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夫、悠馬(ゆうま)

注!)お話の内容を不愉快に思われるかもしれません。不安に思われる方は回避してください。

 僕が主夫になったのは、ただ彼女の支えになりたかったからだ。


 幸いにも良い大学を卒業して日本有数の大企業に勤めていた僕は、自分で言うのも何だが、将来を嘱望された出世頭であったと思う。だからこそ、彼女の才能の素晴らしさを素直に評価する事ができたと言っても良い。僕の事を優秀だと評してくれる人は多かったが、それはきちんと努力を積み重ね論理的な方法論に沿って行動すれば誰でも獲得できる類のものであるとわきまえていた。


 彼女はそれほど良い大学を出ていない。何百枚も履歴書を書いて何十社も面接を受けたが、彼女の採用を決断した最初で最後の一社は、小さな食品会社だった。だけど大変な思いをして入社したその会社も、結局妊娠で退職せざるを得なくなる。


 そして馴染み始めた社会生活を失い、家庭に引きこもっていた彼女がコツコツと投稿したブログが人気を博したのはその約一年後のこと。乳飲み子を抱えながら独自の美容品ブランドを立ち上げ、その通販会社は三年で二百人の雇用を生み出す企業へと成長した。


 彼女のアイデアは泉のようにコンコンと湧く。僕は仕事に飽くなき情熱を捧げているその様を、誰よりも近い場所で見てきた。大企業で良質な歯車となるのは僕でなくとも良い。だけど彼女の仕事は、彼女にしかできない貴重なものだった。


 だから僕は、家庭に入る選択した。


 自分の稼ぎを得る能力に自信があったから、主夫になる事に対する劣等感は全く無かった。僕はパートナーを大きな気持ちでサポートしているのだ。だから、引け目に思う事は無い。そういう選択を躊躇なく選べる自分を誇りに思ったし、周囲の大企業にしがみ付く男達に対して、優越感さえ持っていたかもしれない。


 けれど実際主夫となり数年が経過すると、徐々に割り切れない感情に悩まされるようになった。


 娘の誕生日という我が家の大事な行事を削って、取引先の接待に出席する妻。帰宅しベッドに潜り込んで来る酔っ払いからは、アルコールと煙草の匂いがした。もともと健康志向の彼女は、仕事柄も煙草を吸わないし嫌煙家でもある。だから僕も煙草を吸わなくなった。おそらく取引先の誰かが吸っていただけなのだろう。そしてその相手はおそらく、男性なのかもしれない。文句を言わない彼女は正しい。だって取引先の相手に嫌われたらこの先の商売に支障が出るかもしれない。だけど僕には許されないその行為を、他の男に許しているのだと思うとモヤモヤと胸が苦しくなった。相手は女性かもしれないのに。


 例えその相手が男で、更に言うと彼女好みのイイ男だったとする。だけど一途で真面目な彼女は浮気に興じられるような性格では無い。付き合い始めた時の彼女はひどく奥手だった。仕事での積極性に比べて、男女関係についてはひどく潔癖である筈だ。それは十分に分かっている。

 仕事に追いまくられて寝る暇も無いんだ。その接待だって社長として、大事な仕事の一つなんだ。ビジネスマンとして一線で働いて来た自分には、それは痛いほどよく理解できる。


 けれどもその日は、娘の誕生日だった。事前に何度も念を押したのにそれを忘れ、連絡も無く酔っ払って帰ってくる彼女に、焼け付くような気持ちを抱かずにはいられない。


 自由に仕事に打ち込めるのは、誰のお蔭だと思っているんだ? 仕事を免罪符にすれば、毎日子供の相手をして社会から切り離された僕と娘を蔑にして許されると思っているのか。好きな仕事にのめり込む、堂々とそれができる環境を当たり前に享受して後ろを振り返らない事に少しも疑問を抱かないのか? 


 溜まりかねてある朝、誕生日の約束があるのに何故一言連絡くらい寄越さなかったのかと告げた。すると彼女は「ごめんなさい! 」と両手を合わせた。その申し訳なさそうな表情を目にして、嫌味な事を言ってしまったと罪悪感が疼く。しかし舌の根も乾かないうちに「あのね、聞いて! ○○社と契約できたのよ! ずっと目標にしてきたから、ついつい飲み過ぎちゃって……」と明るく告げる彼女に―――内心呆れてしまった。


 常に家庭を一番にしろとは言わない。しかし、娘の大事な記念日くらい覚えていられないのか。一言連絡入れる事もできないのか。そして謝った直後に仕事の話を、自分の成果を自慢する必要があったのか……? 僕だって仕事をしていた時は成果を上げていた。だけどそれは今は出来ないんだ。全て君の為だ、君を支える為に家庭を守り娘の世話をしている。だからこそ君は明るい世界で活躍できるのだと言う事を、忘れているのじゃないか? 先ず自分の手柄を自慢する前に、その事を思い出して欲しい。


 僕は疲れていた。そして、僕のプライドはズタズタに傷ついてしまっていた。何よりも、自分がそんな些細な下らないことで傷つき、愛する妻を内心罵倒してしまうような小さな人間だったという事実が、僕を言いようのない底なし沼に突き落としたのだ。


 僕は本当の所、彼女を見下していたのかもしれない。


 そこそこの大学しか出ていない、面接で上手に相手の懐に入る事も出来ずに良い企業から相手にされない、一所懸命だけどおっちょこちょいで―――そんな彼女が躓かないように、世話をしてあげるつもりだった。そして、彼女は常にその僕の献身に感謝する筈だったんだ。


 それなのに予想以上に彼女は会社でしっかりと役目を果たし部下にも慕われ、事業は成功を収め更にどんどんその規模を拡大させている。彼女の会社が取り上げられた経済番組を目にしたとき、軽いショックを受けた事を鮮明に覚えている。そこにいるのは非の打ち所が無い、完璧な若き指導者だった。


 きっと僕が仕事を辞めなくても彼女は立派に成長していたことだろう。そして必死に努力する僕を尻目に、その脇に用意された特別性のレーンを使って軽々僕を追い越して行ったに違いない。


 僕は追い越されたくなかっただけなのではないか? 彼女への優越感を失わない為に、早々に戦線を離脱して―――身を引いた振りをしたのかもしれない。




 もっと広い心で彼女を支え、娘に寄り添い、二人をおおらかに見守ってやりたい。心から、そう思っているのに。




 公園のベンチ、定年退職した老人が日向ぼっこをする隣に座り、ぼんやりと娘が遊ぶ様子を見ている時。ちょっとした息抜きにカフェでコーヒーを飲む横で、議論に興じるビジネスマン達の会話を耳にする時。―――言いようのない不安が押し寄せて来る。

 幼稚園の送り迎えでママ友の集団に捕まる。話題はいつも下らない事ばかり。その場にいない母親や若くて可愛い保育士を槍玉に上げて、楽しそうに残酷な噂話に興じる主婦達には、もううんざりだった。




 『春香』に出会ったのは、そんな時だ。




 彼女も、主婦達の楽しそうな陰口にうんざりしていた。気の優しい、目立たないが柔らかな風貌の専業主婦。女子高、短大と女性の王道ルートを経て見合結婚をしたそうだ。彼女の夫は仕事で忙しく、海外を渡り歩くため数ヶ月帰宅しないこともざらだった。

 春香の素朴な性質は好ましく、顔を合わせるたび言葉を交わすようになった。彼女の息子と僕の娘は相性が良いようで、公園などで一緒に遊ばせる機会も増えて行く。


 ある時、彼女の浮かない様子が気になった。話したく無かったら話さなくて良い、と前置きをした上で尋ねると、彼女の夫の浮気相手から電話が掛かって来たというのだ。その電話の主は取り乱した若い女の声で『子供ができたから別れて欲しい』と訴えて来たそうだ。

 しかし彼女の実家とその夫の実家は結婚を機に取引を密にしており、仕事人間の彼がこの結婚を解消するとはどうしても考えられない。実際、以前同じようなトラブルがあったのだが、その時も彼女の夫は金で解決したそうだ。そして若い女性の訴え―――子供ができたというのも事実かどうか定かでは無い。

 見合い結婚で激しく愛するという感情は無かったけれども、新婚当初は夫も優しかったし彼女は誠一杯妻として頑張って来た。しかし彼女が妊娠した後、徐々に女の影がちらつくようになったという。浮気の事実を認めたく無くて直接抗議できずに悩むうちに、彼女の心は自然と、徐々に夫から離れて行った。


 気持ちの乖離が決定的になったのは、息子が熱性けいれんを起こし救急車で運ばれた時だった。


 何度も留守電を入れメールを送った。会社に連絡も入れたが行方が判らず、病院で問題無いと診察を受けた後も、表情を失くした息子がぴくぴくと不規則に跳ねる様子が頭にこびり付いて離れず、彼女は一人、息子を失うのではないかという恐怖に震えていた。

 どんなに遅くなっても良いから連絡があれば安心できるのに。いつも一緒に居なくても、今だけこの危機の時に駆けつけて手を握ってくれたら―――そう願い続けて夜が明けた。


 その朝漸く電話を掛けて来た彼は、昨晩の出来事を知って『仕事で連絡できなかった。すまなかった』と、彼女に謝ってくれた。気持ちを持ち直そうとしたその時、夫の後ろから楽しげにその名を呼ぶ女性の声が聞こえた。それは明らかに親しさを滲ませた……牽制を含ませた『うっかり』を装った絶妙なもの。


 その途端、夫が電話を切った。


 口がカラカラに乾いて、息が苦しくなった。心臓が苦しい。

 けれども、こちらから掛け直す事は出来なかったという。


 やや暫くして、彼から電話が掛かって来た。背後から女性の気配は消えていたが、気遣うような口調の裏に後ろめたさが隠れているのがありありと感じられた。その時微かに彼女の中にあった彼への親愛の情は、欠片も無くなってしまったのだという。




『貴方たち夫婦が羨ましい』と彼女は言った。




 お互い愛情を持っていて、僕は妻を人間として扱い尊重している。少なくとも自分の夫と違って、道具のように相手を遇することはないのだろう、と。


 貴方は素晴らしい夫だわ。男らしくて、愛情深い。本当の男らしさは、そういうものだわ。


 久し振りの手放しの称賛に、少々居心地の悪さを感じつつも僕の胸は温かいもので満たされた。善行とはただ行われるもので、人に認められずとも自分が承知していれば良いものだと―――ずっとそう信じていた。誰かに認められ、称賛される必要は無いのだと思っていた。

 しかし日陰の身になった今、自分を認めてくれる他人がいるということが、社会に承認されている証のように思える。乾いてひび割れた大地が水を貪り食うように、春香の言葉が僕の体に染み渡るのを感じていた。


 そして狂おしいほどそれを―――自分が求めていたのだと、気が付いた。


 一線を越えるのは、想像していたより呆気無かった。子供達を幼稚園に送り出した後、彼女からメールが届いたのだ。


『遊びに行っても良い? 美味しいクッキーをいただいたの』


 予感が無かったわけじゃ無い。


 だけど、きっと何も起こらないだろう。おしゃべりを終えて彼女が帰った後、僕は自意識過剰な自分に苦笑いする―――そういう展開が目に浮かぶ。そう自分に言い訳をして、彼女の申し出を了承した。

 そわそわと落ち着かない空気を味わいながら『また公園で』と言って笑って送り出す。期待して妄想してしまった事なんて、実際起こる筈が無い。そうに決まっている。僕はそこまで馬鹿じゃない。妻のことを愛しているし家族が大切だ。こう言うことは一度でも踏み出してしまえば、痕跡を消し去る事は難しい。


 そうした過ちの末、道を踏み外し出世コースから外れていく同僚を何人か見ていた。会社で失墜しなくても目敏い女達は男の行動に嗅覚を尖らせていて、秘密の情事がばれた末に、家庭内離婚に発展した事例を幾つも知っている。居心地の良さを失った家庭についての愚痴を言い続ける者を『自業自得だ』と心の中で揶揄していたのを思い出す。不倫の代償又は報酬として離婚し新しい妻を得た上司もいたが、慰謝料と養育費を負担し出世コースから外れた総務課の窓際で、枯れ木のように目立たず過ごしていた様子は見るも無残なものだった。


 何故そうなる未来を分かっていて道を踏み外すのか、理解できなかった。

 妻を愛しているなら、欲望を押さえる工夫をするべきだ。ちょっと抜けていて頑張り屋の妻の、信頼を手放すなんて僕なら考えられない。きっと彼等はそこまで愛する相手に巡り合えなかったのだな、と同情の念すら抱いていた。


 しかし春香の濡れた瞳に見上げられ、僕はあっさりと陥落してしまったのだ。


 そういえば、妻と三ヵ月以上触れ合っていなかった。だから、抑えが利かなかったのだろうか? ……心の底でずっと、彼女に対して意趣返しをしたいと望んでいたのだろうか? 


 僕は額に汗し春香を熱心に揺さぶりながら、溜飲が下がるのを確かに感じていた。久し振りに胸がすくような思いがして―――その時自分は男としての自尊心を取り戻したのだと体中で実感したのだ。……それは、ただの錯覚だったのかもしれないけれども。


 それからは驚くほど、罪悪感も無く逢瀬を重ねるようになった。


 日付が変わってから帰って来た妻に久し振りに誘われた時「眠たいからまた後で」と言って背を向ける。妻は少し寂しそうに笑って、壁を向いて丸くなる僕の背中に抱き着いて、迷子になった子供のようにぴったりと頬を寄せた。


 彼女に応えられなかったのは、決して睡魔に抗えなかったからでは無い。また、昼間の情事で満たされていたからでも無い。他の女との行為に慣れ切った証拠が―――自分がそれとわからないうちに刻まれた痕跡が、彼女に見つかるのではないかと怖れたからだ。


 妻は「ごめんね」と言った。僕に気を使わせないよう、柔らかな口調を心掛ける温かな存在が……愛しくて悲しくなった。




 謝るべきなのは、僕の方なのに。




 僕は浮気の罪悪感から、彼女に苛々をぶつける事が無くなった。おおらかになった。だから『これで良かったのかもしれない』そう思い始めていた。

 彼女の仕事に掛けるべき時間を邪魔して足を引っ張る行為は、自分のプライドにかけて行いたく無かった。だから鬱屈を外で発散して、結果家庭が円滑に動くのは好ましい事のように思えてきた。


 妻は働き、僕は家庭を守る。円満な家庭を維持する為に、不満は妻にぶつけずに他で解消する。それが二人の為、家族の為であるような気すらしてきたのだ。




 こうなって改めて、悟った。

 僕はまだ、妻を愛している。




 まるで辛い仕事に愚痴を言い合う同僚のようだった春香に、友情のような淡い思慕を抱いていた。けれどその淡い恋のようなときめきは、彼女が僕を誘ったその瞬間、最初に関係を持ったその日に消えてしまった。僕は最初、それを罪悪感がもたらした副作用のようなものだと考えていた。ただの違和感のようなものであると。


 しかし違ったのだ。暫くしてその違和感の正体に思い至った。

 僕は彼女に失望していたのだ。


 僕は彼女を、もっと誠実で貞淑な被害者だと思っていた。だからこそ同情し、淡い思慕にも似た親しみも抱いていた。しかし彼女から誘いを受けた時、その同情も親しみも恋情を微かに含んだ友情も消え去ってしまった。


 だけどあっさり欲望に流された罪悪感から、その感情に蓋をしていたのだ。最低な自分の行いを棚に上げて、自分が春香を見下しているという事実を受け入れたく無かったからだ。


『ああ、君も世の中に沢山いる、大事なものを大切にできない人間の一人だったんだな』と、逢瀬を重ねるたびに彼女への失望を深める。しかしそれはそのまま僕にも当て嵌まることだ。




 出張のため妻を迎えに来た彼女の部下が、物問いたげな表情で僕を見ているのに気付いたのは、そんな時だった。

 胸がざわついた。後ろめたい人間は、常に猜疑心を抱かずにはいられないのだ。その彼と二人きりになる機会が巡って来た時、彼は僕にこう言ったのだ。「彼女は身を粉にして働いている。あのような才能を持っているのは、一握りの特別な存在だ。彼女は支えられ、励まされるべき人間だ―――決して貶められて良い人間では無い」と。その瞳には火山の下に蠢く溶岩のように、一瞬で存在を滅してしまうほどの熱が込められていた。


 彼は、僕の不貞に気付いている。


 その事に一言も触れていないが、僕にはそれが判った。彼は僕を牽制しているのだ。彼女を支えられない人間であれば、許さないと。そして、自分が取って替わっても構わないのだと、彼の瞳が言っていた。







 多忙にも関わらず、妻はいつも家庭では明るかった。相変わらず約束は覚えていないけれども、娘が泣いても笑っても苛々する事は決してない。時間が許す限り彼女に根気強く接し、僕に笑い掛け、下手な冗談を言った。仕事での愚痴が少し漏れる事もあったが大抵それを笑い話に仕立て上げ、面白おかしく話すことを彼女は怠らなかった。

 それは妻が身を引いて彼女に尽くす僕に感謝し遠慮していた故の事だと、僕は知っていた。




―――知っていたのに。







** ** **







 その日、僕と春香は少し小綺麗なビジネスホテルを利用した。


 彼女の誕生日だった。彼女の夫は子供が産まれて以来、その記念日を無いものとして扱っていたという。不倫相手の誕生日には、ネックレスと花束を贈ったのに。


 彼はうかつにも領収書をジャケットに残していた。春香がジャケットをクリーニングに出した時、業者が内ポケットを探って見事に掘り当てたのだ。『素敵な旦那様ですね』と褒められた彼女は曖昧に頷くしかなかった。不倫相手の誕生日は彼女の誕生日の翌日だったらしい。注文票に女の名前と誕生日がメモされていた。それは、以前電話を掛けて来た女性とは違う相手のようだった。


 明るい内にこんなホテルを利用しようと強請るなんて、彼女も自棄になっていたのだろう。

 最近の僕は、彼女との関係を解消しなければと強く思うようになっていた。しかしできれば穏便に、このまま何も無かったかのように関係が自然消滅してしまわないだろうか、などと都合の良い事を考えていた。彼女の誘いをやんわりと避ける事が次第に多くなる。

 けれども彼女に夫の失態を告白され泣きつかれて、久し振りに僕も彼女に同情してしまった。だから、危ない橋を渡ったのだ。こんなに無防備に出歩いたのは初めてだった。だけどそこは、僕等の住むエリアからも妻と彼女の夫の通常の行動範囲からも外れた場所だった。


 幼稚園の迎えの時間が近づき慌ただしくホテルをチェックアウトしたその時、ホテルに併設されているレストランから出てきた妻と鉢合わせした。その時僕はなんと言い訳したか、全く覚えていない。迎えの時間が近いからと、その場を逃げるように後にした事以外は。


 妻の、表情がすっかり抜け落ちた顔が頭に焼き付いて離れない。

 何故かその双眸に―――怒りは見受けられなかった。




 浮かんでいたのは。




 ただ、何とも言えない悲しみだけだった。

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