。最初は渋っていた母も、直くんから直接説得されて結構簡単に折れてくれた。たぶん、就活期のピークをとっくに過ぎてしまった今からは、正社員に内定するのも難しいと薄々感じていたのだろう。
35㎏まで落ちていた体重は、卒業する頃には38㎏に増えていた。見た目はあまり変わっていなくて、相変わらず細いなと、会う度に直くんは心配そうに眉を下げる。
「愛莉もこれじゃないの? シンデレラ体重」
「え、何?」
三月の休日、私が自分の部屋でノートにイラストを描いていると、隣でダイエット特集番組を見ていた直くんがテレビ画面を指差した。スマホゲームに出てくるキャラクターを集中して描いていたから、テレビの内容はあまり頭に入ってきていなかった。
「だから、これ。シンデレラ体重。標準の体重よりも軽すぎるけど、これを目指してめっちゃ痩せようとする人が多いんだってよ」
見ると、テレビでは女性の過剰なダイエットや、それによって起こる健康被害についての情報が流れていた。月経が止まったり、色々と病気になりやすいらしい。
そういった内容に、少しどきっとして後ろめたい気分になる。秋頃から生理は来たり来なかったりと不順状態だ。大きな病気にはなっていないけれど、痩せてから明らかに免疫力や体力が落ちた感じはするし、風邪やらインフルエンザやら、体調を崩しやすくなった。
私が黙り込んでいると、直くんがふざけたように笑いながら横から抱きついてきた。
「何、急に」
笑い返すと、彼はふいに表情を暗くした。
「細いからさ、乱暴なことしたら壊れそうで、怖い」
骨張った大きな手が、私の腰のあたりをさらりと撫でる。そこには、余分な脂肪や肉が全くなく、腰骨が浮き出ていた。
付き合い始めてから、私と直くんは寝る回数が減った。セフレから彼女になったら行為が減るというのもおかしな話だとなんとなく不思議に思っていたけれど、単純に私の体を心配していたのか。
「人はそんなに簡単に壊れないよ」
「だから、物のたとえだって」
「はいはい。大事にしてくれてありがとう」
「何だよ、その適当な感謝の言葉は」
不満そうな表情に潜む直くんの優しさと体にのしかかる彼の重みが心地よく、私はそっと笑みを浮かべた。
「愛莉ちゃん、さっき直くんがうちに来たときに、シュークリームを持ってきてくれたの。冷蔵庫に入ってるから」
母が夕飯を食べながら、冷蔵庫のほうをちらりと見た。今日、父は仕事で遅いから二人での食事だ。
「さっき? 直くん何も言ってたなかったけど、そうだったんだ」
「愛莉ちゃんが直くんと付き合い始めてから、久しぶりに直くんに会うようになったけど、大きくなったわね。それに、いつもうちに来るときは手土産持ってきてくれて気遣いできるし感じはいいし。良い人とお付き合いできてよかったね」
「うん」
私はにっこりと笑ってうなずいた。恋人がいながら何年も私と寝ていた人が、本当に良い人かは知らないけどね。空になった食器を重ねて手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
「もう終わり? もっと食べて体力つけないと、細いままだと心配よ」
「うん。でも、もうお腹いっぱいなんだよね。あとでお腹空いたらシュークリーム食べるから」
まだ沢山残っている唐揚げやポテトサラダを横目に、食器をキッチンに運んだ。
私は嘘をついている。それなりに空腹が満たされたのは本当だ。だけど、満腹にはなっていない。胃袋の限界まで食べるのが怖い。
夜中になって両親が寝静まってから、私はこっそりキッチンに足を踏み入れて冷蔵庫の扉を開けた。目の前に、百貨店で人気の洋菓子店の箱があった。中にはシュークリームが四個。いくつかは親が食べて減っている。私は残っているうちの二つを掴み、箱を元に戻して冷蔵庫を閉めた。
両手に持った、重みのあるシュークリームをそれぞれ右手左手と一口ずつ頬張る。乾いた皮と、どろりとしたクリームが口の中を埋め尽くす。
一口ずつかぶりついた二つのシュークリームを手にしたまま、そっと家の外に出た。
どの家の窓も暗く、街灯の光だけがぎらぎらと輝いていた。完全な夜だ。
住宅街を少し歩き、家から一番近い田んぼ道に差しかかる。目の前には、小川が流れていた。小学生たちがよく、ここでザリガニ釣りをしているような、汚い水。
そこにシュークリームを乱暴に投げ入れた。
二つの黄色い塊は、水面に浮いたままゆっくりと水の流れに乗り、私から離れていった。さようなら。桃太郎が生まれてきた桃のように、誰かが川から流れてきたシュークリームを見つけるだろうか。
川にシュークリームを捨てた快感に包まれながら、家に帰る。無事、親に外出がばれることもなく自分の部屋に戻ると、私はベッドに倒れ込んだ。スウェットのポケットに入れていたスマホを取り出す。
シンデレラ体重、と打ち込んで検索すると、「シンデレラ体重とは?適正体重と理想体重との違いは? BMIと計算方法!」というタイトルのサイトが一番上に出てきたからタップする。
シンデレラ体重。女性が理想とする体重の一つ。
計算式があって、どういうものかというと、「身長(m)×身長(m)×20×0.9」。
私の身長は157㎝だから、この式に当てはめると44.4㎏。
病気になりにくいとかいう適正体重っていうのは、「身長(m)×身長(m)×22」らしい。こっちに私の身長を当てはめると、54.2㎏。およそ10㎏も違う。
貧血、糖尿病、心臓病、骨粗鬆症。
シンデレラ体重のリスクは他にもいくつも、詳しく記されている。つまり、より死に近い体重指標ということ。
私の体重はシンデレラ体重よりもさらに軽い。この自分の体の軽さが不健康であることなど、十分にわかっている。だけど、いくら就活のストレスもなくなったとはいえ、今さら太ることは私にはできない。
もしかしたら親は、私が痩せ細っていて体力もなさそうだから、非正規のバイトとして来月から働くことを容認しているのかもしれない。
もしかしたら直くんは、壊れそうな私だから心配して一緒にいてくれるだけで、太って健康的な体型になったら私から離れていってしまうかもしれない。
だったら痩せたままがいい。さすがに35㎏のときは体が持たずにつらかったから、40㎏弱くらいがちょうどいい。そう、今の38㎏だ。
この状態から太りすぎず、痩せすぎず。そうしていれば、私は優しくしてもらえる。私にもっと頑張れなんて母は言わないだろうし、直くんも私のそばにいてくれるはず。
スマホを枕元に放り出す。もうすぐ、ベッドに当たった腰骨や背骨が痛み始めるだろう。そうしたら寝転ぶ角度を何度も変えつつ苦しみながら、眠りにつくのだ。
体力が落ちた38㎏の自分の体をベッドに横たえながら、私はうっすらと微笑んだ。




