娘、満(みつる)
私には、優しい父さんと素敵な母さんがいる。
二人は離婚してしまったけれども母と暮らしながら父とも月に二回面会を続けていて、私は両親二人のどちらとも、仲良しだ。
母さんは自分で立ち上げた美容品の会社で忙しく働きながら、幼稚園や小学校を往復して私を育ててくれた。その大変な経験を参考に、会社内に保育施設を設置したそうだ。これが女性社員に大歓迎され、優秀な社員が定着する理由の一つとなったという。その時既に小学生になっていた私は、そこに通った事はないのだけれども。
母さんの秘書の石堂さんは力持ちでカッコイイ。私は幼い頃からずっと『彼と結婚する! 』と主張していた。
普通は『お父さんと結婚する! 』と宣言するのが定番かもしれないが、父さんはあくまで私の『父さん』だ。大人びた物言いをするとよく指摘される私は、その辺りちゃんとわきまえている。父さんは大好きだけれど、結婚相手には考えられないもの。
けれども石堂さんの母さんを見る視線に込められている特別なものに気が付いてからは、そう言った事を冗談でも口にしなくなった。
私の母さんは綺麗で優しくて、強い人。彼女の輝きは内側から発するものだ。三十代後半なのに二十代にしか見えないと驚きを露わにする人も多い。それは外見だけでなく、その溌溂とした表情と精力的な働きぶりによるものが大きいと思う。やはりダテに美容品会社の社長は張っていない。彼女は会社の統率者であると共に、広告塔でもあるのだ。そして外面の美しさを凌駕するほどの魅力を内面に湛えているのは、一度でも面と向かって話をすれば気が付かない人はいないと思う。
ああいうのを『カリスマ』というのかな。
私の中にはそんな不思議な魔力のようなものは微塵も秘められていない。母さんに比べて私は……若いのが取り柄なだけの、平凡な女子中学生。プラス若干地味でもある。
幼馴染の航太郎など、母さんに会うといつも別人のようにポーっとして顔を真っ赤にしているのだ。私とゲームをしている時は服の中に手を入れてボリボリ背中を掻いているようなヤツが、だよ? しかしそんな光景にも腹が立たないほど、私も母さんが好きだし自慢だったのだ。
父さんは私が幼い頃、主夫をしていたという。だけど離婚した後に再就職したそうだ。で、当時走り始めたばかりのベンチャー企業をあっという間に一部上場企業に押し上げてしまった。今では年若い社長の右腕というか、両腕のような存在になっているそうだ。と、言うのはその社長から聞いた話。父さんはそう言うこと全然私に説明しないから、小さい頃は父さんがどんな仕事をしているのかも、分かっていなかった。
父さんと母さんがなぜ離婚したのか、私は知らない。彼等の仲が険悪だった記憶など、さっぱり無いからだ。一度だけ父さんと離婚した理由について、母さんに尋ねた事がある。母さんは淋しそうに笑って「私を助けるために家事と育児を担当してくれていたのだけど、彼は本当はお仕事がしたかったの。家庭に縛り付けるのには勿体無い人だったから」と応えた。でもそんなことが―――離婚の理由になるだろうか? 共働きの家庭だって、世の中には沢山ある。
ただ私には、それ以上深く追及する事はできなかった。両親が纏った空気を読むことは既に私の特技と言っても良い。そうじゃないと、優しいけれど多忙な二人とはきっと擦れ違ってしまう―――そういう恐怖心があったから、物分りの良い子供に育ってしまった。
『うちのママって本当に心配性! うるさ過ぎて昨日喧嘩しちゃった! 』なんて愚痴る友達の話に笑いながら相槌を打つ。だけど親と遠慮なく喧嘩が出来るんだなって、正直とっても羨ましくなる。仲直りできる時間をたっぷりと持てるんだよね、いいなぁ……って。ただでさえ貴重な親子の時間を喧嘩や気まずさで消費する余裕は、私には無いから。
とは言え、両親に対しての不満と言えばそれくらいしかない。二人の愛情に包まれて、私は比較的呑気にすくすくと育ったのだ。
離婚した家庭や再婚した家庭の子はクラスでも珍しくないし、その中でも私は比較的、経済的にも恵まれていて優しい大人達に囲まれて育った幸せな部類に属するのだと思う。現に幼馴染の航太郎など、父親とはほとんど口をきかないと言っていた。
父さんと月二回のデートの日。当然の事だけれど、私はいつも張り切ってしまう。動物園に行ったり遊園地に行ったり、ショッピングを楽しんだり映画を見たり。普段は仕事ばかりであろう父さんの休日を独り占め! 土日は大抵お泊りだから、たっぷり遊んだ後は彼のマンションでのんびりする。
これまで全く反抗期と言うモノが無く、世に言われるように父親を気持ち悪いと感じる事も無いまま、中学校に入った今もずっと私達父娘は仲良くしている。もしかしたら両親が揃っている家庭よりも、親子間に限定すれば関係は良好だと言えるかもしれない。
私は身長も平均より高くて、最近のデートでは母さんの服を借りる事も多い。だから大人っぽく見られるらしい。一方父さんは、優し気な顔立ちをしていて比較的若く見られがちだ。一度取引先の人だと言うおじさんにバッタリ出会った時なんて、恋人に間違われた。『娘です』って自己紹介したら、随分と驚かれたっけ。
そのことはなんだか誇らしくて、得意気に航太郎に自慢してしまった。彼は鼻で笑ったが否定はしなかった。だけど『お前、老け顔だもんな』は無いと思う。
時々父さんがデートの間、無言で私を見つめていることが多くなった。
そんな時、父さんが見ているのは私では無いと……なんとなく気が付いている。
父さんは私を通して、母さんを見ている。
愛おしげで切なげな眼差しを察知する時、私の心臓はドキリと跳ね上がる。
たぶん私の推理は外れない。私は両親が醸し出す空気を読むことについては、プロなのだ。父さんはまだ母さんを好きなのだと思う。おそらく別れる前からずっと。そして、別れてからも。
月二回の逢瀬じゃ、普段の生活なんてほとんど推し量れやしない。けれども父さんのマンションに女性の痕跡は皆無だ。私の目が節穴なら、若しくは父さんがバツグンに誤魔化すのが上手であれば、見落としている可能性もあるのかもしれない。今付き合っている女性がいたとしても正式に結婚する目途が立たなければ、父さんは私には打明けないだろうとも踏んでいる。だけど……なんとなく。父さんには彼女はいないだろうな、と感じていた。
優しいし、背が高くてカッコイイ。そして仕事もできる!
そんな父さんは十分に優良物件だと思う。
私って言う中学生の娘がいるのはマイナス要素かもしれないけれど、別居しているからあまり邪魔にはならないと思う。会社ではたぶんモテているのだろうな。社長さんもそんな感じの事を言っていたし。だから、独り身でいるのは勿体無いのだ。
正直に言うと、父さんに私より大事な存在が出来るのは、面白く無い。でも嫉妬は感じるだろうけど、もう中学生だし? 私もいつかはきっと誰かと結婚する。―――結婚できると良いなって思う。コホン、つまりまだアテはないけど『そういうつもり』だから、父さんの幸せも祝福したいと心の準備を徐々に重ねてきたんだ。
というかちょっと早いけど、一人娘としては父さんの老後が心配だ。いや、お嫁さんが来なかったら、自らお世話する気はあるよ? 母さんと父さんの家、行き来して頑張るし! 世の中色んなサービスも充実しているだろうから、そう言う助けを借りつつ頑張ろう、うん。
だけど一緒に皆で同じ家に暮らせたなら―――もっとずっとお世話も楽なんだけどな? そう言ってお父さんを強制的にウチに呼び寄せようか。そう言うのって駄目かな?
父さんのマンションと、私と母さんの住むマンションはそんなに離れていない。母さんの本心は量れないけれど、父さんを悪く言った所は見たところが無い。
仕事が恋人で、いまだに独身の母さん。常時ビジネスライクな態度を貫いているけれども、私の初恋の人、母さんの部下の石堂さんは母さんに好意を持っていると思う。母さんがその気になれば、すぐにでも素敵な彼氏か旦那様を捕まえる事ができる状況なのに、そうしないのは―――母さんは男の人にもう興味を持てなくなってしまったと言うことなのだろうか。それとも忙し過ぎて、そう言うことを考える暇が無いのかな?
私の見る限りでは、これまで母さんは石堂さんと恋仲になることは無かったと、思う。
まあ、石堂さんの気持ち自体、私の推測の域を出ないのだけど。大人は本心を隠すのが上手で、まだ中学生の私がそれを察するのは難しいのかもしれない。
石堂さんと母さんが付き合う事に喜びこそすれ、私が反対する理由は無い。もし付き合っているとしたら、隠す筈は無いと思う。……まさか『石堂さんと結婚する! 』って宣言した幼かった私の乙女心を、母さんがいまだに慮っている訳では無いよね? もしそうだったらどうしよう……こう言うのってちゃんと否定しておいた方が良いのかな?
たぶん毎日傍にいた父さんが突然いなくなって、幼い私はとってもとっても寂しかったんだと思う。だから一時期仕方なく送り迎えをすることになってしまった石堂さんに懐いちゃったんだと思う。勿論寡黙で背が高くて筋肉質でがっちりした体格の一見コワモテに見える彼がとっても優しい人だって知っているからこそなんだけど。今も『大好きな人』であることには変わりないのだけれども。
んー……微妙に母さんなら娘の恋心を気にして遠慮って言うのも、ありそうな気がする。変な所で純情というか、おっちょこちょいというか。思い込みが激しい所がある人だから。バリバリ仕事をしている母さんを何かの拍子に目にすると『別人? 』って、思ってしまうくらいだし。
基本的に石堂さん推しの私なのだけれど―――もちろん大好きな父さんと母さんがヨリを戻してくれるっていうなら、こんなに嬉しい事は無い。
だから、私はつい妄想してしまうのだ。
三人で朝ご飯食べたり、DVD見たり散歩に出掛けたり。
楽しいだろうな。幸せだろうな。
そんな想像をしていると、プライベートでちょっと抜けている母さんをフォローする父さんが目に浮かぶようでにんまりしてしまう。そうだ、それは本当にいいことだ。私も二人纏めて老後の世話を出来て、非常に好都合ではないか。そうすればお墓参りも楽だし……って気が早すぎ? でも一人っ子だから、そう言う先の事も気になってしまうんだよね。
と、遠すぎる将来の心配を呑気につらつら考えていた私は、かなりお気楽な幸せ者だったと思う。
** ** **
「じゃーん! 」
なんと私は餃子を作れるようになったのだ。母さんの唯一と言って良いほどの得意料理を伝授してもらった。短い休日を利用して。
「すごいじゃないか。満がこんなに上手に料理できるなんて、もっと早く教えてくれれば良かったのに」
「スゴイでしょ? 我ながら、自信作だよ。でも、最近やっとまともに包めるようになったばかりなんだ。だから今日、初めてお披露目することにしました」
「食べていいか? 」
「もちろん! 」
私達は手を合わせた。小さい頃から繰り返し、体に染みこんだ仕草。リズムがぴったり一緒なの。これだけは、家族みんな共通したルールを守っている。この些細な習慣が、バラバラに暮らす人間が確かに家族であったという証なのだと発見した時は胸の奥がギュッとして、泣きそうになった。
「「いただきます」」
声を合わせて笑い合い大きな皿に並んだ手作り餃子に箸を伸ばす。ぱくり、と頬張ると肉汁がじゅわっと染みだした。うん、合格点! やはり熟練するまで辛抱した甲斐があった。今までで最高点のデキかもしれない。
父さんも笑顔でモグモグと、餃子を美味しそうに頬張っている。だけど不意にその表情から、デフォルトの笑顔が消えた。
「これは……」
「どうしたの? ……もしかして、何か入っていた? 口に合わない? 」
私が心配になって覗き込むと、父さんは視線を彷徨わせて、口籠った。
「いや、すごく美味しいよ……すごく……美味しい」
ボンヤリと、美味しいと繰り返す様子に動揺が見えた。餃子に落とした視線を辿ると、その瞳がゆらりと揺れた気がした。
「そう、良かった」
私は無邪気ににっこりと笑って見せる。少し訝しく思ったけれども、今のこの明るい空気を壊したくない。父さんに言う気が無いなら、追求してはいけないと思った。我ながら物分り良すぎて可愛げないな、と思うけれど。
そしてしばらく二人で黙々と、餃子を堪能する。
テレビを付けていて、助かった。バラエティ番組でMC芸人のコメントに噴き出したり突っ込みを入れて笑い合ったりしている内に、次第に食卓に漂っていた緊張感が、キツイ結び目がほどけるように緩んでいったから。
一泊した翌朝、買い物に出かけた。父さんが服と靴を買ってくれる。大変有り難い。年頃の女の子にとって、可愛い服と靴は幾ら貰っても貰い過ぎる事が無い大正解のプレゼントだ。
帰り道もいつも通り、父さんの車で送って貰った。
「満」
マンションの前で助手席から降りようとした時、父さんが私を呼びとめた。父さんはハンドルを握りしめ、まっすぐ前を見たまま、こう言った。
「あの餃子……母さんに習ったのか? 」
「うん、そう。母さんの唯一の得意料理。ついに継承しました」
にこりと笑ってみせると、私の顔に目を向けた父さんの瞳がゆらりと揺れた。どうしても堪えきれず確かめたくなって、普段は触れないようにしている聖域に手を伸ばしてしまう。
「……味、覚えていた? 昔、母さんが作った事があるの? 」
「ああ。不器用だったけど、これだけは間違いなく美味しくって……一週間、連続で餃子だった日もあったな。会社を作る前はよく作ってくれた」
その時の父さんの顔と言ったら。
うっとりと夢見るようで。とても幸せそうに笑ったのだ。そんな表情を私は初めて目にしたかもしれない。少年のような、無邪気な屈託の無い笑顔。これまでの父さんの優しい微笑みとは、少し違う、全開の無防備な……。
間違いない。やはり父さんは、今でも母さんを愛している。じゃあ、何故……? それならば、何故顔すらも合わせようとしないの?
「父さんっ! ……あ、あの、うちに寄っていかない? お茶でも飲んで……今日は母さん、家にいる筈だから。ちょっとだけでも……」
その途端、ふっと父さんの顔からその無邪気な笑顔が消えた。父さんは笑顔を崩してはいない。けれども、もう既にそれは私がいつも見る薄い切なさのヴェールを被った、少し痛々しいものに変わってしまった。
「いや、このまま帰るよ。明日仕事もあるし。満、料理美味しかったよ。またな」
ああ、やってしまった……! 私のバカ! せっかく楽しい空気でお別れする所だったのに、不用意な台詞で壊してしまった。私は悄然と項垂れる気持ちを必死で立て直し、笑顔を作った。
「そう……分かった。送ってくれて、ありがとう。またね」
「ああ、また」
そうして車を走らせるその後ろ頭に、手を振って別れる。
車が建物の影に消えた後、その手を下ろした。ゆっくりと下げた手には力が籠らず、握りしめる事さえ難しい。
あんなに愛しそうに母さんの記憶を振り返るのに。
他の人と再婚もしないで。
どうして父さんは、母さんと顔も合わせようとしないのだろう? 仕事人間の母さんに愛想を尽かしたというのなら、離婚の原因は分かりやすい。でも……それだけでは無い。そんな気がする。
私にはわからなかった。
好きな事、好きな人。嫌いな事、嫌いな人。
それぞれの間に、私にとっての明確な線引きがあって、複雑に絡み合う事情や感情なんて、存在する事さえも理解できなかった。
好きだけど、嫌い。嫌いだけど、好き。
そんな不明瞭な心情は、本当の恋を経験した事の無い、私には縁の無いものだったから。
なぜ好きなのに、一緒にいられないのだろう。
愛情を請うために、挑戦してみないのだろう。
ダメモトでも、やってみる価値は無いのだろうか? もし成功すれば、三人の幸せな暮らしがまた始められるかもしれないのに。